霧海
下村アンダーソン
霧海
長らく陸の光を見ていない。私たちは乳白色の霧に包まれた海を彷徨っている。
そう、彷徨っているのだ。漂っているのではなく。
足許に目をやれば、自分の影がぼんやりと映り込んでいた。鏡のように凪いでいるわけではないから、輪郭が出鱈目にぶれて、なんだか異形の怪物みたいに見える。
波は波のまま固まっていて、私たちはその上に立っている。凝固した海を、あてもなく歩いている最中だ。
「お腹空いたなあ」
と例によってルルが言う。この子は本当に短時間で空腹に見舞われるらしく、黙々と歩くということがいっさい出来ない。そうだね、もうちょい我慢しよう、などと説得してみるのだが、彼女が素直に聞き入れたためしは今のところない。
ルルは素晴らしい思い付きをしたとでもいうように、
「潜ってさ、魚獲ってきていい?」
「いいけど、魚って日持ちしないじゃん。駄目にしちゃったら勿体ないよ」
「私の食べ切れるぶんだけにする。もっと深くまで行ければな――いろいろ掴まえられるのに」
言いながら、ルルは綺麗なフォームで波を割って、瞬く間に海へと身を躍らせた。私の返事を待つ気はないらしい。
彼女の泳ぎと狩りを、私は上から見物するばかりだ。ずいぶん息が続くな、よく魚に追いつけるな、と感心する。
しばらくして、波間から魚が次々と投げ上げられてきた。ルルが満足げに頭を突き出し、そして海から体を引き抜いた。彼女が抜け出てきた穴はすぐさま塞がって、元どおりになる。
「じゃあ悪いけど、私だけ食事にするね」
私は頷き、嬉々として準備を始めるルルから目を背けた。魚はもう嫌というほど食べたからだ。彼女から少し離れて、ひとりで歩く。
「漂流」しているくせに贅沢と思われるだろうが、私は彼女と出会ってから、空腹を感じる暇がなかった。むしろ常に満腹でいるほどだ。もとの世界にいたときとは大違いだ、と私は思う。漂流生活でかえって満たされるなんて――誰が想像するだろう。
アキはどうしているかな、と考えた。彼女もかつての私と同様、飢えて疲れ果てた少女だった。傍から見れば似たようなものだったろうが、私にははっきり、自分のほうがまだ恵まれているという自覚があった。それほどにアキは気の毒な生き物だった。いつも昏い目をしていた。
ある朝、一緒に海に行こう、と誘われた。単に美しい景色を見るためとは、私も思わなかった。なにもかもを承知で、彼女の誘いに乗った。
迷わず、ふたりで飛び込んだ。最初のうちは手を繋いでいたが、いつの間にか離れ離れになってしまった。お互いを縄ででも縛り付けておけばよかったと後悔した。
私はただ朦朧として、ひとりで水の中を漂っていた。想像したほど苦しくはなく、これでやっと楽になれるのだという思いだけがあった。
目が覚めると、この〈霧海〉にいた。見知らぬ少女の顔が、私を見下ろしていた――。
「元気を回復した」
とルルがはしゃぐような声で言って、追い縋ってきた。私は薄く笑って、彼女が隣に来られるように速度を緩めた。なにげなく視線を下げ、それからぎょっとして、
「なんか、馬鹿でかい生き物が下にいる」
実際に目視できたのは、巨大な影と、鈍く光るふたつの灯りだけだった。勝手に目と思い込んだが、〈霧海〉の生き物が私の知るものと同様とは限らない。ここではどんな奇妙なことも起こりうる――私はそれを、身をもって知っているはずではないか。
「大丈夫。あいつら、水面までは上がってこられない。ここにいる限り安全だよ」
安堵しかけたが、私はかぶりを振って、
「ルルは行き来してるじゃん。ルルには出来て、あいつらには出来ないの? 本当?」
「本当だよ。私、あいつらのことはよく知ってる。あいつらの好物は迷い込んできた人間だけど、でも普通のやり方じゃあ絶対に、人間を掴まえられないの。だから安心して」
「そういうもの?」
「そうなの。だから私の言うとおりにして」
ルルの言葉どおり、巨大魚は決して上がってこなかった。しかし一定の距離を保ちながら、しつこく私たちのあとを追いかけてきた。相手のほうが動きが速いのは確実だったから、あえて走って逃げようとはしなかった。どうせ登ってこられないなら、諦めるのを待ったほうがいい。持久戦だ。
夜になると、私たちは海面に寝転んで眠った。固形とはいっても多少の弾力性はあって、横になると程よくクッションする。正直なところ、〈霧海〉の寝心地を私は気に入っていた。
とはいえ、謎の巨大魚に狙われたまま眠りこけるのは不安だった。普段は少し距離を置いて休むことにしているのだが、この日ばかりはルルにくっつかざるを得なかった。
彼女に救われたのは、一度や二度ではない。〈霧海〉のことはなんだって、彼女のほうがよく知っている。ルルに頼れなければ、私はとうに野垂れ死にしていただろう。私は彼女にしがみつきながら、考えを巡らせた。
なぜルルだけが〈霧海〉を自在に泳げるのか。ここの住人なのか。それとも「迷い込んできた人間」という言葉からして、私と同じように、別の世界からやってきたのか。訊いておくべきこと、知るべきことは無数にもあったのに、生き延びるのに必死で意識できずにいた。これほどまでに生に貪欲になったのは、生れて初めてだった――。
不意に、ルルが呻き声をあげた。心配になって揺り起こそうとすると、彼女は私の手に噛みついてきた。寝ぼけていたのだろうが、いっさい加減のない、強い噛みつきだった。付けられた歯型から血が滴って、海へと落下していく。
「――ごめん」
といつの間にか覚醒したルルが言った。いいよ、と笑いながら応じると、彼女は悲しげにかぶりを振って、
「そうじゃない。ずっと秘密にしてたことがあるの。あなたの友達を食べたのは――私たち」
言葉を失い、ルルの顔を見返した。彼女は唇の端を指先で引っ張って、歯を見せた。人間のものとは思えない鋭い牙が並んでいることに、私は初めて気付いた。
「〈霧海鮫〉は必ず、二匹が一対で行動する。一匹は下にいて、沈んできた獲物を掴まえるのが役目。もう一匹は上で――迷い込んできた獲物と同じ姿に擬態して、おびき寄せるの。獲物が海へ落ちる場所まで」
「――そんな」
足許がぐずぐずと柔らかくなっているのを感じていた。私は叫び出して、海面を駆けた。しかし真下の影は執拗で、素早くて、どんなに走ったところで逃げ延びられる気がしなかった。
お腹が空いた、とあれだけ連呼していた理由に、ようやく思い至った。人間を餌にするならば、魚では腹は膨れまい。私を信用させるために、ここまで生きた状態で連れてくるために、ルルは、ルルは――。
追い縋ってきた彼女を、無我夢中で突き飛ばした。その体は簡単に弾け飛んで、やがて海へと没した。
海面から、下を覗き込んだ。ルルが鮫の正体を現す瞬間を見届けてやろうと思ったのだ。
しかし変身は、いつまでも起こらなかった。水面下にいた〈霧海鮫〉が旋回しながら、彼女に近づいていく。大口を開け、今にも彼女を呑み込まんとする。
気が付くと勝手に体が動いていた。私は柔らかな海面を走り、やがて沈み、初めて〈霧海〉のなかへと潜っていった。
水は、ひどく粘度が高かった。いくら藻掻いても前へと進まない。必死になって手足を動かし、少しずつ、少しずつ、ルルのもとへと迫った。
手を握った。意識を失った彼女を引き寄せて、水面へ向け、一心に水を掻いた。
なぜこんなことをしているのか、自分でも分からなかった。ただ、今度こそ離したくないという思いだけが胸中にあった。誰もかれも、私だけを置き去りにする。そんなのはもう、うんざりだった。
体が浮かび上がった。ルルを投げ上げ、自分も身を引き上げた。海面はどうにか形状を保っている。再び沈まずには済みそうだ。〈霧海鮫〉の影も、どうやら遠ざかっている。
咳き込みながら息を吹き返したルルの頬を、私は張った。二度、三度。高く音を響かせて。
「狩りならいつもみたいに、ちゃんとやりなよ。詰めが甘いんじゃない?」
ルルは薄く涙を浮かべ、小さく頷いて、
「そうだね」
「アキを食べたっていうのも嘘でしょう? あの子は確かに貧弱だけど、私よりずっと賢かった。私みたいに騙されたりしない。魚だって自分で獲れるようになって、どこかで生きてる」
私はルルの返答を待たず、ひとりで付け加えた。そうに決まってる、と。
「私、アキを探す」
「そう。じゃあ――」
でもまだ、と私はルルを見据えて言った。
「この〈霧海〉のことがぜんぜん分からない。魚の捕まえ方も知らない。ねえルル、あなたがまだ一緒にいてくれたら、ずいぶん楽なんだけどな」
彼女は茫然とした顔を見せた。やがて掠れ声で、
「なにを言ってるの? 私は――」
「ルルでしょ。ここに迷い込んできた私を助けた人。魚獲りの名人。そして、いつもお腹を空かせてる」
彼女に付けられた歯型を、私はそっと撫でた。それから笑みを作って、
「でも人間狩りは下手糞。私を食べられるものなら、食べてみれば。獲物をしつこく付け狙うのは、鮫の習性なんじゃないの」
ルルはしばらく黙りこくっていたが、やがて涙を拭った。そして歯を覗かせながら笑って、
「――いつか、食べてやるから」
私は頷いた。ルルが駆け寄ってきた。
いつもの立ち位置。私たちはまた隣り合って、霧の中へと歩き出した。
霧海 下村アンダーソン @simonmoulin
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