第4話 老桜、いまだ花開かず

 赤目の里のはずれにある小高い丘、老桜はいまだつぼみも固い。盛大に花を咲かせるはまだもう少し先だ。その老桜の袂には、ひっそりと一本の墓標が佇んでいた。


 葉太が桜子たちの指南にあたって一年になろうとしている。

 桜子は持ち前の天性の勘で吸い取るように葉太の技を次々と体得していった。幸いなことに、ここのところ里の安寧を揺るがす変事はしばらく起きていない。

 そのように過ぎていく日々の中、花冷えのするある日の午後のこと。葉太は先代の妖刀使い、玄水師の墓詣でに来ていた。


 葉太は花を供えて、着流しの懐から長数珠を取り出し手を合わせる。


 その時、葉太の背後の老桜の太い幹の向こうからふと殺気が漂った。葉太は振り向きもせずに長数珠をひと振りして、音もなく飛んできたをはたき落とした。


「桜子、そこに居るのは分かっておる。気の消し方がまだまだ甘いぞ」


 葉太の声に、老桜の枝を雲梯にしてばさりと音を立てながら桜子が飛び降りてきた。


「これしきでやられる大師範でないことは、存じ上げてございます。これはわたくしめのほんのご挨拶にございます」


 桜子はひざまずいて葉太に一応の礼を取ると、薄紫の忍者頭巾を脱いで葉太に明るい笑顔を向けた。こうしてみると桜子の顔にはまだあどけなさが残るが、その切れ長の瞳の面立ちは楓子のそれと驚くほどよく重なる。

 葉太は自分の心の揺らぎを悟られないよう、墓標に背を向けて腰を下ろした。桜子も葉太に合わせて腰を下ろす。

 啓蟄を過ぎたばかりの地面はひやりと冷たい。老桜の枝には固いつぼみ、見下ろす里にはまだところどころ雪が名残りをとどめ、冬の残像が揺らめいている。ただ午睡の陽射しはわずかにゆらめき、そこかしこに漂う春の匂いがふわりと鼻をくすぐる。春はすぐそこまで来ている。


「桜子、ここで何をしておるのだ」


 葉太と桜子が顔を合わせるのは社での鍛錬の時だけ。桜子はもともと社の小姓、鍛錬のない時間には村の衆の農作業を手伝ったり、社の掃除をしたり意外と忙しい。それははるか昔の葉太と楓子の日々の暮らしと同じだった。

 社の鍛錬の時とは打って変わって、桜子は緩やかな表情で年相応にころころと笑いながら言った。


「新技を習練中にございます。母上がやっていた技の見よう見まねなのですが、どうしてもわたくしめにはできない技がございまして」

「ほう、母君は何か武術をたしなんでおられたのか」

「いえ、道場に通っていた訳ではございませぬ。しかし、わたくしめも存じませぬが、何かしらの武術の心得があったものかと。母上は刀技も体技も一通りこなしました。今から思うに相当の手練れだったのではなかろうかと」


 葉太は内心どきりとした。桜子の母。年のころはおそらく葉太と同じぐらい。それは、取りも直さず葉太が常日頃抱いている疑惑への回答でもあった。


「母上はよく早朝に家の裏手で一人で鍛錬をしておりました。その時教えてもらった技は赤目の忍となった今のわたくしめに、とても役に立っております」

「ふむ。お前の肘激崩、あれは母君から習ったものなのだな」

「はい。母上直伝にございます。結構な威力にございましょう?」


 そう言うと桜子はあどけなく微笑んだ。その表情は葉太の思い出の中ではにかむ楓子そのものだ。間違いない。桜子は …… 楓子の血縁だ。それも、おそらく、実の娘。あの肘激崩を打てる母親が、世の中に何人もいようはずがない。


「しかし、一つだけ母上が教えてくれなかった技がございまして。母上の鍛錬を見て覚えた技なのです。型は合っているはずなのですが、わたくしめがやっても何の威力も出ないのです」


 葉太ははきはきと答える桜子を目にして考える。

 桜子が楓子の娘、それはほぼ間違いない。しかし、一番の疑惑はこれだ。

――― あの日、ここ老桜の丘から姿を消した楓子は、その後どのようにして無事に生き延びたのか。

 葉太の忍刀で負った楓子の傷は、決して浅いものではなかった。袴ににじむほどの出血もしていた。赤目の峠道を越えて他の村落までたどり着けたとはとても思えない。葉太はこの十五年の間、心の中ではどこかで生きていてほしい、そう切に願いながらも、楓子は死んだものと思っていた。諦めというよりも、ごく常識的な判断の結果、そう考えざるを得なかったのだ。

 その疑惑が、今、明らかになるかもしれない。


「大師範、我が母上は隠れ忍だった、と父上が申しておりました。母上自身からそのような話を聞いたことは一度もございませんが。むしろ母上は己の過去には一切触れたがらない様子にございました」


 やはり、そうか! 間違いない。桜子は楓子の娘。

 楓子は、傷を負いながら里を離れて、なお無事に生き延びて、子をなしていた!

 葉太は目をみはった。心のうちに広がる安堵と望懐の念。


「大師範、いかがなされましたか?」


 桜子が葉太の不審な様子に問いかけてきた。気が付くと葉太の頬には涙が流れていた。よかった。楓子。生きて赤目の里を離れることができたのだな。

 しかし、桜子は一人で峠道で行き倒れていた孤児みなしごとのこと。言葉を補うと、その結論はある一点にしか行きつかない。


「な、なんでもない。して母君は、今はどうなさっておられるのだ」


 葉太は鼻声をごまかすように慎重に言葉を繋いだ。桜子はすっと目を伏せ、早春のまだ冷えた風に乗せて静かに答える。


「何年か前の流行り病で亡くなりました。父上も後を追うように …… 」

「そうか」


 楓子は、亡くなっていたのか。楓子は、もう、この世にはいないのか。

 葉太の胸に締め付ける寂寥の想いが駆け巡った。

 しかし、楓子の娘の桜子が、現に今ここにいる。それはつまるところ、赤目の里を離れてからしばしの間、平穏に暮らせていたことの証。それならば、それならば、少しだけ救われたのかもしれない。


「それで ……、桜子は赤目に来たのだな」

「はい。父上は死に際にわたくしめにこう申しました。『 楓子は赤目の里にえにしがある。おまえもそこへ行き、楓子の果たせなかった夢を果たすのだ 』と」

「父君は如何様なお人だったのだ」

「父上は刀鍛冶で、普段は木こりをしておりました。ある日、赤目の峠道で倒れている母上を助けてから一緒に暮らすようになったと語っておりました」

「ほう。母君の果たせなかった夢、とは?」

「母上は娘のわたしくしめから見ても一流の刀技使いにして、体技使いでもございました。幼いわたくしめにせめて自らの身は自ら護れるように、と刀技と体技を教えてくださったのです」

「ほう」


 葉太は頷いて先を促した。


「父上が申しておりました。母上は昔、赤目の忍の頂を目指して鍛錬を重ねる隠れ忍だった。しかし、母上が頂を目指すのをよしとしない者に邪魔をされて、赤目の里を離れ、抜け忍とならざるを得なかったのだ、と」


 違う。楓子は一度は頂に立ったのだ。誰に憚ることもない、忍の頂を極めたのだ。

 しかし忍の頂に立っていることを、楓子自身だけが認めていなかった。妖刀を抜くことができない楓子自身が、妖刀を楓子自身が、忍の頂を避けて、逃げていたのだ!

 葉太はそう叫びそうになるのをぐいとこらえ、押し殺した声で返す。


「桜子、それは、違うぞよ」


 しかし、桜子はひるまずに、意思のこもった鋭い声で応じる。


「何が違うとおっしゃるのですか。母上ほどの技量を持っていたのであれば、赤目の忍の頂に立ててもおかしくはなかったのです! それほど、それほど母上の技は素晴らしかったのです!」


 一言区切って、静かに居住まいを正すと、桜子は射るような目を葉太に向けて言った。


「わたくしめは母上になりかわって、赤目の忍の頂に立ちたいと思うております」


 桜子の言葉には、いささかの迷いもない。


「そうか」


 これも運命さだめなのか ……、葉太は思った。


「それは、つまり俺を倒す、と言うこと。俺を倒さねば頂に立つことは叶わぬ。それが赤目の忍の掟。それは知っておるな? それでも立ちたいと申すか」

「はい」


 桜子は微塵も揺るぎのない答えを返す。その切れ長の瞳に強い意志の炎が宿っているのが、葉太にははっきりと見えた。


「分かった」


 葉太は、立ち上がった。

 これを言えば、おそらく桜子は葉太に敵意を向けてくるだろう。しかし、…… それも運命さだめ。赤目の忍の頂を目指すなら、余計ななさけさとりはいらぬ。ひたすら純なるにくしみだけで、向かってこい、桜子。

 葉太は、桜子の目を見て告げた。


「一つ、教えておこう、桜子よ。お前の母君、…… 楓子を赤目の里から追い出したのは、この、俺だ」

「え!?」


 今まで冷静だった桜子の瞳に、始めて動揺の色が走った。

「大師範が ……、大師範が ……、母上を?」


 葉太の言葉の意味を理解するにつれて、桜子の瞳は深く揺れ動いていく。そして立ち上がった桜子は「失礼いたします」とだけ言うと、たちまち消え去るようにいなくなってしまった。


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