心中記念日

ミッキー立川♣

最終日<プロローグ>

 いつもと同じ金曜日だった。

 大学の講義が終わった午後四時ごろ。校舎を出ると、初春の暖かくて乾いた風が吹き、前髪を乱す。高校生の頃からずっと着続けているコートのポケットに手を突っ込むと、いつの日かファミレスでもらった飴玉が指先に当たった。飴玉の入った小袋を弄びながら駅に向かう。大学に入学した年の春は本当に暖かかったが、年を経るごとに桜の季節は冷え込んでいくような気がした。

 人生の夏休み、大学生は確かに長いようで短かった。来年からは、社会人生活という終わりなき日常がやってくる。卒業、それは夢から覚めるための儀式であり、緩やかな死の始まりなのだ。僕らはいつも、なんだってできると思って生きてきた。だが、小学生のときに作った不格好な秘密基地も、中学生のときに書いた研究ノートも、今となっては脳みその片隅でただ輪郭だけを残す、高度経済成長期に建てられた西洋かぶれの廃屋に過ぎない。

 彼女の下宿先は、僕の大学から電車で40分くらいの距離にある。金曜の講義が終わると、そこに通うのが日課になっていた。

 彼女とはもう長い付き合いになる。小学校六年生のときからなので、知り合ってからもう十年も経つが、僕は驚くほど彼女のことを知らなかった。実家がどこにあるのか、何人家族なのか、クリスマスプレゼントにはどんなものをお願いしていたのか、会話の節々から読み取れる情報から推測することはできたが、それは所詮、僕の虚構に過ぎない。だが、僕たちには様々な思い出がある。学校で先生にイタズラをして、僕だけが怒られたこと、電車を乗り継いで遠くの水族館まで二人で出かけたこと、自転車で富士山まで行こうとしたけど、他県のショッピングセンターまででギブアップしたこと……。そして今も、毎週の国民的アニメのように当たり障りのない、僕らの日常が生産されている。

 彼女の部屋のドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。すぐに出てこないのは分かっていた。三分、待つ。もう一度インターホンを鳴らす。まだ、出てこない。だがそれも予想通りだった。僕はドアに向かって両手でメガホンをつくり、こう呼びかけた。

 「お願いです。開けてください」

 すると鍵が開く音が響き、中から彼女が、よろしい、と言って、にやけた顔をだした。

 こいつはどうも僕を尻に敷いていたいらしい。思いやりも友情もあったものではない。この自己中心的な性格には随分と手を焼いたものだ。相性はそんなに良くはなかった。だが不思議と、腐れ縁とも呼ぶべきか、僕は彼女に愛想をつかすこともなかったし、彼女は事あるごとに僕に連絡をよこした。

 「今日は僕が夜ご飯つくるよ」

 やったー、とたいして嬉しくもなさそうな返事をして、彼女は胡坐をかきパソコンに向かっている。冷蔵庫を開け、半分になったニンジンと玉ねぎ、魚肉ソーセージを取り出す。僕が作る料理はいつも決まっていた。チャーハンだ。チャーハンはいい。ご飯と油と醤油、そしてとりあえず食べられる具材を適当に炒めていればそれなりのものができる。

 部屋に戻ると、彼女はまだパソコンに何かを打ち込んでいた。僕は中皿にチャーハンをとりわけ、食べ始める。しばらくすると、彼女もノートパソコンを閉じ、冷たくなったチャーハンをちびちびと食べ始めた。

 「楽な格好になれば?」

 彼女は、ベッドの下から平べったい衣装ケースを引き出し、その中の一番上にあった一枚のステテコを僕に渡した。これもいつものやり取りだった。僕が着替え持ってくることはほとんどない。夏場でもない限り上はそのままでいいし、下は今みたいに彼女のものを借りればよかった。体があまり大きくない僕も、この時だけは数少ない恩恵を受けることができるのだ。

 見ているわけでもないテレビがついている。番組ではアイドルとかタレントとか様々な肩書を持った人々が、楽しそうにしゃべっている。僕はテレビはあまり好んで見ることはない。彼らのショーは僕にとってはただただ遠い存在でしかない。例えば、そう、教室の中で他のグループが自分たちの内輪ネタで盛り上がっているのを後ろから眺めているような気分だ。前に、あるお笑いコンビの番組が内輪ネタだらけだ、と批判されていたが、僕にとっては、この世界のありとあらゆるものが誰かの内輪ネタに他ならない。

 一方彼女は、僕の腕に噛みついていた。彼女は噛んだりつねったりする癖がある。だが、噛まれることは好きではないらしい。前に彼女の腕を甘噛みしてみたら、かなり嫌がられた。彼女は何を思って僕に噛みついているのだろうか。いや、何も思ってないのか。僕は、噛まれたりつねられたりすることは嫌いじゃないから、その行動に対する彼女の感情もそこまで気にすることではなかった。

 何も起こらない。何もかもがいつも通り。だが、なぜか全てが新鮮だった。彼女に会うたびに、心拍数が上がり、それがバレないようにすることに最新の注意を払っているのだ。

 でも、こんな日々もいつか終わりが来る。その終わりはどのような形をとるのだろうか。僕が働き始めて、彼女も自分の生きる道を見つけて、自然と合わなくなってしまうのだろうか。あるいは、どちらかが病気とか怪我でいきなりいなくなってしまうかもしれない。そんなことは考えたくもない。だが、現実はいつも唐突に僕らの前に現れる。それも僕らの予期しなかった形で。

 彼女は僕に「好き」好きとか「愛してる」とか言ったことはない。でも、僕にとっては、自分の腕の彼女がつけた傷跡だけがあれば、それで十分なのだ。

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心中記念日 ミッキー立川♣ @tetsuno-suke

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