― 3 ―

 青葉は桜が好きだった。


 青い空と目に映える桜色を仰ぎ、両手を上に感嘆の声を上げる青葉。真っ白い顔をクシャッとさせて笑い、薄茶色の髪を風にたなびかせた。

 そんな一本桜は今や、深緑が目に痛かった。


「う~ん……」


 遠くカメラを構えて、海斗は眉間にシワを寄せる。

 炎天下、額に浮かぶ汗が鬱陶しい八月の真っ昼間。大きな桜の木にピンク色の影は微塵もない。

 瓶底ちゃんは海斗とは別の場所でカメラを構え、片膝を立てて何枚もシャッターを切っている。膝丈のスカートから覗く小麦色に焼けた足。


「瓶――夏樹ちゃん、海斗の手伝いとかしねぇの?」


『瓶底』と言いかけた俺を眉を寄せてきつく睨みつける。けどすぐに、カメラを構える海斗に向き直り、すぅっと目を細めた。


「手伝う必要なんて、ないです。先輩も海斗を信じていて下さい」


 夏が彼女を変えた、か。愛おしそうな目をしやがって。

 再びカメラを手に、瓶底ちゃんは撮影場所を移動する。その視界に海斗がいる場所を選んで。


「だいたい桜の花なんて……こんな緑一色なのに……どうしろって……」


 頭を掻きむしり、海斗は難しい顔で桜の木の周りをグルグルと歩き回る。城跡の散策に来た男女が、訝しげに海斗を見て足早に立ち去る。

 目に染み入る緑の陰影が、俺の胸に深く刺さる。痛い。桜の木を見て胸を痛めるなんて、自分がそんな情緒的な人間だなんて思いもしなかった。


「クソッ、これが全部ピンク色だったら良かったのに」


 地面を蹴り、思わず悪態をつく。俺からだいぶ離れた場所で、海斗が勢いよくこっちを振り向く。


「今、何て言った?」

「は?」

「全部ピンク色だったらって言ったよな?」


 聞いてるんじゃねぇか。

 涼の足し程度にもならない微風に、微かに揺れる桜の木を見上げながら、海斗が突然走り出す。右回り、左回り。そして、ある一点でピタリと足を止めた。


「ここだ!」








 桜子は桜が嫌いだった。


「桜なんてなければよかったのに」


 陽も傾き薄暗くなった一本桜を見つめ、桜子は苦々しく唇を噛み締める。

 話しかけてもまるで無視。国語科研究室に呼び出しても逃亡。それでもへこたれず声をかけ続け、やっと桜子を捕まえたのは、城跡の、桜吹雪が舞う一本桜の前のベンチだった。

 入学式の頃には一面ピンク色だった桜も、若い緑が外灯に映えていた。


「自分の名前だろ?」


 初めての会話らしい会話に気の利いたセリフが言えなかった自分が、どこまでも滑稽に思えてくる。

 馬場に点在する外灯の下、ベンチの背もたれに寄りかかり、桜子はやっと俺を一瞥する。暖色の明かりにキラキラと光る薄茶色の髪を揺らして、冷たくも見える視線を送る。


「私、桜が嫌い。自分の名前も大嫌い」


 俺を試すように見つめるその瞳に、暗い影が宿っている。

 見れば見るほど似ている。髪の色もその雰囲気も、青葉にそっくりだ。


「その髪、地毛、か?」

「そんな訳ないじゃん。ホント、ガッカリ」


 深い溜息をついてフッと顔を伏せる。

 言葉を選びに選んで口にしたつもりが、桜子を呆れさせてしまったようだ。


「す、すまん。そうだよな。地毛な訳ないよな」


 青葉の髪は地毛だった。桜子の髪が地毛だったらなんて思った訳じゃない。ただ、その髪を見ていると青葉を思い出し胸が締めつけられる。


「春川はなんでこんな所にいたんだ?」


 桜子を捕まえたと言っても偶然だ。ずっと足を運ぶことが出来なかったこの場所に思わず立ち寄ってしまったのは、桜子に青葉の面影を重ねてしまったからかもしれない。


「桜は嫌い。花の死体なんて見たくない」


 舞い散って、土で汚れて、萎れた桜の花弁を見下ろして、吐き捨てるように呟く。

 花の死体――か。確かに、散った桜は決して綺麗なものじゃない。


「けど、ここは大切な場所だから」

「奇遇だな。ここは俺に取っても大切な場所なんだ。もう何年になるかな? ひとりの女の子に満開の一本桜を見せるって約束してな」


 桜子の隣に腰を下ろし一本桜を眺め見る。

 大切な場所。忘れもしない、青葉との約束。

 桜子にこんな話をしてもしょうがない。それなのに、チラリと桜子に視線を移すと、彼女は目を見開いて真っ直ぐ俺を凝視していた。


「……何で?」

「え?」

「じゃあ何で来なかったのよ!」


 瞳いっぱいに涙を溜めて俺をきつく睨みつけると桜子はあっという間に走り去ってしまった。

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