鬼火~寛政捕物夜話15~
藤英二
鬼火(その1)
「泪橋から思い川に身投げした子供がいる」
ちょうど身投げするのを見たという魚の行商人の親爺が、小間物屋に駆け込んで来た。
それを聞いた浮多郎は、泪橋目がけて一目散に駆け出した。
ちょうど昨日台風が過ぎ去ったばかりなので、思い川は水嵩も増し、流れも速かった。
・・・少女の姿はどこにもなかった。
激流を見下ろしながら土手を駆けた浮多郎は、清川と合流するあたりで人だかりがしているのに気が付いた。
この辺の革のなめしをする工場の働き手が五人ほど、土手の下に輪を作っていた。
輪の中に、ずぶぬれの少女が仰向きに横たわっていた。
首の後ろに手を当てると、まだ脈があった。
胸と腹を押すと、少女は水を吐き出し、「う~ん」と唸った。
「土手でひと息入れているとこへ、この子が流れてきたので救い上げたところで」
と、男たちはいった。
少女を背中に担いで小間物屋へもどると、お新はすぐに隣の八百屋の実家へ行って、じぶんの古着を抱えてもどり、着替えさせて髪の泥水を手拭いで拭った。
浮多郎が昨日の残りの雑炊を温めた茶碗を渡すと、少女はむさぼるように食べた。
「さあ、家はどこかな?」
と、浮多郎がたずねたが、少女は黙ったまま答えない。
「お名前は?」
お新が優しくたずねても、やはり首を振るだけだった。
歳は十五ほどか、小柄だが目鼻立ちの整った美しい少女だ。
お座敷がかかっているお新は吉原へ出かけ、横になった少女は、やがて静かに寝息をたてて寝入った。
その時、「お頼申します」と、障子戸を叩く音がした。
「こちら様で、うちの娘を預かっていると聞きましたが」
しもた屋の女房らしき年増女が、勝手に入りこんで来た。
上がりはなの三畳間で寝ている少女に、
「お光、起きな。帰るよ」
と年増女は、濁った声をかけた。
「ちょっと待っておくんなせえ。どうも、このお光とかいう子は、あまり家に帰りたがっていないようで」
「何をいってるんだい。うちの子なんだから、うちへ帰るのが当たり前だろ」
痩せた青蛙のような顔をした女は、少女の手を千切れるほどの力で引っ張った。
その女の手を十手でぴしゃりと叩いたのが、いつの間にか奥の座敷の寝床を抜け出してきた政五郎。
「このお光とかいう子が身投げしたのを救ってここへ連れてきたのが、倅の浮多郎だ。まずもって、お礼のひとつもいうのが筋だろうよ。ましてや、ここは十手持ちの家だぜ」
十手をかざす政五郎に、
「おや、そうかい。そいつは、ありがとう」
女は悪びれずに、口先だけのお礼をいった。
「でもさ、ひとを助けるのが十手持ちの仕事。いわば、当たり前のことをしただけだろ。・・・ああ、手が痛い」
と、女は大げさに手の甲をさすった。
政五郎が気色ばむと、
「お母さん。あたい帰るよ」
お光は、政五郎をさえぎるように立ち上がり、じぶんの生乾きの着物に着替えてから、上がり框に下り立った。
「お兄さん、救けてくれてありがとう」
浮多郎に頭を下げるお光をひったくるようにして、女はさっさと出て行った。
―浮多郎が、この少女に二度目に会ったのは、お光の義理の父親が殺された夜だった。
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