葉桜の君に

ゆうすけ

第1話 プロローグ 敗れたる者の定め

 男の忍刀しのびがたなが逆袈裟に女の胴を一閃した。

  ―――手ごたえ、あり 。


 しかし、男は忍刀を振り上げたまま、信じられないという表情でその場で静止する。

 女からの鉄壁ともいえる防御の手が、ない。

 そして、男の刃撃を圧倒的に上回るはずの反撃が、ない。


「…… 楓子! どうして! どうしてなんだ!」


 男は、忍刀を振り上げた姿勢で止まったまま、振り向かずにうめくような声を上げた。

 薄紫の袴に薄紅たすき姿の女は、膝から崩れるように倒れていく。

 ゆっくりと。

 静かに。

 舞い散る夜桜の花びらが、地に積もるかのごとく。


 男は忍刀を投げ捨てて女に駆け寄り、苦し気にうずくまる袴姿の女を抱きかかえる。薄紫の袴の胴周りがじわりと血の色に染まっていく。


「楓子!」

「あなたの方が …… 、強かった。 ただ、それだけよ」

「そんなはずあるか! 俺の忍刀を妖刀で相打ちにできないはずがない! なぜ、なぜ、妖刀を抜かないのだ!」

「ふふふ …… 、いつかはあなたの忍刀に負けるときが来ると思っていた。それが今だった。 …… それだけ」


 赤目の里の老桜の丘。青白い満月の夜空の下、抱きかかえられた女と手を添える男の二人の間に、花びらがひとひら舞い落ちる。

 月明りの照らしだす老桜おいざくらは、狂おしいばかりに咲き乱れていた。


 うずくまっていた女は苦しげにふらふらと立ち上がり、苦しげに男の手を振り払って背を向けた。


「楓子!」

「……私は敗れたる者。妖刀はあなたが持つべき。それで……、いいのです。妖刀がそれを望んだからこその、この結末なのです……」


 楓子と呼ばれた女は、じわりと血の染みが広がる懐から静かに脇差を取り出し、そっと地面に置く。一見ただの古びた小ぶりな脇差、それこそが赤目の里の隠れしのびの者たちに伝わる伝説の妖刀だった。


「さようなら、葉太。きっとあなたは、……末代まで語られる妖刀使いになれる。私はこのまま、……里を去ります」


 葉太と呼ばれた男は着流しの裾を春風にもてあそばれたまま、地面に置かれた妖刀に目をやった。桜の花びらが一つ、二つと見る間に舞落ちて降り積む。


「楓子! どこへ行くのだ!……しのびを抜けるつもりか!」

「敗れたる者は、死ぬるべし。さもなくば、去りて二度と来らしむべからず。…… それが、隠れ忍の里である赤目の掟。そうでしょ?」


 苦しげに微笑むと、楓子はゆっくりと足を引きずりながらその場を離れて行った。


「楓子、なぜ、抜かなかったんだ! 妖刀さえ抜けば、抜きさえすれば……。妖刀を抜かなかったお前に勝っても、俺の勝ちとは言えないではないか!」


 春のつむじ風が桜の花を乱れ飛ばす。葉太は振り返ると力の限り、声をあげた。


「楓子!!」


 しかし、その声の先に、楓子の姿はもうなかった。

 ただ、乱れ散る花に囲まれた老桜が、静かに月明りに向かって枝を広げているだけだった。


 ◇


 春風に桜の花びらが混じる季節。

 赤目の里を見下ろす丘の上には、一本の老桜が見事に花を咲かせている。

 もう十五年も前のこの場所の光景を、葉太は今でも思わずにはいられない。

 何も言わずに楓子は去った。今生きているのか、死んでいるのか。それさえも分からない。


――― あの時、楓子が妖刀を抜いていれば…… 、俺は…… 、赤目の里は……、どうなっていたのだろうか……。


 しかし、同時に今の葉太にはよく分かっていた。

 あの時、楓子が妖刀を抜かなかった、その理由わけが……。


――― 楓子。どこかで達者に暮らしていてくれ。妖刀は……今でも俺の手にある。次の妖刀使いが現れる……その時まで。



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