第9話 喉奥に飼うのは蕩けるコスモ
アスファルトが焼ける匂いがした。日傘の隙間から見覚えのある横顔が見えた。もっとも、記憶の中の彼女は今よりずっと派手な服を身につけていて、ベビーカーは押していなかったけれど。今日の午後三時。ファミリーレストランでたわいもないことを話して手を振って別れた。たった二時間ほどのことだった。うんざりするほど蝉の鳴き声がする。濃くなる影を引きずって上り坂を歩く。オレンジ色の西陽が容赦なく私の肌を焼いた。
「ただいまー」
玄関で沙夜ちゃんの声がした。午後九時半。私はレンジの線を挿して玄関へ向かう。
「おかえり。飲み会終わるの早かったね」
パンプスの踵に手を掛けながら、彼女は駅前にあるベーカリーの袋を差し出した。
「はい、お土産」
ふわりと小麦の香りが漂う袋を開くと、私の好きなカシューナッツのパンが入っており思わず頬が緩む。香ばしい匂いを吸い込んでいる私を見て沙夜ちゃんは何してるのと呆れる。言葉とは真逆に私の頭を撫でる手のひらは優しくて、思わず唇を合わせた。
「なんだか私も飲みたくなっちゃった」
「飲む?」
いつもよりやや紅潮した顔で沙夜ちゃんは、優しく笑う。居ても立っても居られなくなり、ぎゅっと細い腰に抱きついた。沙夜ちゃんは察しがとてもいい人だ。
「はいはい、決定ね」
手、洗ってないんだけどな。小さな呟きと、子供を宥めるような温度が再び頭に触れた。
グラスに入ったスパークリングワインをぐいと飲み干す。近所の輸入品が多く並ぶスーパーで買った、チリワイン。
「よく飲むね」
「うん」
沙夜ちゃんがついでくれるままに、新しく注がれた薄い蜂蜜色の液体を口に含む。
「……なにかあった?」
彼女の声を聞きながら、クラッカーを齧る。乗せたカマンベールチーズが口の中でとろりと溶けた。
「うーん、なにも」
即答しなかったのが返事だった。ほんの少し私と沙夜ちゃんと、その他大勢の人たちがいる世界の間に隙間が見えただけ。それだけだった。苗字ももう知らない知人の言葉で浮き彫りになった隙間を思い出しただけ。真っ黒くて底なしで、私たちにはどうしようもない薄い隙間が。
「なんでもない。なんでもないんだけど」
アルコールが喉の奥で弾ける。宇宙にとって地球が生まれた衝撃は、こんな程度だったのかもしれない。
「もしも世界中の人間が私たち二人だったらどうする?」
スパークリングワインをがぶりと飲み干す。辛口の液体が喉の奥に流れ込んできて、仮想の地球がぱちぱちと生まれる。
「うーん、世界に私と葵二人だけだったら、か……」
こんなの酔っ払いの戯言だと笑って流せばいいのに、沙夜ちゃんは律儀に考え込んだ。生真面目なのは彼女の良い所だったけど、聞かなかったことにしてほしかったとも思う。子供の頃、答えの無い質問はするなと教えた人を思い出す。あの頃から私は何も変わっていないらしい。
「そう真面目に受け取らないでよ」
笑って誤魔化すと、彼女はちょっとだけ口角を上げて私の顔を覗き込んだ。
「葵と二人だけの世界だったら、そうだな……まず朝は寝坊しがちな葵をできるだけ怒らないように優しく起こす」
私は自慢じゃないけど、朝に弱い。夜の方が絵はずっと捗るし、静かな時間の中仕事をしてるのはまあまあ好きだ。
「いつも沙夜ちゃん怒るもんね」
「それは葵がいつまでも起きないから」
沙夜ちゃんはそう嗜めて、それからと再び口を開く。
「昼はお互いできることをする。葵は絵を描いて、私は会社……は無いから畑仕事をしようかな」
「沙夜ちゃんが畑!?」
「だって自給自足しなくちゃ。お野菜葵も好きでしょう」
沙夜ちゃんと農作業が頭の中で結びつかず、頭を傾げているとすっぱりと潔い返事が返ってきた。
「二人で食べていくための仕事があるなら私はしたいな」
沙夜ちゃんの返事にそうかもと頷くと、彼女は力強く首を縦に振った。沙夜ちゃんの農作業を後ろから見つめて描く絵もなかなか楽しいかもしれない。私は滅多に人の絵は描かないけど、緑いっぱいの中で一生懸命畑を耕す彼女はきっと綺麗で描きたくなるに決まっている。
「それでね、夜は二人で美味しいごはんを食べる」
「沙夜ちゃんの作ったお野菜で?」
私が尋ねるとうんと彼女は笑った。
「葵が描いた景色で埋め尽くされている部屋で、こうやって向かい合わせに座って美味しいごはんを食べるの」
どう? と彼女は柔らかい瞳で私を見つめる。挑戦的な瞳は自信ありといった様子だった。
朝は大好きな人の声で起き、お昼は好きな絵を描いて、夜は二人でお疲れ様って言いながら食卓を囲む。どうもなにも無かった。こんなのまるで、まるで。
「そんなの、今とほとんど一緒じゃん!」
私が思わずそう口にする。朝会社に行く沙夜ちゃんに起こしてもらって、昼はお互い仕事をして時々メッセージを送ってみたりして。それから夜は沙夜ちゃんとできたてのご飯を囲んで食事を摂る。そう、こんなの今と何ら変わらないのだった。
沙夜ちゃんはそっと私の手を握る。こつん、と沙夜ちゃんの少しだけ温度の高い額が私の額に合わさった。
「そうだね、一緒だね」
アルコールの匂いがふわりと鼻に届いた。私は喉奥で仮想の地球を回す。お腹の中で渦巻いているブラックホールがしんと静まり返っている。
「今の世界でも、葵と二人きりの世界でも同じだよ。私と、葵は一緒で同じ」
長い睫毛の奥の瞳が柔く細められた。とろりと溶けそうな目は、きっとお酒のせいだけじゃないとさすがに私もわかってしまう。
「葵」
どろどろに甘い声が私の名前を愛おしそうに呼んだ。
「……なに?」
初めて手を繋いだ時みたいに、触れている指先が熱かった。やっとのことでそう返すと、得意げで満足そうな笑みが間近で浮かべられる。
「大好きよ。二人きりでも、そうでなくても」
囁くように綺麗な唇が音を紡いで、繋いだ手にきゅっと力が籠った。答えなんて聞いた私が馬鹿だった。私のちっぽけな不安なんて沙夜ちゃんにかかればとびきり甘い空想になる。
私の喉の奥で作られた地球はぱちんと弾けて消えてしまった。お腹の中のブラックホールはものすごい速さで収縮し始めている。流し込んだワインはもう角の取れた味がした。
「ねえ、アイス食べたい」
数秒間の沈黙の後、私がやっと言えたのはそれだけだった。ふわふわと火照る体内に今必要なのは冷たさだった。
「いいよ、買ってこよっか」
頬に一瞬唇が触れて、アルコールの香りが遠のいた。椅子を引く音がする。馬鹿みたいにうるさい私の心音に混ざって、彼女が手早く支度をする様子が聞こえてきた。
「待って。私も一緒に行くよ」
カジュアルなパンツに長財布を差し込んだ後ろ姿を追いかける。
「何買う?」
当たり前のように差し出された手のひらを強く握った。ごくりと喉が鳴る。冷たいだけのアイスはいらなかった。冷たくてほろ苦くて、それでも最後はほんのり甘い味じゃなきゃ駄目だった。
「ラムレーズンアイスがいいな」
一瞬だけ私を振り返った沙夜ちゃんは大きく目を見開く。どくどくとさっきから心臓は跳ねっぱなしだ。沙夜ちゃんは怒るだろうか、嫌な顔をするだろうか。唇に乗せた秘密に柄にもなく怯えていたら、ふっと近くで柔らかい笑みが零れた。
いつのまにか逸らしていた視線をそっと上げる。すると沙夜ちゃんはまた蕩けそうな目で私を見つめ、私の大好きな柔らかな声でいいよとそう言った。
ラムレーズンララバイ 七夕ねむり @yuki_kotatu1
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