第7話 金平糖ポイズン
鞄は相変わらず二、三回微かに震えていた。外から見てもわかるのが癪だと思った。これ以上その光景が意味することを考えたくない。私は自立する優秀な鞄を、視界の端に押しやって夕飯の席に着く。
「わ、美味しそう」
机の上には大きなスープ皿。湯気を立てた真っ白なシチューが、ふわりと甘い香りを漂わせている。
「冬に入るとやっぱりシチューだよね」
葵もくすくすと笑って、椅子に掛けた。
「いただきます」
どちらともなく手を合わせて、スプーンでそっとクリームシチューを掬う。たっぷりお皿に注がれた温かい湖には大きめに切った橙や緑の島が浮いている。
「今日はね、お野菜ゴロゴロヘルシーシチューだよ」
得意げに言って、葵はにこにことじゃがいもを割る。
「鶏肉、胸?」
「そうでーす、安かったんでーす」
私と違って猫舌じゃない彼女の口には、次々と具材が放り込まれていく。彼女が面白いほどに気持ちよく食べていく様を眺める。残念ながら私のシチューはまだしっかり湯気を燻らせているからだ。
「折り返し、しないの」
液体部分だけでも飲もうかと、スプーンの先を沈めた時だった。明日の献立を話すような口調で、彼女は私に問う。
「……」
誤魔化したって意味がないことは理解していた。葵はこういう所が妙に聡くて、容赦がない。
「もう少し後じゃ駄目?」
葵の言わんとしてることがわかってしまうのは、付き合いの長さだろうか。それとも私の愛情だろうか。
「沙夜ちゃんはね、逃げちゃう時は徹底的に逃げちゃうから。だから、駄目」
恐る恐る顔を上げると、澄んだ瞳と視線が合った。私が格好悪く情けなく俯いている間も、この綺麗な目は私を捉え続けていたのだろうか。
「お母さんでしょ」
主語がなくったってその言葉が意味していることはわかる。
「
仲の良い友人の名前を挙げると、ため息を吐いて私をまじまじと見つめる。
「未季子さんなら、すぐにかけ直すでしょ。私のシチューを優先してくれたのなら、それは嬉しいけど」
にんまりと弧を描く口元は薄い桃色。葵は色を乗せていなくても唇の血色がいい。
「……だってどうせ現状確認だよ」
そっちはどう? 寒くない? そんな質問が電波に乗って聞こえてくるに決まってる。
「一緒に住んでいる人はどんな方?」
とか、ほらこんな感じで尋ねられるに決まっている。
「って、え?」
「そういうこと聞かれるのが大嫌いなんでしょ。沙夜ちゃんは」
びっくりした。母親の声で私の脳には流れ込んできたから。それぐらい聞き飽きた音の欠片だということなのか。
「……うん」
「私と住んでるの言ってないんだよね」
「……うん」
責めてるわけじゃないよって葵は笑って、私の止まったままの手に体温を乗せる。彼女の手のひらの温度が心地よくて、スプーンを置いた。
「ごめんね、格好悪くて」
綺麗な楕円の爪をなぞる。貝殻みたいな柔らかい色。この爪が葵の一部なことに妙に納得した。
「沙夜ちゃんの意気地なし」
「うーん、知ってる」
無防備で巧妙な指先をそっと撫でる。言い訳みたいに、そっと。
「いつもは何でもちゃきちゃき決めちゃうくせに。自分のことなのに」
痛い言葉がちくちく刺さる。とげとげの金平糖みたいなパステルカラーの毒たちが。
「うーん、返す言葉もない」
えい、と指を絡めてぎゅっと握る。少しだけ勇気を分けてと心の中で唱えながら。葵は呆れているだろうか、自分のことさえ家族に伝えられない私に。知らないところで幸せでいて欲しいと思うこの気持ちを、傲慢だと思うだろうか。
「私は格好いい沙夜ちゃんが好きだな」
私もそうだ、格好いい私が好き。情けない私は嫌い。こんなこと、十代に片をつけている人だっているのに。私はそれが二十代後半になってもまだ出来ない。今日は、今日こそは。
息を飲む。肺に送った空気を一瞬留まらせて。そして、そのままそっくり吐き出した。
「……今回は……パスを使わせてください」
喉から絞り出したのは、本当に情けない震えた声だった。はっきり言って今私は、世界中で最も格好悪い恋人選手権で優勝できる。
「なに!? それ!」
それなのに葵という女の子は、すこぶる楽しそうに声を上げて笑った。ぎゅっと私の右手を握り返しながら。予想外だったけれど、葵らしいと言えば葵らしかった。
「ごめんね」
唇を噛み締める。情けなくてごめんね、子供から抜け出せなくてごめんね。沢山のごめんねを胸の内で吐く。しかし葵は、薄くなった眉をハの字に下げながらうんとたっぷり私を見つめた。
「格好悪いけど、いいよ。……沙夜ちゃんだから」
他の人なら駄目だけど。そう付け加えられた言葉がとびきり甘くて心臓がどくりと音を立てる。さっきはあんなに静かだったのに。
「急いで駄目になっちゃうより、ずっといいよ」
葵は私の硬い髪に手を伸ばしてゆっくりと頭を撫でた。恭しくて、危なっかしい不慣れな撫で方だった。
私は堪らなくなって、彼女の頬に触れてみる。この柔らかな皮膚にはもしかしたら私が想像もしないような深いさみしさが染み込んでいるんじゃないか、なんて。そんな勝手な妄想。
「ね、明日未季子に写真撮って送ろう」
「いいけど、なんで? 誕生日だっけ? おめでとーとか言っとく?」
「未季子の誕生日は八月だよ」
「何それ、明日全然関係ないじゃん」
不服そうな葵にいいのと返した。だって、私たちのこと祝福してくれる誰かと、急に繋がっていたくなってしまった。完全なるエゴだと思う。しかしよく出来た友人はきっと嫌味の一つでも言って笑い飛ばしてくれるのだ。
今はそれしか狭くて優しくない世界と繋がってる方法が見つからなかった。窮屈で厄介なこの世界とそれでも繋がっていたかった。
「沙夜ちゃん、シチュー冷めちゃったよ」
甘ったれた声を出して、葵は冷たいシチューをしぶしぶ口に運ぶ。私もひと掬い同じものを咀嚼する。
すっかり冷たくなったシチューは優しい味がした。きっと温かい時の味とは少し違うけれど。決して不味いわけではなくて、これはこれで美味しい。
「そうかな、私は美味しいと思うよ」
文句を言いながらも葵は皿の中身を温め直そうとはしなかった。
「ま、味は美味しいからいっか」
葵は複雑そうな顔をして、それ以上何も言わない。またもぐもぐとじゃがいもや鶏肉を胃に収めていく。
そう、なにも温かいクリームシチューだけが、シチューじゃない。私はこれを、私たちは冷めたシチューも、シチューと呼ぶ。多分それだけの話なのだから。
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