東京2020

江戸川台ルーペ

東京2020

 イチリヅカは後輩の女子で、とても目を引いた。肌が黒いのだ。知らない人は陸上部と勘違いをしたかも知れない。本当は地理研究部だ。授業では走ったりしていたのだろうが、僕は彼女が走る姿を見た事がない。親しい人と話す時以外、笑顔は一切見せない。


 部は「社会科準備室」という耳慣れない場所で活動していた。ほとんど物置小屋と言って良かった。でも、僕はその見捨てられたような、埃とチョークの匂いがする場所を気に入っていた。部員は僕とイチリヅカ、それとサトウ、ヤマダ、とかそこら辺。名前は適当だ。幽霊部員だったのだ。つまり、僕とイチリヅカは二人で机を向かい合わせ、特に疑問を感じる事も無く地図帳を眺める作業を日々送っていた事になる。


「地図って不思議ですね」

 僕は地図帳の東海地方あたりを模写していたので、イチリヅカの声を聞きそびれた。そもそも声も小さいのだ。

「なに?」

「地図って不思議ですね」

 今度はハッキリとイチリヅカが言った。まるで、これから物語が始まるような口調で。でも、僕は地図が不思議だとは思わなかった。地図は地図だ。

「どこが不思議なの?」

「私たちが住んでいる所はココ」

 トントンと地図を僕の前に示しながらイチリヅカが続けた。

「東京はここ」トントン。

「こうやって鉛筆で辿っていくと」

 イチリヅカが鉛筆で道を辿っていく。結構長い間、迷う事なくページをめくりながら鉛筆をグイグイと走らせていく。ッズズ、ズ。


【東京駅】


「ね?」

 ニカッと笑う。歯の白さが強調される。

「それは地図が不思議というよりも、道が全て繋がっているという事実に対してって事だな。地図はそれを正確に表しているに過ぎない」

 僕は先輩らしい事をいう。白さは消える。

「先輩は卒業したら東京へ行くんですね」

「そう。大学があっちだからね」

 僕は平素を装ってわざと軽く言った。きっと不安なのだろう。僕が引退すると、共に活動する者が誰もいなくなってしまう。たまに一緒に帰ったり、図書館へ行ったりする事もなくなってしまうのだ。

「先輩はあたしの色が黒い事を一度も茶化しませんでした。あたしはそれが、とても嬉しかったんです」クラスで陰口を叩かれているのを知っているのだろう。もしかしたら、酷いあだ名が付いていることも。


「イチリヅカは黒い方が良い」

 僕は正直に言った。それは本当の気持ちだった。

「髪もすごく黒くて真っ直ぐだし、肌と合ってる。眼鏡の銀のフレームがよく映える。睫毛も長いし、鼻の形も綺麗だ。でも、色白なイチリヅカを想像しても、あんまりしっくり来なかった」

 イチリヅカは黙っていた。それで僕はもう少し正直に話す事にした。僕の部活最終日なのだから、お互い腹を割って話しても良いと思ったのだ。

「夜、眠る前に想像した事があるんだ。その、肌が白いイチリヅカをさ」

「あたしの事を思ってくれたんですか?」

「うん、まぁそうだな」

 僕は他意が含まれないよう、中立的なニュアンスを残したまま言った。

「あたしのどんな所を想像したんですか?」

 銀色みたいな声でイチリヅカが尋ねた。

「イチリヅカは実は日焼けをしてるだけなんだ」

「……と言うと?」

 白銀の声だ。とても冷たい。

「これは想像だよ」

 一応僕は断りを入れた。

「例えば、体育の時に履いているショートパンツで隠れている所は白くて、今の半袖のブラウスで隠れてる所も本当は白いんだ。実はイチリヅカは単に日焼けをしているに過ぎない、という設定」

「設定」

「そう。でも、全然良くなかった。イチリヅカが白いって、どうもしっくりこないんだ。満遍なく黒い方がかっこいいし、君らしいって気がした」

 イチリヅカは椅子の音を立てて立ち上がって、僕の隣に立った。それから制服のスカートの裾を持つと、僕に向かってゆっくりとめくって上げて見せた。そしてギリギリ下着が見えないところで手を止めると、

「安心してください。ちゃんと全部黒いので」

 と言った。イチリヅカの黒い太ももは傾きかけた陽の光を受けて、明るく、ふっくらと暖かそうに見えた。

「そうだな」

 と僕は動揺を隠して言った。

「──先輩、触って確かめないんですか?」


 ◆


 2020年、夏。僕は弁当やらマクドナルドやらを運ぶ仕事をしていた。自前のロードバイクを駆って、スマホに表示される指示通りに店と客を繋げた。高度に洗練されたパシリと言っていい。東京は非常事態宣言が発令され、街という街は恐ろしい程ガラガラになった。大勢が家に引き篭もり、食事を求めた。それは仲介業者を経て僕に指令をもたらし、僕は東京の路地という路地を走り、店で受け取った食事を専用の荷台に収め、時には高層マンションの高層階へ、はたまたある時にはドブ川沿いの小汚いアパートに届けた。それは僕にとってうってつけの仕事だった。数をこなせば金にもなるし、身体も鍛えられる。


 指示を待つ間、天気が良い丸の内を軽く流していると、街路樹が並んでいるあたりで一人の女性がスマホを片手に周囲をキョロキョロと見回しながら歩いていた。最初は外国人かと思った。白い厚底のスニーカー、ネイビーのスキニー。白いキャミソールに大ぶりなシルバーの旅行用バッグを肩に掛け、つばの広い麦わら帽子を被っていた。広く露わになった背中の黒さに見覚えがあった。僕はすぐにそれが彼女だという事に気が付いた。手元のスマホのアプリを待機から休憩に切り替えると、ゆるゆると後ろから近付き、声を掛けた。


「久しぶり」

「うわっ! え、先輩!」

 イチリヅカはひどく驚いていた。

「何ですか、そのスパイダーマンみたいな格好。ウケる」

「チャリで配達やってんだ。見ろ、この太もも」

「うわ、すご!」


 彼女は四年前よりも幾分背が伸びているように思えた。顔もほっそりと女性らしく、形の良い額を気持ち良さそうに露出させ、相変わらず真っ黒い髪を後ろで束ねていた。


「何してるんだこんな時期に、こんな所で」

「その、宿を追い出されてしまいまして」

「何故また」

「軽症者の宿泊施設にするとか何とか」

 僕はニュースを思い出した。自宅待機ができない者は、都が借り上げた宿泊施設に隔離されるというような事を言っていたような気がする。

「そういう時って、代わりのホテルを取ってくれるんじゃないの?」

「何だか忙しそうで悪いので、断ってしまいました」

 僕は思わず絶句した。

「ホテルはどこも空いてるみたいですし、まぁべつに良いかなと」

 イチリヅカはこの時期に東京を訪れた事に後ろめたさを感じているようだった。

「じゃあウチ来いよ」

 僕は軽く言った。

「えぇ〜」

 ジト目でイチリヅカがいかがわしそうな声を上げた。

「後輩と感動の再会につけ込むような先輩でしたっけ?」

「時間は人を変えるんだ」

 僕は自転車用のプリズムサングラスを掛けた。

「悪いやつになるんだよ、東京に来ると。もう五人くらい殺したし」

 イチリヅカが懐かしい笑顔を見せた。

「じゃあ、東京の観光にも付き合ってくださいよ」

 いいよ、と僕は言った。

「生きている一日を少しでも満喫しよう」


 近場の無人レンタサイクルで電動自転車を借りて、イチリヅカがそれに乗った。僕達は晴天の、無人の東京に自転車を滑らせた。丸の内の大きな道路をゆっくりと通り過ぎて、有楽町を過ぎ、日比谷公園に入った。木陰のベンチに座り、日本橋で僕があらかじめ買っておいたサンドイッチを二人で分けて食べた。噴水は止められていて、普段なら大勢いるであろうサラリーマンの姿は一人も見かけなかった。涼しい風が傍を通った。


「まるで世界から人が居なくなったみたい」


 イチリヅカが小さな声で言った。それは思ったよりも僕の耳の近くで聞こえた。空にはぽっかりと白い雲が絵本のように浮かんでいた。車の音も聞こえなかった。風が豊かな緑の葉を揺する音だけが、我々にとって世界が静止していない証明だった。僕は唐突にイチリヅカの心臓を思った。理由は分からない。動いている。それから捲れ上がったスカートと、あの時触れられなかった、暖かそうな脚の付け根の事も。


 四谷方面へ向かい、ゆっくりと並走しながら、時折自転車から降りて歩き、東京の案内をした。国会議事堂、国立新美術館、新宿御苑。どこへ行っても猫一匹、車さえも見当たらなかった。国会議事堂の前に止まっているパトカーの運転席さえ無人だった。さすがに僕もあまりに異常過ぎると思ったが、深く考える事はやめた。今は異常なのだ。本当は我々は死んでいるのかも知れないな、と思った。ほとんどの人間が幽霊を知覚できないように、さまよう霊魂である我々も行き交う人間達を目にすることが出来ない。それは我々以外が死に絶えているという可能性よりも、ずっと自然な考え方であるような気がした。


「ねえ先輩」

 ゆっくりと並走しているイチリヅカが言った。

「ここ、よくテレビで映る所ですよね」

 新宿駅のバスターミナル前は道路も広く、JRの改札は広く口を開けていた。だが、やはり人は誰もいないし、車の往来もなかった。

「そうだよ。新宿駅西口だ」

 僕は自転車を進めながら言った。

 新宿はまるで清潔な廃墟みたいに明るく、道路に向けられたデジタルサイネージが夕日を反射し、よく見る顔のモデルが真っ直ぐに我々を見据えて口を動かしていた。しかし言葉は空気に溶け、判別する事は出来なかった。信号が一斉に青や黄や赤に変わった。

 彼女の自転車がキッと大きな音を立てて止まった。

「キスしませんか?」

 イチリヅカが大きな声で言った。


 となりの彼女の唇に軽く重ねた。時間が止まったみたいに風が吹いた。遠くで、列車がゆっくりとしたテンポで線路を鳴らす音が聞こえた。きっと無人の列車が、無人と無人の駅の間を繋いでいるのだ。




(了)

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