弱い僕が守りたいもの
教室に戻るとそこに倉田の姿はなくて、誰もいない教室はしんと静まりかえっていた。
たったそれだけのことで言いようのない心細さにさらされている自分に、なんだかもう笑いたくなる。
教室を見渡すと、彼女の机に見慣れた紺色の鞄がぶら下がっているのを見つけて、よかった、とひとまず息を吐いた。彼女はまだ学校にいる。彼女はまだ、おれを待っていてくれている。
永原くんの委員会が終わるまでここで待ってるね、と一時間前の倉田はたしかにそう言って笑っていた。そう言った彼女が約束を破るはずがない、と彼女の性格を考えればそんなことはすぐにわかるはずなのに、それでも彼女の姿が見えなくなるたび、おれはいつも同じ不安に駆られる。
それはきっと、今もずっと心の奥で恐れているからで。彼女がいつか俺を見限って、どこかへ消えてしまうこと。
だって彼女が今おれの傍にいること自体、きっとおかしなことだから。彼女がおれなんかの傍にいる理由が、今はもう、なにもないから。
少し迷ったあとで、おれは教室を出た。心当たりなんて何にもなかったけれど、気づけば早足に廊下を進んでいた。
そうして当てもなく校内を歩いているうちに、まるで自分が迷子の子どもにでもなったような気がして、また笑いたくなった。
倉田を見つけたのは、二階をひととおり歩き回って、一階に下りてきたとき。
階段からまっすぐに伸びた廊下の向こう、ちょうど職員室から出てきたところらしい彼女がいた。
その姿を目にした途端、自分でもあきれるくらいほっとして身体から力が抜ける。そうして早足に彼女のもとへ歩み寄ろうとしたところで、ふと足が止まった。
倉田のあとに続いて、ひとりの男子生徒がいっしょに職員室から出てきた。クラスメイトではない、けれど見覚えのある顔だったから、おそらく隣のクラスの男子だろう。
廊下に出ると、彼は倉田のほうを向き直って、彼女になにか声をかけていた。それに倉田も笑顔で答え、なにか短い会話を交わしたあとで、男子生徒は俺のいるほうとは反対方向に、そして倉田は俺のいるほうへ足を向ける。
そこですぐに、彼女はおれに気づいたようだった。
目が合うなり、あ、と小さく声を上げ、ぱっと笑顔を浮かべる。
「永原くん」
名前を呼んだ倉田の目は今はまっすぐにおれを捉えていて、そのことにまた、あきれるほど安堵した。
笑顔のままこちらへやって来る彼女のほうへ、おれも歩いていくと
「なにしてるの、こんなとこで」
「先生にね、資料を職員室まで運ぶの手伝ってほしいって言われたの。それで」
「さっきのは」
「え?」
きょとんとした顔で聞き返してくる倉田に、おれは廊下の向こうに見える男子生徒の背中を指で示すと
「誰、さっきいっしょにいたの」
「あ、えっとね、2組の大本くん。さっき廊下で会って、資料運ぶの手伝ってくれたの」
ふうん、と相槌を打っているあいだに彼の背中が廊下の向こうに消えたので、倉田のほうへ視線を戻す。
すると彼女はいつもと変わらぬ柔らかな笑顔で、こちらを見ていた。なんの翳りもないその無邪気な笑顔を見ているうちに、勝手ながら聞き分けのない苛立ちが膨らんできて
「探してたんだよ」
ぼそりと呟いた声には、思いのほか恨めしげな色が滲んでしまった。
「え?」
「倉田、教室で待ってるって言ってたのに、いなかったから」
倉田は、あ、と困ったように声を漏らし、ちょっと表情を強張らせた。それから、「ご、ごめんね」と覗き込むようにしておれの目を見つめると
「委員会、こんなに早く終わると思わなかったから。そんなに探した?」
「だいぶ探した」
短く頷いて、踵を返す。そうして廊下を歩き出すと、「そ、そっか。ごめんね」と後ろから倉田の困ったような声が追いかけてきた。それにも、うん、とまた短く頷いて歩き続けていたら
「……な、永原くん、怒ってる?」
おずおずと尋ねる不安そうな声が、背中にかかった。足を止める。
途端に引いた苛立ちの代わりにこみ上げてきたのは覚えのある後悔で、なんだかまたあらためて突きつけられた気分になる。
だいたい、待ち合わせ場所に待ち人がいなかったくらいでここまで不安になるほうがおかしい。倉田を信じればいいだけの話なのに、それができないおれが悪い。思いながら、なんだか途方に暮れたような気分で彼女のほうを振り返ったときだった。
数歩後ろにいると思った彼女が思いのほか間近にいて、ちょっと驚いた。
ぶつかりそうになって反射的に身体を引こうとしたら、ふっと彼女の手がおれの腕に触れた。爪先が触れそうな距離にいる倉田が、さらにこちらへ身を乗り出してくる。その次の瞬間には、唇の近くの頬に柔らかな温もりが触れていた。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
呆けている間に唇は離れ、倉田の顔が遠くなる。けれど頬には、まだはっきりと彼女の感触が残っていて
「――ちょ、倉田」
我に返るなり、おれは咄嗟にあたりへ視線を走らせていた。
さいわい近くに人はいなかったけれど、窓の向こうの中庭には、花壇の水やりをしているらしい女子生徒の姿があって
「なにしてんの、誰か見てたら」
「い、いいよ!」
捲し立てようとした声は、そんな倉田のやたら力強い声にさえぎられる。
驚いて彼女の顔を見れば、ますます頬を赤く染めた彼女と目が合った。耳まで赤くした倉田は、明らかに恥ずかしくてたまらないといった余裕のない表情を浮かべていたけれど、それでもまっすぐにこちらを見つめながら
「誰か見てても、なにも困らないよ、私」
「いや困るって。おれと付き合ってるとか、あんまりみんなに知られたら」
「私は」
はっきりとした声でふたたびおれの言葉をさえぎった倉田が、おもむろに手を伸ばし、おれの手に触れる。そうしてかすかに震えるその手で、意を決したようにおれの手を握りしめると
「そういうの、ずっと、寂しかったよ」
「そういうの?」
「永原くんが、そういうふうに隠そうとするの。私のためだってわかってたけど、でも私は」
倉田はそこで一度言葉を切り、短く息を吸ってから
「本当はもっと、みんなに言いたかったもん、ずっと。永原くんは、私のものだって」
一息に言い切られた言葉に、おれはしばし無言で倉田の顔を見つめてしまった。
しばらくはその視線をまっすぐに受け止めていた倉田も、やがて恥ずかしさに耐えかねたように顔を伏せる。
「だ、だって」だけど握った手だけは離さずに、ひどく子どもっぽい声色で
「永原くん、もてるんだもん」
「……昔の話でしょ。今はべつに」
「違うよ!」
自嘲気味に呟いた言葉には、即座に意気込んだ調子の声が返ってきて、また驚く。その勢いで一瞬だけ顔を上げた倉田は、けれどおれと目が合うなり、またすぐに顔をうつむかせ
「だから永原くんは、わかってないんだよ」
ぼそりと、ちょっと恨めしげな調子でそんなことを呟いていた。
「え?」と聞き返した俺の声には答えず、「とにかく」と倉田は妙に真面目な顔でこちらを見る。少しけわしいくらいだったその表情は、だけどすぐに、ふわりとしたはにかむような笑顔に変わった。
ね、と彼女らしい柔らかな笑顔で、軽く首を傾げた倉田は
「不安なのは、永原くんだけじゃないよ」
――ああ。なんだかふいに泣きたいような気分になって、おれは目を伏せる。
どうして彼女は、いつもこうなのだろう。最初に会ったときからずっと。
こんなにも、おれの欲しいものばかり、くれるのだろう。
「倉田は、すごいね」
へ、と不思議そうな顔でこちらを見た彼女の手を、今度はおれのほうから握りしめる。
この手がおれから離れていかないことを、ずっとひたすらに願っていた。だけどもし離れていこうとしたときは、おれには引き止める術などないとも思っていた。
だって本当は、おれなんかが囲っていてはいけない人だから。おれのものになんて、なるはずがないのだから。
倉田の顔を見ると、照れたように幼い笑みを浮かべた彼女と目が合う。
そうしてたしかな力で握り返されたその手を、離したくないだとか、離すものかだとか、そんなことを願ってもいいのだろうか、とぼんやり思いながら、おれはただ強く、彼女の小さな手を握っていた。
強欲ラプソディ 此見えこ @ekoko
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