失踪予定

長埜 恵(ながのけい)

第1話

 まず、これを読んでくれた人へ。

 私は、近々失踪しようと考えている。

 何、さほど大袈裟な話ではない。

 ただ、君の目の前から一人の人間がいなくなるだけだ。

 八十億近い人間の中から、ぽつんと一人いなくなるだけの話なのだ。


 しかし、失踪するにも場所が必要である。

 A地点からB地点に到達する。私の場合、このA地点はあれどB地点が定まっていない。


 さて、これは些か難儀な話だ。


 けれど私の失踪は既定事項でもある。

 従って、私は私の失踪先を品定めする必要があった。






 まずは、洞窟などどうだろう。


 見上げれば、自分を突き刺さんばかりの鍾乳石がいくつも垂れ下がっている。じっと見つめていると、その内の一本から水滴が落ちた。

 水が水に飲まれる音がする。見下ろすと、真っ青な地底湖が一面に広がっていた。


 私は、その水面に立っている。


 鍾乳石の成長速度を思い出す。酸性の水に溶けやすい石灰岩であるが、それでも自然に任せれば百年でやっと一センチ伸びる程度だという。

 ならば、あの十メートル以上はありそうなつらら石は、齢千年を超えているというのだろうか。


 吐く息が白い。ここは恐らく、酷く温度の低い場所なのだろう。生憎寒暖の差を察する皮膚感覚が鈍い私では、周りの状況からでしか気温を判断することができない。


 好きな場所だった。声はどこまでも反響し、吸い込まれていく。


 しかし、失踪するには少々物足りない。


 私は、指を鳴らした。





 見渡す限りの青い世界。上方から差し込み照らす光。

 足元には、サンゴ礁と呼ばれるサンゴの群落が私の行手を阻んでいる。

 いや、阻んでいるわけではないのだ。ここの空間においては、歩くのではなく泳ぐ必要がある。


 私は、海底に沈んでいた。


 よくよく目を凝らしてみれば、点々と魚が泳いでいる。サンゴやイソギンチャクに身を隠そうとする色鮮やかな小魚だ。

 その一匹を捕まえようと手を伸ばしたが、思い直してやめる。

 すぐさまそれは、もう一回り大きな斑点模様の魚に取って食われた。


 空を映した海面を見ると、波のせいか風のせいかゆらゆらと揺れている。


 ここに私の隙間は無いようだ。


 私は、指を鳴らした。





 次の私は、ゲームセンターにいた。


 人は全て己の娯楽に夢中で、私の事など気にも留めない。私は少し歩いて、様子を見ることにした。

 ドライビングゲームでは、小太り気味な中年の男と幼い少年が並んで座っている。もしかしたら親子なのかもしれない。

 UFOキャッチャーでは、やたらと派手な服の女性が、制服姿の真面目そうな女性にしなだれかかってぬいぐるみをねだっていた。


 更に奥まで行く。


 ビリヤード台があった。そこには、誰もいなかった。

 雑に置かれた二本のキューと、丁寧に並べられたボール。キューを一本手に取って、白いボール越しに黄色い五番に狙いを定める。


 ここは、長くいれば疲れてしまいそうだ。


 私は、指を鳴らした。





 鐘の音が鳴る。驚いた鳥が、慌てて羽ばたき飛んでいく。

 荘厳で冷たい教会の床の上に、私は立っていた。


 光源といえば、色鮮やかなステンドグラスぐらいか。誰もいない祈りの空間は、いっそ恐怖を覚えるほどに静寂であった。

 例えばここで息絶えたとしたら、きっと私の体にはあの高い天井から降る埃が少しずつ積もっていくのだろう。そんな最期であれば、多少は美しいのかもしれない。


 祭壇の元まで行く。すると奥に、巨大なパイプオルガンを見つけた。

 規則的に立ち並んだ金属の棒。見るものに威圧感と一種の敬意を抱かせるその姿を前に、私は椅子に腰掛ける。

 鍵盤に手を伸ばす。ペダルに足をかける。


 けれど、ここは私の場所ではない。


 私は、指を鳴らした。





 ある時は、自動車の展示場を訪れていた。

 ピカピカに磨かれたボディに、一風変わった仕掛け。最新のものからもう二度と公道を走ることはないモデルまで、何から何まで揃っていた。



 またある時は、レールの上に立っていた。

 柔らかな緑に囲まれた線路であったが、遠くに雪の積もった山が見えた事を考えるに、まだ少し春は遠いのだろう。

 汽笛が聞こえた。ここもじきに列車が来る。



 狭い店の中に押し込まれた時には、全く困ったものだった。

 雑貨屋なのだろうか。農薬や手袋、シャワーノズルにペンやノート。なんでも好きなものが雑多に棚に詰め込まれている。

 体を曲げ、人一人通るのがやっとの通路を抜けた。

 店の外に出ると、向かいにはピザ屋があった。



 遊園地は、特に私に似合わない場所だったろうと思う。

 天を衝くばかりの大きな観覧車と、大袈裟な起伏が目立つジェットコースターから聞こえる悲鳴。ぼんやりと眺めていると、私の傍を幼い子供が二人駆けていった。

 空を見る。今日という日が晴れていて良かった。



 恐らく、ここはただの民家だ。

 黒を基調とした応接室に、エアコン、テレビ。部屋の隅に置かれたテーブルには、赤い花が一輪生けてある。

 階段には、家族の写真が飾られていた。

 それだけは、見ないようにした。






 そうして何度か指を鳴らした後、私は私の居場所に戻ってきた。

 なるほど、B地点を探すというのもなかなか楽な作業では無いらしい。


 ともあれ、多少の気晴らしにはなった。私はキーボードを引き寄せ、とあるキーを叩く。


 ではまた、致し方なしに現実とやらを営もうじゃないか。


 モニターに映し出された私の生きる糧に、頬杖をついて自嘲気味に笑った。

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失踪予定 長埜 恵(ながのけい) @ohagida

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