第8話 ドグマチックな魔法使い

 沙夜ちゃんは臆病だ。多分私が思っているよりずっと。


 パレットで絵の具を混ぜながら、頭の中の色を可視化していく。大方埋められたキャンバスは、脳内イメージを精密に再現していた。これなら先方もゴーサインを出してくれるに違いない。駄目だと言われたら、それはその時考えればいい。


 思えば私は今までそういう見解で生きてきた。これは過言でも何でもなく、好きじゃなくなったら縁を切ったし、失敗したらその瞬間の気分で頑張ったり頑張らなかったりした。その結果私は変に上手く生きていく術を身につけてしまい、二十代半ばにして大体のことに飽きてしまった。

 世の中のことは立ち回りさえ上手くすれば、私の都合通りとはいかないまでも、近しい結果を招く。だって私は容姿には恵まれていたし、人に好かれる話し方、印象のいい表情、そういうものをすでに身につけていたから。

 そんな性格だから、十八の時に実家を出てから故郷の土地は踏んでいない。私が「普通」でないことは両親共に手を焼いていたし、どこで嗅ぎつけたのか専門学校を卒業するまでは学費を振り込んでくれていたからここが落とし所なんだと思っていた。

 私のスマホのアドレス帳に、両親の名前はない。姉の連絡先はあった気もしたけど、朧げな彼女のことを思い出すのはなかなか難しい。彼女は私と違って「普通」なので、きっと両親とも上手くやっていることだろう。最後にメッセージを送ってきたのは二十歳の誕生日だった。スタンプだけ返した私を深く追求してこなかったのは、彼女の美点だ。


 チンとオーブントースターが香ばしい匂いを立ち上らせながら鳴いた。焼きたてのトーストと、昨日のシチューをハート型の器に注ぐ。少し薄茶が混じった液体は、私のようだと思った。綺麗なのに、本当は全然綺麗じゃない私みたいだ。

 昨日はちょっと言い過ぎたかもしれない。サクサクと口にトーストの端っこを含む。沙夜ちゃんは明らかに困っていたし、私はどの角度から見ても優しくはなかった。

 沙夜ちゃんのスマホは結構頻繁に震える。仕事の方の電話なら言わずもがな、私用のスマホもわりと頻繁に。付き合いっていうのも面倒だと彼女はため息を吐いていたけれど、困っているわけではなさそうだった。私からしたらプライベートをビジネスだけの人間に邪魔されるなんて、たまったものではないけど。沙夜ちゃんと同じ思考にはなれないし、なれなくていいと思ってるからそれは別にどうでもよかった。

 彼女が本当に困っている振動は一つだけ。それが昨日の夜の着信。

 私が知っているだけでも、この一週間で二度は掛かってきていた相手。おそらく沙夜ちゃんママからだ。その震えだけを優秀な犬のように嗅ぎ分けて、彼女は聞こえなかった振りをする。きっと会社の昼休みとかにも掛かっているんだろう、あの様子では。

 自分が叶わないものを捨てようとしているのが、羨ましくなったのが一割。もったいないなって思ったのが九割。

 これは私の勘だけど、沙夜ちゃんのママならきっと沙夜ちゃんのことわかってくれる気がする。もちろんパパも。だって幼い頃の思い出を話してくれる彼女の口ぶりはいつになく柔らかだったし、愛されて育ってきている人の顔をしていたから。

 冷めたシチューを口に運ぶ。少し焦げたルーがほろ苦く密やかにいい味を出している。私は私のことが嫌いではない。あんな狭い世界にいるくらいなら、今の自分の方がずっと好きだ。でも、まだ手を伸ばせば届く場所に居るのなら。それが他でもない沙夜ちゃんだから。手を伸ばす方向ぐらい教えてあげたいって、そう思うのはエゴだろうか。

「って言ってもね……」

 私は頭があんまり良くないし、沙夜ちゃんでさえ手を焼いていることに口出しなんか出来るのだろうか。いや、これは言い訳。

 私は、口出ししてもいい立場なんだろうか。


 夕飯の支度をあらかた終える。テレビをお決まりのグルメ番組に変えた時、玄関で鍵の開く音がした。カチャン。私が最も好きな音の一つ。

「おかえり!」

 答えに辿り着けないまま、少しくたびれたスーツを眺める。ワックスが落ち、お化粧が崩れている沙夜ちゃんは、いつもよりちょっとお疲れのようだ。

「ごはんすぐに出来るよ。今日はピカタ!」

 ほらと綺麗な衣を纏ったのお肉を見せても、沙夜ちゃんの顔色は良くならなかった。私ほどじゃないにしろ、沙夜ちゃんはお肉も好きなはずなのに。

「葵、ただいま」

 ジャケットを脱いで手を洗って。それから彼女はそう一言呟くと、私の肩口に顔を埋めた。

「……沙夜ちゃん?」

 唐突な行動の意味を尋ねてみる。

「充電するからちょっと待って」

 背中にゆっくりと沙夜ちゃんの温度が伝って溶ける。耳元まで届く呼吸がくすぐったくなる。

「沙夜ちゃーん」

 子供っぽいことをする彼女が珍しくて茶化そうとした。

「ねえ、葵って……魔法使えたりしない?」

 それなのに、聞こえてきたのは冗談や軽口じゃなかった。彼女の口から出たとは思えない夢見がちな音だった。普段の沙夜ちゃんに似つかわしくない掠れて縮んだ言葉。こつんと背中に無機質な感触がした。私はやっと彼女の言葉の意味に気がつく。

「……沙夜ちゃんは知らなかったと思うけどー」

「うん」

「私、今日だけ魔法が使えまーす」

 いつのまにか震えてる肩にそっと腕を回す。今彼女は、私の背中越しに手を伸ばそうとしている。私が望んでも、もう手に入れられないものに。

「それって今使えたりする?」

 上擦った声は一生懸命、いつもの気丈さを取り戻そうとしていた。心の抵抗みたいにカタカタ震える背中を、ぎゅっとぎゅうっと抱きしめる。

「もちろん。沙夜ちゃんのためなら」

 見えない表情を想像して、目を閉じる。

 沙夜ちゃんのためなら、嘘つきでも魔法使いにだってなれる。

「ありがとう」

 ぎゅっと背中に回された両腕に力が込もる。そして彼女は静かに息を吐きながら私を解放した。ぼたりと重力に逆らわず、薄い端末が不時着する。

「……なんて送ったの?」

 そろりと白い腕を解きながら尋ねる。沙夜ちゃんはだらりとされるがままになりながらも、カーペットに落ちたスマホを拾い上げた。

〝私は元気です〟

 目の前に突きつけられた、メッセージ画面を見つめる。本当に一言だけ。今時手紙でも使わない文字の整列。

「格好悪くてごめんね」

 子供みたいに拗ねた声が小さな唇から発せられた。

「沙夜ちゃん」

「なに……?」

 沙夜ちゃんは真っ黒な短い髪を掻き上げる。いつも通りのポーズを取る彼女が、とびきり愛しく見える。

「沙夜ちゃんはね、かっこいいよ。いつもかっこいいけど、今日はね」

 背伸びをして、彼女の耳元へ唇を寄せる。一瞬視界を過った瞳は気恥ずかしさを隠し切れていない。

「今日はいつもよりもっと大好き」

 ごくりと息を呑む音が聞こえた気がした。私の狡さも沙夜ちゃんがドキドキしてくれるなら、悪くないかもしれない。そんなことをちょっとだけ思ったりする。

「ありがとう」

 沙夜ちゃんが眉を下げて、はにかんだ。途端に私の心臓がばたばたと暴れ出して煩くなる。私は沙夜ちゃんのこういう所が苦手で、大好きだ。


 沙夜ちゃんは澄ました顔でスマホをソファーへ置く。まるで帰宅時から今までのことは無かったかのように。今度こそスマホは無事着陸した。涼しい横顔が悔しくなって、私は再びピカタの飾り付けを始める。顔も知らない人に、願いだけを送りつけながら。

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