秋色空と、甘色コーヒー
源 侑司
第1話
人気のなくなった高等部の校舎から、重いガラス扉を押し出して外へ一歩を踏み出すと、ひんやりとした冷たい空気が肌に触れた。
猛暑の八月も、残暑の続く九月も乗り越え、ようやく心地のよい季節になったと思ったらすぐに肌寒い季節がやってくる。朝はまだ寒いと思わなかったし、昼間はともすればまだ半袖でも過ごせそうなほどの陽気だったりするのに、日が沈んでくると一転して冬の入り口に立たされているかのような感覚に襲われる。暑さも寒さも苦手な私にとって、心地のよい季節なんてインターバルは存在しない。一年は試練の連続だ。
学校指定の鞄から、薄いピンクのストールを取り出して首に巻く。首を防寒具で保護するかどうかで体感温度は約二度変わるらしい。どこで聞いたか覚えていないけれど、この情報は重宝している。首元さえ暖めてあれば、スカートから下の脚が寒風にさらされてもある程度は我慢できる。
「ん?」
校門を越えたところで、クラスメイトの香奈が門の脇のところに寄り掛かるようにして立っているのを見つけた。香奈は文庫本を読むのに夢中になっていたようだったけれど、私の影が視界の隅をよぎったのか、私の姿に気がつくと、文庫本を閉じながら手を振った。
「待ってたよー」
「何で?」
にこやかな笑顔でそう告げる彼女に、私はつい目を細めてそっけなく返す。
「あ、冷たいな。たまには一緒に帰ろうと思って」
香奈が抗議するように口を尖らせた。
「いや、そうじゃなくて。待つんだったら学校の中で待ってればいいのに。けっこう寒いんじゃないの?」
香奈は私と同じくらいの体格だけど首元には何も巻いていないから、私よりきっと寒さを感じている。
「そうだねぇ。でも、一緒に待ってたら邪魔かと思ってさ」
「邪魔?」
私は眉をひそめて聞き返す。
「ひとりで黄昏るの、好きなんでしょ。昔から、そうだったじゃん」
香奈は、知っているのは当然とばかりに胸を張る。香奈とは中学から五年間、ずっと同じクラスで、たぶん一番仲の良い友達だと思う。ずっと一緒にいるわけじゃないけれど、下手に気を遣わない分、居心地はいい。
「そうだ、カフェ付き合ってよ。寒空の下、待ってたんだからさ」
「寒空ってほどじゃなくない?」
私の指摘には答えず、香奈は歩を進めていった。まぁいいかと肩をすくめ、私は彼女の後を追う。
香奈が言うとおり、私はよく放課後にひとりで教室に残っている。用があるわけじゃなく、何をするわけでもない。
誰もいない教室でひとり、窓の外を眺める時間が私は好きだ。特に今の季節、放課後は窓の外に赤く染まる景色がきれいに広がっている。昼間が終わる街、夜に沈む街。その瞬間を見ていると、私はこの世界の外側に立っているような気分になる。
爽やかな風が吹き抜ける高い高い青空と、感傷的な気持ちにさせる深い深い茜空。その二つをあわせ持つ秋色の空が、私は好きだった。
「それで、最近は何考えてるの?」
駅前にある海外チェーンのカフェ。夕方の時間はいつも混雑しているけれど、運よく道路に面したカウンター席が空いていた。その席に腰を下ろすと、ホットのカフェラテを一口飲んで、香奈が尋ねてくる。
「何だっけ、今日の夕飯何かな、とか?」
私の手には期間限定のコーヒードリンク。コーヒーをベースに、生クリームやサツマイモをカリカリにしたチップスなどが入って、スイートポテトみたいな秋の味がする。思ったよりも、甘いけれど。
「そういう冗談のセンスはないね」
私があえてとぼけたような回答をすると、容赦なく、切り捨てるように香奈が指摘する。軽く傷つくから、友達ならそういう冗談にもう少し付き合ってくれてもいいと思う。
「沙織は意外と真面目だから」
そう言って、香奈は外に目を向けた。香奈の瞳が街と同じ夕陽色に染まる。
「ひとりで黄昏ている時って、何かしら考えているんだよね」
また、私は知っているよ、という調子で香奈が言った。
ただそれは間違っていない。まぁね、と私はつぶやくように返した。
「進路のこと、かな。大学行ったら、留学しようかなって、最近思ってる」
驚いたように、香奈が目を見開いた。
「それはまた壮大な話だね」
そうかな、と私は答えて、続ける。
「別に何がやりたいってわけじゃないけど……いや、むしろ何もやりたいことないからかな。自分が見たことないもの、見てみたいなって思って」
手に持ったドリンクを一口飲む。表面に盛られたクリームが唇に触れると、冷たかった。
「それで世界ですか」
「飛びすぎかな?」
物心ついた時から、物思いにふける時は空を眺めていた気がする。大きく広がる空を見ていると、自分の悩みはちっぽけに思えて、心が軽くなる。
私は空が好きだ。この空がどこまで広がっているか見てみたくなった、といったら馬鹿みたいだと笑われてしまうかもしれないけれど。
「いやぁ、いいんじゃないですか」
意外にも、深くうなずきながら香奈が言った。
「私たちの世界って、思ってるより狭いよね」
例えば、と香奈が私の持っているドリンクを指さす。
「そのドリンクが日本限定の味だって、知ってる?」
「え、そうなの?」
私が驚いて聞き返すと、香奈はほらね、と呆れたように言った。
「いかにも日本人好みそうな味でしょ。まぁ調べたらすぐわかるけどね。つまりそれぐらい思い込みで、私たちの視野は狭まっているってこと」
そういうことじゃないんだけどな、とぼやく私の隣で、香奈はにこりと笑って見せた。
「まぁいいじゃない。私は沙織のそういう気持ち、大事にするべきだと思うな」
香奈が持っていたマグカップを私の目の前に差し出す。何の意味かなと首を傾げる私に、香奈は続けた。
「乾杯だよ。沙織の前途を祝して」
「気が早いよ」
まだ一年以上もあるじゃん、と言いながらも、私は差し出されたカップに自分のカップを合わせた。こつん、と固い音がする。
二人で同じタイミングで、飲み物を口に運ぶ。秋の味と香りがする甘いコーヒー。来年もこうして、この空の下でこのコーヒーを飲んでいるかもしれない。
空は、いつのまにかすっかり夜の色に姿を変えていた。けれどこの空はいつも同じで、どこまでもつながっている。私は明日も来年も、たとえ十年後にどこにいても、きっとこの空の下にいる。
その時見ている秋色の空も、今と同じように好きでいられたらいいと、私は願った。
秋色空と、甘色コーヒー 源 侑司 @koro-house
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