第5話 散ってこその桜花
その日から桜子は「しばらく山に籠る」と社の者たちに言って姿を消した。忍が一人で山修行するのは珍しいことではない。山修行には若干季節外れではあったが、誰もそれほど不思議に思わなかった。
春の陽射しは、日に日に色濃くなる。
赤目の社の桜も、つぼみが開き始めた。
弥助は乙の組の年若い忍たちに稽古をつけつつ、自らも大太刀を振るって鍛錬をしている。それを遠目に見ながら、葉太と五兵衛は本殿のまだ花開き始めたばかりの桜を見上げていた。
「五兵衛、そろそろ、かもしれんな」
「桜子に、ございますか」
「ああ」
「大師範、負けてやるお考えですかの」
「いや、負けるつもりは、ない。ただ、勝てる気も、しない。なんと言っても桜子は、楓子の血を受け継いでいる。考えてみれば、俺は一度も楓子に勝ったことがないのだ」
「妖刀使いが
「楓子は、妖刀を抜いたのだろう? 先代との …… 最期の手合いの時に。一度だけ」
「 …… 抜かれました。それはそれは見事な妖刀さばき。楓子殿の幻術『秘技
「ふふふ。今なら先代のお心、俺には分かるぞ。そして、楓子がそれ以来二度と妖刀を抜かなかった
葉太は心の中で楓子に小言を垂れる。
楓子、お前は自らの未熟な幻術技で先代を死なせてしまったことを、ずっと悔やんでいたのだな? それが迷いとなって、妖刀を抜くのをためらわせ続けたのだな?
俺との手合いの時にも、お前は、妖刀を抜かなかったのではない。抜けなかったのだ。俺を死なせてしまうのが怖かったのだ。まったくそんなところで
遠くに弥助たちの掛け声を聞きながら、葉太は着流しのたもとに手を入れた。そして、五兵衛に向かってかしこまって、告げる。
「五兵衛。長い間、…… 世話になったな」
「…… 葉太殿。里の掟は『去りて二度と来らしむべからず』でござろう。葉太殿が死なずとも、妖刀は継がれますぞ」
「いや、五兵衛。掟は『敗れたる者は、死ぬるべし』だ。本来、先の妖刀使いが生きていてはならないのだよ。先代はそれを分かっておられた」
「葉太殿 ……」
◇
葉太の元に文矢が刺さったのは、それからしばらく後の、春の午後だった。
◇
月明りの夜。
満開の老桜。
花びらが舞い散る丘は、かつて葉太が楓子と対峙した夜と同じ匂いに満ちていた。
里を見下ろす丘の上に着流し姿の葉太がふらりと現れた。着流しの裾が春の夜風になびく。先代玄水師の墓標に深々と礼をして、老桜の根本に行くと、太幹を背に腰を下ろし、禅を組んだ。
がさりと音がして、葉太の前にいつの間にか桜子が膝をついていた。薄紫の袴に白い襷、長い髪に白鉢巻き。忍の者が闘う時の正装だった。
「赤目の忍、春川桜子。今宵、妖刀使いたる大師範秋田葉太殿に手合わせいただき、まことに嬉しく思いて候」
「…… 桜子、手加減はせぬぞ。俺を殺す気で来い。よいな?」
「はい」
「俺も、お前を、殺す気で行く」
そう言うと葉太は今まで見たこともない殺気をみなぎらせて立ち上がった。老桜の盛大な花の向こうに、宵の月。立ちあがって腰の忍刀に手をあてる葉太は、その身長以上に大きく桜子の前に立ちはだかった。
「桜子、いくぞ!」
「はい、いざ尋常に!」
「はああ! そおおりゃあああああ!!」
気合い一声、葉太が腰の忍刀を抜いて切りかかる。速い。逆袈裟の太刀筋は、弥助との鍛錬のものとは根本的に違うものだった。それでも桜子は左身でかわす。桜子の頬に一筋の太刀傷がつき血がにじむ。
「ほお、俺の忍刀をかわすか。腕をあげておるな」
葉太は後ろ宙返りで間合いを取る桜子に、さらに踏み込みながら声を発した。
「しかし、桜子よ! かわしてばかりでは勝てんぞ!」
桜子は必死に
(
次第に桜子に焦りの色が濃くなってくる。
(間合いの外から技を入れなければ! 何か、何かないのか!)
切りかかる葉太の乱切りを避けながら、桜子は必死に隙を探す。しかしそのようなものが簡単に見つかるほど葉太は甘くなかった。隙はない。どこにも。葉太は絶え間なく忍刀を切り付けてくる。
桜子はとっさに右身で葉太の忍刀をかわした。左身でかわすより一呼吸早く体が戻る。葉太の切っ先はまだ地面に向いたままだ。
「見えた!! 好機!!」
桜子は一声発すると同時に、身を沈め低い位置から左ひじを葉太の脇腹に向かって突き出した。
「はああああ、肘激崩っ!! はいっ!!」
いつもとは逆の、右身からの左の肘激崩。しかも葉太の乱切りの前に出る動きに
葉太はほんのつかの間だけうめいて、すぐに立ち上がった。
「ふっ、桜子よ。いい肘激崩だ。しかし ……」
葉太は懐から古びた脇差を取り出し、鞘を払った。妖刀の刃身が月明りにぎらりと光る。
「楓子の肘激崩は、
葉太は月を背に立ち上がると、脇差しを正眼に構えた。丹田に力を籠める。妖気が妖刀に集まるのが夜目にも見えた。
「桜子。今一度、聞こうぞ。お前はここで
桜子は葉太に正対した。次に来るのは必殺の幻術に違いない。逃げられない。かわすこともできない。母上もこのようにして敗れて、赤目の里を去ったのか。
「いいえ、わたくしめは、勝ちます!! 母上の果たせなかった忍の頂に、必ずや、立って見せます!!」
桜子は凛として答える。具体的な勝ち筋は何も見えていない。
「その心意気、忘れるでないぞ。しかし、情は、かけぬ!」
葉太は正眼の構えから妖刀を寝かせ、八相の構えに持ち直した。
「まいるぞ、桜子、覚悟いたせ! はあああああ、秘技神龍超空斬っ!!」
その場で妖刀を振る葉太。切っ先から流れ出た妖気のもやは、
「そおおりゃあああああああ!!」
(これが、これが、妖刀の放つ幻術 …… 。ああっ、母上! 桜子には、あれはかわせませぬ …… 。桜子は ……、母上の夢を果たせぬままお側に参ります。お許しください。母上ーーーっ!)
その時、桜子の耳に、葉太の耳に、月明りの夜空から柔らかく届く声があった。
――― 桜子よ。あれは妖刀の放った幻術。そなたの弱気が見せた幻の龍。かわしてはなりませぬ。受け止めなさい。
「そうだ! 桜子! この金色の龍に惑わされている限り、頂にはたどりつかぬぞ。怖れてはならぬ。
金色の龍のうしろから妖刀を抜いた葉太が切りかかってくる。
桜子は意を決して、迫りくる龍に向かって、正面から腰だめに構えを取った。
光る龍の二つの赤い邪眼。大きく口を開け、今にも桜子に食い掛ろうとする。
桜子は手のひらを龍の口に向けて、真正面から突き出した。
「ぐおおお、掌底破龍烈撃ーっ!!」
桜子の両の掌から放たれた気と金色の龍がぶつかり合う。光と光の衝突は丘を昼間のようにまばゆく辺りを照らし出した。
やがて、龍は掻き消えるように霧散し、妖刀は鞘に戻って葉太の手から弾けとんだ。そして、くるくると回りながら月が輝く澄んだ宵空を横切り、桜子の足元にばしりと落ちる。
葉太はそれを見てふっと口角をあげる。
「それが、…… 妖刀の望みであるのか。しかと ……、しかと、見届けたぞ。これぞ、
そして、先の肘激崩で弾かれた忍刀を掴むと、地を蹴り、老桜の太幹と太枝を伝う三角跳びで空高く飛び上がった。空中で上段に構えを取る。
葉太の忍刀の切っ先が目指したのは、足元の妖刀を呆然と見つめる桜子だった。
「てりゃあああああ!!」
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