ホシノトイキ

管野月子

風の時代

 きらめく陽射しが木漏れ日となって、青々とした公園の芝生の上で泳いでいる。


「今日は、涼しいね」


 ふわりと踊るように芝生の縁石から飛び降りた彼女は、楽し気にほほ笑み、高い樹と青い空を見上げひたいに手を当てた。

 夏色のストールが口元を覆うように揺れている。

 僕は近くのカフェでテイクアウトしてきたアイスコーヒーを手にベンチへ腰を下ろし、持っていたもう一つを渡す。隣に座る彼女は両手で受け取ると、氷を浮かべた玉の水滴をまとう透明なカップで涼をとるようにまぶたを閉じた。


「ありがと」

「やっと、外で飲めるようになったね」

「自粛……長かったものねぇ」


 そう呟きあうが、目に届く範囲に人の姿はまばらだ。

 時折タクシーが公園の外を通り過ぎていくほか、聞こえるのは風と時折歌う鳥の声ばかり。この街に生まれ育った僕にとって人気ひとけの消えた都心部は、未だ夢の中にいるような景色に思えてならない。




 この都市の中心部を東西に貫く、その名を体現した大通公園は全長約一・五キロ。面積は約七・八ヘクタールもあるそうだ。よく東京ドーム何個分、という比較があるが、この前調べたらドームはおよそ四・七ヘクタールらしいから、倍まではいかないけれどちょっと広い。

 東京ドームに行ったことのない僕には比較の実感がわかないな……と苦笑いしながらサイトのページをブラウザバックしてしまった。


 市民の憩いの場であり様々なイベントが行われる大通公園は、冬は雪まつり、初夏はライラック祭や花フェスタ。そして全国から踊り子が集う YOSAKOIソーラン祭やビアガーデンでも盛り上がる夏祭りなど。世界大会でもある北海道マラソンは、東京オリンピックのマラソン会場変更の際に話題になったのも記憶に新しい。

 更に秋の食の祭典オータムフェストと、年末のホワイトイルミネーションやクリスマス市まで含めれば、イベントを行っていない時期の方が少ないのでは、と思うほどに賑わう場所になっている。


 ライラックや桜、コブシを始めとした、ハルニレやケヤキなど九十二種類、約四千七百本の樹木が優しい木陰をつくり季節を彩る。レジャーシートを広げて寝転がる芝生もあれば、近所の小学校の子供たちが春の花の球根を植える花壇もある。

 大小様々な噴水が配置され、雪の無い季節には香ばしい匂いが漂うとうきびワゴンが並ぶ。

 屋外ステージや、滑り台にブランコがあるエリア。

 バラ園と、軟石を使った洋館のような趣のある札幌市資料館。


 市民だけでなく全世界からの観光客でも賑わう、およそ百九十万人都市の今が、この目の前に広がる、人の姿の途絶えた景色だ。


「この夏に世界中からアスリートが来ることになっていたなんて、夢みたいよね」

「開催予定になっていたのは、八月六日から、だっけ?」

「うん、競歩とマラソンと……パラリンピックのマラソンは東京のままだったかな」

「札幌の夏も、暑いのになぁ」


 ここ数年は気温の上昇も激しく、朝の天気予報で「今日は沖縄より暑いぞ」と笑っていたぐらいだから、昨年秋の会場変更には驚いた。

 運が良ければ涼しい日もある。

 悪ければ肌を刺す直射日光がアスファルトすら焼き、冷房のある建物に逃げるしかない。毎年夏になると、いよいよエアコンを設置しようかと悩みながら秋まで耐える日々だ。


「来年に延期になったとはいえ、どうなることやら」


 苦笑するようにため息をつく。

 広い公園を駆け抜ける風だけが、人の事情など知らぬように爽やかだ。


「気が重いなぁ……」

「そぉ? 空気は……変わったよ」


 口元を隠すようにしていたストールをずらして、アイスコーヒーのストローを口に含む。

 彼女はこの世ならざるものが見えているような瞳で、西日にきらめく樹々や芝生、花や鳥たちを見つめながら呟く。


「人の動きが静かになって、やっと本来のペースでバランスを整えることができたみたい」

「何が?」

「ふふふ……さて、何でしょう?」


 悪戯っぽく笑って見せる。

 謎々は苦手だ。こうとはっきり提示してもらわないと、座り心地が悪いような感覚になる。そんな僕の性格を知ってか彼女はくすくす笑いながら続けた。


「今年は芝生、綺麗よね。踏み荒らされたりしてないし鳥たちものんびりしてて。ほら、あれはシジュウカラだよ。カワイイ」


 西の方にある円山公園や藻岩山の方で見ていた野鳥がいる。

 驚く僕は、戸惑いつつも彼女に訊いた。


「それは……自然とか、そういうモノ?」

「うんうん、分かっているじゃない」


 くすりと笑って彼女は頷いた。


「ちょっと人間たちは走り回り過ぎていたから――人の動きがせわし過ぎたから、周りのモノ達も引きずられていたのよね」


 そう囁くように言って、西日に瞳を細める。

 瞼の長い睫毛まつげが金色に煌めいている。


「今回の伝染病対策で世界中の都市が封鎖したでしょ? 皆が家から出られなくなって、街から人気ひとけが消えて。それで地球の振動が急減したんだって」

「地球の?」

「そう。人や乗り物の往来が減って環境地震ノイズが減少したの。ベルギーの学者さんが指摘したという記事、読んだよ。イギリスやアメリカでも同様の観測があったという話。都市部ほどその現象は大きくて、おかげで地球本来の小さな地震活動も観測できたって」

「へぇ……」


 僕は思わず感嘆の声を上げる。

 そういえば都市の大気汚染濃度に言及していた記事もあった。

 人ひとりが出す音は小さそうに思えても、人が活動することに合わせて出てくるノイズは通常の自然ではありえない様なものばかりだ。まぁ……雷だ噴火だなんだと比較すれば、ニンゲンの出す音など足元にも及ばず、自然の巨大なスケールの前に小さくなるしかないのだけれど。

 だとしても。

 この百年余りの間に人類が激変させてきた所業は、神様がいたなら見過ごせるものじゃないだろう。昨年末から広がり始めた疫病は人々を強制的に活動停止に追いやったうえに、多くの犠牲を生んだ。

 神様が「それ見たことか」と呆れて苦笑しているようだ。


「地球の環境を壊してきたニンゲンは、これ以上活動するな、って事かな」

「ちがうちがう」


 即答で否定して、僕に顔を近づけてから力強く言う。


「本当に邪魔者で必要ない存在なら、とっくに滅んでるでしょ? 役目を終えたなら舞台から下りているの。人間も必要だから、ちゃんと私たちは今もここにいるんだよ! もぅ……」


 そう言って可愛い口を尖らせた。

 彼女は、何でも悲観的にとらえる考え方を聞くと、とても怒る。


「二〇二〇年は次の時代に向けて……こう、息を整えるのタイミングだったんじゃない? どんな時にも息継ぎって、必要でしょ?」

「まぁ……そうだね」


 そう答えて、僕は思わず深呼吸をした。

 真夏の、夕暮れ時の草の匂いを含んだ大気が肺一杯に広がり、僕の身体の中に浸透していく。目の前の僕を取り巻く全てのモノが僕の中をも満たしていく。

 彼女が視線を遠くに向けて囁いた。



「世界は……変わっていくよ。見て……」





 西に傾き始めた陽射しが、空を黄金色こがねいろに染めていく。

 風が走る。梢が震える。

 普段街中では見ない山鳥が、澄んだ声を上げて空に向かう。

 色鮮やかな花たちは宵の気配にそっと花びらを閉じ、青々とした芝生からは、光の粒が立ち上がっていくように見えた。ゆらゆらと海の底から湧きたつ泡のように。うたかたの夢のように、夏の夕暮れの公園を満たしていく。

 明かりが少なくなった街の上空に、一つ二つと星が瞬き始める。

 僕は言葉を失いながら目を見張る。

 時間や不安に追われていた時には見えなかった、気づけなかったものだ。


 責任を執拗に追及する者たちは今、息苦しい思いをしているだろう。

 個性は潰され、規定から外れることができなかった時代。物質的な豊かさだけ追い求めた、大量消費、大量廃棄の時代は終わる。


「もっと自由でいいんだと思う。たくさんの選択肢があっていいと思うの」


 彼女は折に触れ、言っていた。

 これからは瞬時に多くの情報が流れ、一時として止まることなく刻々と移り変わっていく。それはまるで風の時代だ。


 公園を通りがかった人がふと足を止めて、不思議なものでも見るように周囲を見渡す。ゆったりとした時の中で、街は静かに息づいている。






「今のは一体……」

「誰でも感じることができるのに、忘れていたもの」


 彼女は肩をすくめてから、子守唄を聴くように瞼を閉じた。



「この惑星ほしの吐息だよ」







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ホシノトイキ 管野月子 @tsukiko528

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