鬼火(その2)

叩いて砕いた反故紙などを、山谷堀から水を引いた溜池で溶かし、四角い枠の網で漉って作る浅草紙は便所の落し紙に使われる。

ある朝、この溜池に男の死体が浮かんでいた。

奉行所から小者を連れた同心の岡埜吉衛門が調べにやってきた。

家がつい目と鼻の先の浮多郎も、すぐに呼ばれた。

小者と浮多郎とで、古紙のヘドロまみれの男の死体を竿で引き寄せて引き揚げ、草地に横たえた。

男は荒縄でぐるぐる巻きにされていた。

「殴られたのでしょうか、顔中痣だらけです」

浮多郎は、おとこの顔のヘドロを取り除きながらいった。

「ほほう、両耳の裏に穴があるな。血が滲んでおる」

しゃがみ込んだ岡埜が、十手で男の首を起こして、妙な感心の仕方をした。

「その昔、キリシタンを拷問にかけて転ばせるとき、耳の裏に穴を開けて逆さに吊るした。ふつうは、逆さに吊るすと頭に血が鬱血して死ぬが、耳の裏から血が抜けるので、苦しみがより長く続く。これは残虐な拷問だ」

・・・日常的に拷問をする奉行所の同心が、「残虐」などと口にするのは、笑止千万だ。

「この男に何か白状させようとして、誤って殺してしまったのでしょうか?」

「推測はいかん。奉行所の犬は、這いつくばって、ただ嗅ぎ回ればそれでよいのだ」

岡埜は、不機嫌そうにいった。

縄をほどき、からだを仔細に見ると、顔と同じように、胸と腹に殴った痣があった。

死因は、すぐには分からなかった。

・・・検死人が胸を切り開いて、そこにヘドロが見つかれば水死だろうが。

「岡埜さま、足首に縄目の跡が残っています」

男の濡れた着物を、観音開きにはだけた浮多郎が叫んだ。

男の足首を見た岡埜は、次に耳の裏の穴を再び調べた。

「ははあ、キリシタンの拷問の時は、錐で耳の裏に細い穴を開け、血をひとしずくずつ落とした。だが、この穴は大きすぎる。匕首か何かでほじったので、血が出すぎて、出血多量ですぐに死んだのだろう」

「ということは、聞き出すことも聞き出せずに殺めてしまい、この池に放り込んだということでしょうか?」

浮多郎がひとりごとのようにいったが、岡埜は今度は「推測はいかん」とは、いわず、

「聞き出して用済みになったから、池に放り込んで殺した。あるいは、単に痛ぶるだけのために吊るした。・・・どうにでも取れる」

鼻の先でただ笑った。

・・・やって来た紙漉き工場の頭が、水でふやけた男の顔を見るなり、「おお、弦蔵」と、いった。

弦蔵は、この工場で紙を漉く仕事をしていたが、根っからの怠け者で、金さえあれば賭場に入り浸り、なくなればここで紙を漉いて日銭を稼いでいた、ということが分かった。

「昨日ですか?朝のうちはいたのですが、昼からひとと会うとかで出かけました」

「しょっちゅう、ひとと会うと出かけるので?」

「いや。はじめてです。・・・ここで働きはじめてから三年ですが」

・・・それで、浮多郎は聖天稲荷に近い弦蔵の長屋をたずねることになった。

―「弦蔵が、仕事場で殺された?ああ、あいつなら、いかにも・・・」

長屋の入り口の雑貨屋の大家の親爺が、そこまでいうと口をつぐんだ。

先に立った大家が、突き当りの部屋の障子戸を叩いた。

障子戸を開けた少女が、浮多郎を見て、あわてて手で口を塞いだ。

・・・ついこの間、思い川に身投げしたお光ではないか。

「なに、亭主が殺された?おおかた天罰だろうよ。お天道さまは、さすがによく見てらっしゃる」

相変わらず痩せた青蛙のような母親は、内職の造花を作る手を休めずに、吐き捨てるようにいった。

「あとはそっちでどうにでもしておくれ。それが十手持ちの仕事だろ」

取り付く島もない、とはこのことだ。

お光は、部屋の隅で膝を抱えてうずくまり、涙を浮かべていた。

「どうしたい?」

浮多郎が、優しく声をかけると、

「あたいが、いけないんだ・・・」

と、つぶやくようにいった。

「何がいけないって?」

「・・・死んでほしいって、聖天さまにお願いしたから」

そう答えた瞬間、造花の束がお光の顔を目がけて飛んできた。

「馬鹿なことをいうんじゃないよ。この糞餓鬼が!」

青蛙が赤蛙にでもなったように、顔を真っ赤にした母親が怒鳴った。

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