第6話 バリケードは、甘く融解
街中が甘い匂いに満たされてる気がした。
多分気のせい、いやかなり気のせいだったけど。商店街は甘ったるいラブソングが流れている。コロッケ屋の前ですれ違った女子高生は、カカオの香りを纏っていた。
「おかえり!」
狭い玄関に踏み込むと、甘ったるい香りが肺に流れ込んでくる。舌先まで焦がれるような、独特の甘さ。今日一日、そこら中を満たしていた香りと同じだ。どうやらうちも世間に乗っかっているらしい。
「うわー、相変わらずいっぱい貰ったね」
「義理だけどね」
葵の白い頬が心持ち膨らんで、ちょっと眉が釣り上がる。葵は言葉に、表情に、毒を混ぜるのが上手い。
「義理だから、断りにくくて」
居た堪れない空気は、私をリビングに突き進ませないためのバリケードだ。
「ごめんね」
だめ押しでくしゃりと頭を撫でると、揺れた髪からふわっとシャンプーの香りがした。
「毎年この流れだよ、もう!」
本気で怒ってないのを私に伝えるために、大袈裟なジェスチャーで葵は怒るポーズをする。そういう所が好きだな、なんて思う。葵は感情の機微を嫌味なく伝えるのも上手くて、私はいつもそういう所に助けられている。
「葵も食べるの協力してくれる?」
手提げサイズの紙袋に詰まったそれを手渡すと、飛びつく彼女を知っていた。お客さんに貰う高級チョコレートが大好物らしい。高いからもったいなくて買えない。そう言いつつ頬を緩めるのが、毎年の恒例行事。
「沙夜ちゃんってば、本当モテモテだなあ!」
貰ったチョコは、全て中身を確認してある。明日きちんとお礼を言って回るためだ。そして、ホワイトデーのお返しを品定めするため。こういう小さな積み重ねで信頼は変わる。新人の時に痛い目を見たことを思い出して、私は少しだけ苦い気持ちになった。あの時は冷や汗が出たものだ。
「ん?」
懐かしい記憶に思いを馳せていると、葵の唸る声が耳に届く。
「どうしたの?毎年気に入ってるの、今年も入ってると思うけど」
視線を戻すと、目の前にはぺたりと座り込む彼女がいた。葵の目は紙袋に釘付けだ。うっかりするとこのまま頭を突っ込んでしまうんじゃないかというぐらい。ルームウェアの胸元のくまと目が合う。葵曰くちょっと気持ち悪くて可愛くない所が絶妙に可愛い、くまの刺繍。私が目を合わせたいのはそっちじゃないんだけど、なんて感想が頭の隅を流れていく。
「沙夜ちゃん?どうしたの、これ」
ぽかんと口を開けた彼女は、どっしりとした二段構えの箱に入ったそれを両手で掲げながら尋ねる。ラッピング用紙は割とぐしゃぐしゃに破られていた。淡い水色のリボン、結構悩んで決めたんだけどな。
「葵宛、だよ」
毎年嬉しそうに緩める頬を可愛いと思っていた。でも同時に込み上げてくるなんとも言えない奇妙な気持ちを、舌の上で転がしていたのも本当で。今年はいいかなって思ったのだ。義理チョコの甘さで、その気持ちを溶かさなくとも。言ってしまえば、ちょっとだけの下心。
私のチョコレートで喜んで欲しい、なんて。
「たまたま、売ってたから」
素っ気ない私の言葉に、葵が勢いよく顔を上げる。
「……嘘つき」
一言だけ発した唇は少しだけ震えていた。私を見つめる瞳が蛍光灯の下で飴玉のようにきらきらと輝く。徐々に染まっていく、頬。
「沙夜ちゃんの嘘つき」
チョコレートがことりと床に置かれる。差し出された両腕の中に身を滑らせると、葵の体温が肩口から侵食してきた。暖房で温められた身体を抱きしめ返す。私の鞄が視界の隅で倒れた。そんなことはどうでもいいので彼女の髪に顔を埋める。私と同じ香りなのにこうもいい香りがするのは何故だろう、なんて私はまた余計なことを考える。
「……あれ、予約しないと買えないって雑誌で見たよ」
耳元で柔い音がした。困ったような、咎めるようなそんな音。
「そこは偶然ってことにしててよ」
情けない私の声が口元から溢れた。わかってる、流行に敏感な彼女を欺けないだろうってことぐらい。
「可愛く騙されてあげられなくてごめんね」
飄々と言った彼女は少し得意げだった。その証拠にくすくすとくすぐったい笑い声が漏れている。
「本当だよ、もう」
私はそう返した声が少しも残念そうに聞こえないことが可笑しくなる。多分予想してた反応より、ずっとずっと嬉しくて。それで上機嫌になってしまっている。自分が想像してたよりも、うんと。
「ありがとう、沙夜ちゃん」
静かに落ちた声はとんでもなく甘い。
「どういたしまして」
落ち着きのない心臓に焚き付けられたみたいに、小さな唇を塞ぐ。私がそうするのを知ってたみたいに、彼女の瞳がとろりと溶ける。
「目、閉じてくれないの」
「うん、今日はね」
葵のチョコレートより甘くて美しい瞳を、いつまでも見ていたかった。もちろんそんな恥ずかしい台詞は口に出来るはずもないけれど。
呼吸の合間に短い会話をして、それからまたゆっくり唇を食む。私が焦がれる瞳はあっという間に閉じられてしまったが、それはそれで構わなかった。
「ねえ、私のはいつくれるの?」
口の中に広がったカカオの香りを確かめる。高級チョコレートよりも平坦な味。でも私はこの味が一番好きだ。
「ごはんのあと!」
葵は隠しもせずに、眩しい声でけらけらと笑った。私はやっとパンプスに手をかける。床に転がったままの鞄を拾い上げると、丁度スマートフォンが二度短く震えているところだった。表示を覗いて数秒。すっと冷えていく頭を軽く振る。ファスナーの間から溢れる光は押し込めて蓋をした。
ラブソングを歌いながら、リビングに戻っていく葵の背中を眺める。リビングから僅かに漂ってくる夕飯の匂い。また、少しずつ温められていく心にほっとする。どうやら、玄関を上がる権利はようやく得られたようだった。
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