優しい世界であることを
一組の教室に入ったときからいやに集まっていた視線も、にわかに静まった喧噪も、いつものようにぜんぶ無視した。
「歩美ちゃん」
まっすぐに彼女のもとへ歩いていき、声を掛ける。
次の授業の準備をしているところだったらしい彼女は、わたしの顔を見ると、驚いたように目を見開いた。鈴ちゃん、と硬い声でわたしの名前を呟く。
「どうしたの」
わたしがけわしい顔をしていたからか、なんだか不安そうな声で訊いてくる彼女に
「話があるの。ちょっと来て」
それだけ告げると、彼女の返事は待たずに踵を返した。
少しして、あわてたように立ち上がる椅子の音が追いかけてくる。それを確認して教室を出ようとしたら、ふと、窓際の席からこちらを見つめる永原くんと目が合った。
なにか言いたげなその表情に思わず唇を噛み、すぐに目を逸らす。そして、ふいに喉奥からこみ上げてきた苦さを振り切るよう、早足に教室を出た。
廊下を歩いていると、時折向けられる遠慮がちな視線や、かすかに聞こえるささやき声がうっとうしかった。
だけど、それだけだ。うっとうしいだけ。前みたいに、いちいち傷ついたり怯えたりはしない。もともと顔と名前しか知らないような人たちだ。彼らからなにを言われようと、陰でどんな評価をされていようと、どうでもいい。とくに興味もないから、飽きるまで勝手にしていればいい。
ただ、この子だけ。
この子だけは、許さない。
「ねえ、歩美ちゃん」
彼女を連れてきたのは、校舎裏にあるゴミ捨て場。
これまではまったくと言っていいほど縁のなかったこの場所を、ここ最近は数え切れないほど訪れた。教科書を探したり、スニーカーを探したり、体操服を探したり。
ぜんぶ、彼のせいで。
「どうして、まだ永原くんと付き合ってるの」
冷たい風に乗って、生ゴミのすえた臭いが漂ってくる。顔をしかめたくなるようなこの臭いももう、とっくに慣れてしまった。嗅ぎすぎて、身体に染みついてしまったような気すらする。
「……どうしてって」
わたしの前に立っている歩美ちゃんが、困ったように眉を寄せて呟く。
それから言葉を探すように黙ってしまった彼女が口を開くのを待たず、「歩美ちゃんはさ」とわたしは続ける。
「知ってるんでしょう。わたしとこうちゃんが、永原くんのせいでどんな目にあったか」
「……うん」
「それでどうして、まだ永原くんと付き合えるの」
それは、と答えかけてから、また言葉に詰まったように歩美ちゃんは押し黙った。そうして顔を歪めてうつむく彼女を眺めながら、ああ、悪いとは思ってるのか、とわたしは奇妙に冷静な頭の片隅で考える。
それでほんの少し穏やかな気持ちになったわたしは
「――ねえ歩美ちゃん、わたしはね」
今度はできるだけ優しい口調になるよう努めて、口を開いた。
「歩美ちゃんのことは恨んでないし、今でも好きだよ。ずっと昔からいっしょだったんだもん。幼なじみだし、親友でしょう、わたしたち」
歩美ちゃんが顔を上げ、わたしを見る。
「だけどね」わたしはそんな彼女に、にこりと笑みを向けると
「わたしたちをあれだけ追い込んだ永原くんのことは、ぜったいに許せない。こうちゃんもそう言ってる。だからもし、歩美ちゃんがわたしたちの気持ちを無視してこれからも永原くんと付き合うっていうなら」
言いながら、そっと手を伸ばし、歩美ちゃんの髪に触れる。
そうしてちょっと驚いたように身体を強張らせた彼女の髪を、昔からよくしていたみたいに撫でながら
「歩美ちゃんのことも許せなくなっちゃうよ、わたし。そんなの嫌だよ。ねえ、だから」
じっとわたしの顔を見つめる彼女と、わたしもまっすぐに視線を合わせる。そうしてゆっくりとした口調で、告げた。
「――永原くんとは、別れてくれるよね? 歩美ちゃん」
歩美ちゃんは泣きそうな目をして表情を歪ませた。耐えかねたようにわたしの顔から目を逸らし、足下に視線を落とす。それからしばらく、地面を睨んだまま黙り込んでいた。
硬い沈黙のあとだった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた彼女は、あいかわらず泣きそうな目でわたしを見て
「……鈴ちゃん」
かすかに震える声で、口を開いた。
「ごめんなさい、私」じっとわたしの目を見据えたまま、慎重な口調で言葉を継ぐ。
「永原くんとは、別れない」
――瞬間、泡立つような冷たさが全身を駆けた。指先が震える。
わたしは軽く唇を噛んでから、短く息を吸うと
「……わたしが、別れてほしいって言ってるのに?」
「ごめんなさい」
「……ふうん」
束の間、目の前が暗くなった。
喉もとまでせり上がってきたぞっとするほどの冷たさに、息ができなくなる。歩美ちゃんの髪に触れていた指先に、ふっと力がこもる。気づいたときには、わたしはその手を思い切り振り上げていた。
ぱん、と乾いた音が響く。
右手の痛みは、一拍遅れて伝わった。
手加減の仕方なんてわからなかったし、そんな余裕もなかった。歩美ちゃんの身体が軽くよろめいて、横を向く。その体勢のまま、彼女はしばらく動かなかった。やがて、彼女の右手が震えながら上がって、かすかに赤くなった自分の頬に触れる。
「ひどい」
絞り出した声は、自分でもはじめて聞くような、わたしの声だった。
歩美ちゃんがわたしのほうを向き直る。呆然と見開かれた彼女の目には、涙がいっぱいに溜まっていた。今にも泣き出しそうに、瞳が頼りなく揺れる。
赤い目元。小さな頃からずっと見てきた、子どもみたいな表情。
守らなくちゃと思った。十年間、ずっと。ひとりではなにもできない、この子を。わたしはずっと、ずっと、そうしてきたのに。
「ひどいよ、歩美ちゃん」
喉が引きつる。右手の痛みが、這い上がるように胸に届く。
途端、まぶたの裏に焼けるように熱が弾けて、視界が滲んだ。
「わたしが、ずっと」
ああだめだ、と思う。見ない振りをしていたのに。胸の奥に閉じ込めて、蓋をしていたのに。いったんあふれ出したそれは、濁流みたいに容赦なく押し寄せてきて止まらなかった。
脳裏に、さまざまな光景が次から次へと浮かんでは消えていく。古いものから最近のものまで、代わる代わる。
そのすべてに歩美ちゃんがいた。幼稚園でのお遊戯会。小学校での球技大会。課外学習。
「歩美ちゃんのために、どれだけ我慢してきたと思ってるの」
わたしの赤い衣装をうらやましがった歩美ちゃんと、衣装を交換した。歩美ちゃんを庇って突き指をした。だけど心配をかけないように平気な振りをした。痛くても必死に我慢した。歩美ちゃんが山登りはきついっていうから、絵を描くコースを選んだ。歩美ちゃんにひどいことを言ったクラスメイトを怒った。喧嘩になって、今度はわたしがひどいことを言われた。だけど泣かなかった。代わりに落ち込む歩美ちゃんを慰めた。こうちゃんとふたりで、歩美ちゃんの頭を撫でながら。
「わたし、ずっと歩美ちゃんにいろんなことしてきてあげたでしょう。こうちゃんだって。そういうの、ぜんぶ無視するの? 今までの十年間は、歩美ちゃんにとってどうでもいいことだったの? ねえ」
だけど本当は、わたしも赤い衣装が着たかった。山登りがしたかった。痛いときや悲しいときは、わたしだって泣きたかった。ふたりに慰めてほしかった。歩美ちゃんみたいに。
だけどそんなことしたら、歩美ちゃんが気にするから。歩美ちゃんが悲しむから。だから堪えてきた。歩美ちゃんのために。なのに。
「歩美ちゃんはわたしのために、何にもしてくれないの? わたしの気持ちなんて、何にも考えてくれないの? ねえ、今までわたしが歩美ちゃんのためにいろいろしてきてあげた分、ちょっとは返してくれようとか思わないの? ねえ!」
ああ、そうだ。心のどこかで気づいていた。
わたしがいちばん許せないのは、歩美ちゃんが永原くんと付き合っていることじゃない。歩美ちゃんが、わたしの願いを無下にしていることだ。ずっと歩美ちゃんのために頑張ってきた、歩美ちゃんが撥ね付けるなんてしていいはずがない、わたしの願いを。
「知らなかった。歩美ちゃんって、そんなに冷たい子だったんだ」
歩美ちゃんはうつむいたまま、じっとわたしの言葉を聞いている。噛みしめられた唇が震えている。頬は赤くて、今にも涙がこぼれそうだ。
そんな彼女の姿を眺めながら湧き上がるのは、罪悪感だとか同情心ではなく、奇妙な高揚だった。
泣けばいいと思った。そうして思い知ればいい。今までそんなふうに泣かずに済んだのは、誰のおかげだったのか。誰がずっとあなたを守ってきてあげたのか。その陰でわたしが人知れず泣いていた分だけ、歩美ちゃんも泣けばいい。
「そうだよね。歩美ちゃん、わたしが永原くんのこと好きだって知ってたくせに、応援してくれるって言ったくせに、平気で永原くんと付き合うような子だもんね。わたしの気持ちなんてどうでもいいんだよね、歩美ちゃんは!」
彼女はなにも言わない。ただ身体の横に添えられていた左手が、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた。その手も小さく震えている。
それでも止まらなかった。自分を追い込むような気分になりながら、わたしは上擦った声を必死に押し出す。
「わたしはずっと、歩美ちゃんのためにたくさん我慢してきたのに! 歩美ちゃんが泣かないようにって、笑っていられるようにって、欲しいものもあきらめて、歩美ちゃんに譲ってきたのに! それもぜんぶどうでもいいって言うなら、わたしだってもういい! 歩美ちゃんなんてっ」
喉が引きつる。次々に頬を流れ落ちていく涙が、ひどく熱い。もういやだ。歩美ちゃんなんて。歩美ちゃん、なんて。
「歩美ちゃんなんてっ、もう、友達じゃな」
ぱん、と乾いた音が耳元で響いた。
視界が揺れる。身体がぐらつく。
痛みと衝撃は、追いかけるように頬で弾けた。
「――私だって!」
泣きそうな声が、耳に響く。はじめて聞くような、歩美ちゃんの声だった。
「私だって、ずっと、我慢してきたよ!」
視線を上げれば、歩美ちゃんが真っ赤な目をしてこちらを見ていた。
頬も目元も赤くて、だけど涙だけは必死に堪えるように、肩と振り上げた右手を震わせている。
叩かれたのだと、時間差でようやく理解が追いついてくると同時に、頬が焼けるように熱くなる。「は、はあ?!」混乱の中、喉から押し出される声はもう救いようがないくらい不格好で、情けなかった。
「なにがよ! 歩美ちゃんがわたしのために何を我慢してきたっていうの?!」
「してたもん! 私だって、本当はずっと、ずっと」
繰り返した歩美ちゃんの声が、引きつって掠れる。それから一度だけ強く唇を噛んだあとで
「私だって、本当はずっと、浩太くんが欲しかったよ!」
一瞬、辺りから音が消えた。
頬の痛みも遠ざかって、代わりに遠い記憶が目の前で弾けるように広がる。
幼稚園の砂場、近所の公園、小学校の教室、お互いの家。
あきれるくらい、どの記憶の中にもふたりがいた。物心がついた頃からずっと。十年間、何をするにもいっしょだった。三人でいる時間が、いちばん楽しかった。
「……なに、それ。なによそれ!」
ふいに喉もとにこみ上げた冷たさを吐き出すように、わたしは叫んでいた。
なによそれ。なによそれ。
「なんでそんなこと、今更言うの?! なんで十年間も黙ってたの?!」
またまぶたの裏に火がついたみたいに熱くなる。勢いよく流れ出した涙が、濡れた頬にさらに落ちる。
ひどい。歩美ちゃんはひどい。こんなのってない。
「そんなこと今更言われてもどうしようもないじゃん! わたし、もうなにもできないもん! なんで言ってくれなかったの?! なんでもっと早く言ってくれなかったのよ!」
「言えるわけないよ、そんなの!」
「なんでよ! 言ってくれたらわたし――」
知っている。言えるわけがない。こうちゃんは、わたしのことがずっと好きだったと言ってくれた。
そのことに、歩美ちゃんが気づいていなかったはずがない。だってわたしたちは、本当にいつも、いっしょにいた。ずっとずっと、三人でいっしょにいた、のに。
「だって、言ったら鈴ちゃん、私の恋叶えようとしてくれるもん! そんなの嫌だよ! いちばん嫌だ! 私は浩太くんに幸せになってほしかったし、鈴ちゃんにも幸せになってほしかったもん! 私のわがままでふたりが幸せになれないのはぜったい嫌だよ!」
「なにそれ、勝手だよ! ずっと歩美ちゃんのこと傷つけてたんだって、そんなのわたしだって嫌だよ! それで幸せになんてなりたくないよ! すっごい嫌な気分じゃん!」
今まで歩美ちゃんがどんな気持ちでわたしたちのことを見てたのか、とか、わたしたちの言葉でどれだけ歩美ちゃんが傷ついてきたのか、とか、考え出したら止まらなくなって、涙が溢れるのといっしょに聞き分けのない怒りが湧いてきて、気づけばヒステリックに叫んでいた。
「そういうの迷惑なのよ! わたしの知らないところで勝手に遠慮されて、傷つかれるの! そのうえで幸せになったんだって、そんなの後味悪いでしょ! わたしはっ」
嗚咽に邪魔され、言葉が途切れる。短く息を吸う。「わたしは」押し出した声は、掠れて、上擦って、ひどい有様だった。
「歩美ちゃんを、傷つけたりなんか、したくなかったのに! なんで、そういう勝手なことするのよ!」
守りたいと思った。守っていると思った。ずっと、わたしがこの子を守ってきたと、そう思っていた。この子が泣かないように、傷つかないように。そう信じていた。
だって、彼女はいつも笑っていた。わたしといっしょにいるときも、こうちゃんといっしょにいるときも。ずっと、ずっと、笑っていたのだ。
思い出していくうちに堪えきれないほど目の奥が熱くなって、その場にしゃがみ込みそうになったら
「それはお互い様でしょ!」
歩美ちゃんの叫ぶような声が返ってきた。「だから、私!」わたしのものに負けないくらい散々な声で、けれどひどくはっきりとした口調で、続ける。
「もう鈴ちゃんに遠慮なんかしない! 欲しいものを譲ったりしない! 鈴ちゃんがなに言っても、永原くんとは別れない! 鈴ちゃんにも誰にも、永原くんはぜったい渡さない!」
「い、いらないよ! そっちこそ、今更そんなこと言われてもこうちゃんを渡す気なんかないから! わたしだって、これからは歩美ちゃんに譲ったりしないから!」
息が苦しくなって、言葉が途切れる。次の言葉を口にしようとした瞬間、にわかに指先が震えた。それでも言わなければならないと思った。言いたかった。これだけは。
ぎゅっとスカートの裾を握りしめて、息を吸う。いい加減限界を訴えはじめている喉から、必死に声を押し出す。
「……親友っ、なんだから!」
歩美ちゃんの反応を見るのが怖くて目を瞑る。だけど投げつけるみたいに、叫んだ。
「だから、もう、遠慮なんかしないからね! ぜったいに!」
生くさい臭いも、スカートが汚れるのも気にせず、ゴミ捨て場にひとり座り込む。頬を撫でる風が心地良かった。遠くからホイッスルの音が聞こえる。どこかのクラスがサッカーをしているらしい。
それでようやく、わたしはもうとっくに授業が始まっている時間だということを思い出した。今更あわてて教室に戻る気にもなれなかったので、そのまま座り込んだままだったけれど。
頬がまだ熱いし、痛い。歩美ちゃんって意外と力あるんだな。しかも容赦ないし。ぼんやりとそんなことを思いながら、携帯を取り出す。
知らなかった。ずっといっしょにいたのに。
ぜんぶ、知っていると思ったのに。
開いてみると、こうちゃんからメールが来ていた。今どこにいるのかと尋ねる短いメール。授業が始まってもわたしが戻ってこなかったから、心配してくれたらしい。
送信時間を見るとすでに授業が始まっている時間だったから、わたしはちょっと首を傾げる。授業中に先生の目を盗んでメールしたのだろうか。それとも、こうちゃんもさぼり中なのか。なんとなく後者のような気がして、わたしは小さく笑う。
この際だ。甘えちゃおう。今日くらいは許されるはず。
言い訳するようにそんなことを思いながら、わたしはひとつ鼻を啜ったあとで、こうちゃんに今の居場所を知らせるメールを打ちはじめた。
* * *
水道でハンカチを濡らして、体育館裏に戻る。
だいぶ前に始業を告げるチャイムが鳴っていたけれど、倉田のほうは今更教室に戻る気などないらしい。体育館の壁に背中を押しつけて膝を抱えている彼女に、動きだす気配はなかった。
「はい、倉田」
ハンカチを差し出すと、倉田はそこでようやくおれに気づいたように顔を上げた。赤く染まった頬が涙で濡れている。彼女がまばたきをした拍子に、また新たな涙がこぼれ落ちた。
「……永原、くん」
おれは彼女の隣に座ると、冷やしてきたハンカチを倉田の頬に押し当てながら
「大丈夫?」
途端、彼女の表情がくしゃりと歪んだ。かと思うと、またぼろぼろと涙が勢いよくあふれ出す。堰を切ったように嗚咽まで漏らしはじめた彼女の手が、彼女の頬に添えていたおれの手に重なった。
「……いた、かった」
ぽつりと呟かれた言葉に、そうだろうな、とおれは心の中でしみじみと頷く。
遠目に見ていても、あれはかなり痛そうだった。女の子ってあそこまで手加減なしに殴るものなのか、とちょっと感心してしまったくらいだ。まあ、そのあとの倉田の平手打ちも、八尋に負けないぐらい痛そうだったけど。
倉田がなにか危ない目に遭いそうになったら出て行こうと思って陰から見ていたのに、けっきょく、あれに圧倒されて途中からはただ眺めているだけになってしまった。
「そ、それに」ひっくひっくと喉を震わせながら、倉田はおれの手を握りしめると
「こわ、かった」
「八尋が?」
聞き返せば、倉田は何度かかぶりを振って
「鈴ちゃんに、ひどいこと、言うのが」
嗚咽に邪魔されながら、たどだとしい声で言う。縋るように握りしめた手を、今度は倉田のほうから自分の頬に押し当てた。
「これで、鈴ちゃんに嫌われて、もう友達じゃないって言われたらどうしようって、すごく、こわくて」
「……でも八尋、友達だって言ってくれてたじゃん」
「うん」
小さな子どもみたいな声で頷いて、倉田は目を瞑る。拍子にこぼれた涙が、濡れた頬に落ちた。
「よかった」
――ああ、きっと。
ひどく無防備な表情で呟く倉田を眺めながら、ぼんやり思う。
無理なのだろう。倉田があのふたりと離れることなんて。何があったとしても、ぜったいに。
あきらめるような納得するような気持ちが胸の奥にじわりと広がるのを感じながら、「よしよし」とおれは空いたほうの手で彼女の頭を撫でると
「頑張ったね」
うん、と倉田はあいかわらず子どもみたいな声で頷いて
「次は、永原くんだね」
急にやたらはっきりした口調でそんなことを言うので、へ、と思わず間抜けな声が漏れた。
倉田は、制服の裾でごしごしと目元を拭ってから顔を上げると
「次は永原くんが、浩太くんたちと仲直りする番」
「……いや、おれはいいよ。もともと仲良くもなかったし」
「よくない。今のままじゃ私が悲しいよ」
今度は急に訴えかけるような口調になって、そんなことを言う。そうして涙で濡れた目のまま、じっとこちらを見つめてくる倉田に、なんか最近の倉田したたかになったなあ、とおれはぼんやり思いながら
「……でも仲直りって、向こうが許してくれないことには無理だし」
「浩太くんは許してくれるよ」
「いや無理でしょ。あんだけのことやったのに、今更」
「大丈夫だよ、ぜったい大丈夫」
いつの間にかすっかり涙が引っ込んだらしい倉田が、意気込んだ様子でこちらへ身を乗り出してくる。そうしておれの手を取ると、にっこり満面の笑みを見せ
「浩太くんは、ほんとうに、すっごく優しい人だから」
いやに弾んだ声でそんなことを言うので、おれはしばし無言で倉田の顔を見つめてしまった。
そもそもこっちは、先ほどの八尋に対する浩太くん云々の発言だけで、けっこうなダメージを受けていたというのに。
あいかわらずこちらの傷心などつゆ知らず、楽しそうににこにこ笑っている倉田に、おれは急に恨めしい気持ちが湧いてくるのを感じながら
「……なんか今」
「ん?」
「羽村の顔、金輪際見たくなくなった」
「え?!」
なんで、なんで急に、とあわてだした倉田の手から力が抜けたので、おれは自分の手を抜き取る。そうしていつの間にか離れていたハンカチを、本気で焦ったような顔をしている倉田の頬に、先ほどよりちょっと強めに、押し当てておいた。
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