鬼火(その3)
「ほんとうにどうにもならない乱暴者ですよ。あの弦蔵というやつは。『よくぞ殺してくれた』と、喜びこそすれ、悲しむやつなんざただのひとりもおらんでしょ」
大家が、「お茶でも」とさそってくれたので、間口半間の雑貨屋の奥の畳二枚ほどの居室に上がることになった。
この大家は話好きなのか、浮多郎にとめどくなく弦蔵の悪口を並べ立てた。
「弦蔵は、見てくれはそれなりの男なので、亭主を亡くしたばかりのお好は、酌婦をしていた三ノ輪の居酒屋で知り合うと、すぐ家に引っ張り込んじゃって・・・」
「ここだけの話、どうもお光ちゃんを手籠めにしちまったようですな。それもお好の目の前で」
『ははあ、お光が身投げした訳がこれか』浮多郎は、すぐにピンときた。
『ちょっとひどいんじゃないのかい』と、怖いので弦蔵にはいえないので、お好に意見したが、『こっちの勝手だろ』と逆に噛みつかれた、と大家は頭を掻いた。
「ところで、弦蔵は、昨日の朝はめずらしく紙漉きの仕事に出かけたようですが・・・」
「ああ、久しぶりにね」
「ところが、昼からひとと会うとかで工場を出たとか。ここへはもどらなかったので?」
「いや、もどってこなかったですね。ここに座っていると、長屋のひとの出入りは、猫一匹だって分かりますから。それはたしかです」
弦蔵は、紙漉きの仕事を放り出して、誰かに会いに行ったばかりに、耳の後ろに穴を開けられ、逆さに吊られて死んだ。
「この弦蔵という男は、どこからやって来たので?」
浮多郎がたずねると、大家は分厚い大福帳を棚からおろし、一枚一枚めくって、借家人を当たった。
「もともとは、お好に貸したので、あとから転がり込んだ弦蔵のことは何も書いてない。佐渡の出だとか、お好から聞いた気がするが・・・」
「佐渡ですか・・・。お好の死んだ亭主のことは何か書いてありますか?」
「忠吉だね。出自は書いてない。よく日焼けして、がっちりした大男の山師だったのはよく覚えている」
「山師って?」
「なんでも、あちこちの山を渡り歩いて、金だか銀だかの鉱脈を見つけて歩くそうで。そうそう都合よく見つかるはずもないが、けっこう金回りがいいときもあった」
「お好とはどこで知り合ったんで?」
「なんでもお好が、酌婦をしていた千住の居酒屋に客として来たのが縁らしい。お好が惚れ込んで子を孕んだので、ここで世帯を持った。もっとも、寒い冬場だけ江戸にいて、あとは諸国を歩き回っていたようだ。でも、帰るときは土地の土産を持ってくるし、お光のことも可愛がっていた。ただ・・・」
「ただ、何ですか?」
「薄気味悪いところもあった。いちど湯屋でいっしょになったとき、髪の毛を洗うのを後ろから見たら、両耳の後ろに穴が開いていた」
そのとき、大家もぎょっとしたのだろうが、今それを聞いた浮多郎もぎょっとした。
「訳はたずねなかったんで?」
「滅相もない。そんなこと聞けやしませんよ」
「宗旨は何だったんですかね。その大男の・・・」
「ああ、忠吉ね。宗旨かあ」
「その忠吉は、まさかキリシタンでは?」
「さあ、どうだろう。そうは見えなかったなあ」
「どうして死んだんで?」
「ああ、喧嘩でさ。ふだんは牛みたいにおとなしいが、酒が入って乱れると喧嘩っ早くなって。酒場で吉原の地回りのヤクザと喧嘩になって刺されて死んだ。三年前には、山師は引退だとかいって長屋に閉じこもっていたが、無類の酒好きで浅草寺の暮れ六ツの鐘を合図に界隈の銘酒屋に通っていた。そこの酌婦に惚れたらしくって、お好と毎日喧嘩が絶えなかったな」
「定職も持たずに、毎日女のいる銘酒屋によく通えましたね」
「俺もそれが不思議だった。それこそ、ひと山当てたのかもしれないね」
大家のおしゃべりはとめどなく続いたが、聞くことは聞いたので、ここいらでとりあえず退散することにした。
そのまま、地蔵橋の役宅へ出向いて、大家から聞き出したお好と弦蔵の話をしたが、どうにも岡埜は上の空だった。
唯一興味を示したのは、お好の死んだ亭主の忠吉の両耳の後ろにも穴があったところだけだった。
無頼の徒が殺されたことなど、奉行所にとってはどうでもよいことで、この事件のお調べは先へ進まなかった。
―そんなある日、聖天稲荷近くの長屋のおしゃべり大家が、わざわざ浮多郎をたずねてきた。
「お好は、どうもお光を吉原に売り飛ばそうとしているようです」
根っからのお人好しの大家は、どうやらお光の身の上を心底案じているようだった。
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