第4話
心にぽっかりと穴が開き、そこに冷たい風が流れ込んだ冬。いや、開いたのではない。ただ元に戻っただけだ。だからおれに、悲しみに暮れる資格なんてない。
例の桜の木の下にいるのはおれだけだった。あの秋の日を最後に、春川は一度としてここに姿を現していない。
一人で撮影する冬の風景は、酷く冷たく味気のないものだった。春に隆盛を誇った桜の木は、今や葉を全て落として雪を積もらせている。
まさにモノクロの世界。でも、春川のスケッチブックの世界とは違う。春川の絵には、確かに色があった。鉛筆だけで表現したあの世界には、鮮やかな色を感じたのだ。
あれから春川はどう過ごしているのだろう。絵は描いているのだろうか。訊こうと思えば、それはいつでもできる。春川は毎日、一日も欠かさず学校に来ている。相変わらず誰とも関わろうとせず、窓の外をぼんやりと眺めるだけなのだが。
声をかければ届く距離。近づけば、その手に触れられそうな距離。それだけ近くにいるのに、果てしなく遠い距離に感じるのは何故なのか。
何度か学校で春川と会話することはあった。でも、そのやり取りはどこまでも業務的で。桜の木の下にいた春川とは、まるで別人なんじゃないかと思えるくらいだった。
おれはもう一度、葉を落とした桜を見上げた。ひっそりと孤独に、でも確かにそこに在る桜の木。来年ここに来る数少ない人のために、美しい花を咲かせる準備をしているのだろうか。
その季節には、春川は学校を卒業する。その先、春川がどう生きていくのか。おれは知らない。
ぽつりと鼻先に、何かが当たった。視線をさらに上へと向けると、雪が降っていた。それはいつか見た桜吹雪を思い起こさせるような光景。違うのは、そこに色がないだけ。
「……先生? どうして、先生がここに?」
幻聴かと思った。夕刻の静寂を破ったのは、ずっと聞きたかったあの声。特徴的でよく通る、春川の声だった。
振り返ると、果たしてそこに春川はいた。その台詞は、あの春の日の邂逅を彷彿させるもの。おれはその時のように言葉を返す。
「おれがここにいちゃマズいか」
春川もあの日を思い出したのだろうか。クスリと笑って、言葉を続けた。
「いえ、そんなことないですけど。でも不思議だなって……でしたっけ。あの日のことは、私もよく憶えていますよ」
「おれもだよ。あの日から始まったんだからな。おれとお前の、この秘密の関係は」
「そうですね。恋をしたり、失恋したりしたけれど、終わってみれば私も楽しかったです。とても大切な日々でした」
「春川、勝手に終わらせるな。お前があの秋の日からここに来なくなって、きちんと終わっていないんだ。だから、今日でそれを終わらせる。そのためにお前を待っていた。言わなければならないことがあるからな」
「私に会えると思って、ここにずっと?」
「学校でのおれたちは、ここでのおれたちとは違うだろ。だからここで待っていたんだ。ここで言わないと意味がない。随分と時間がかかったけどな」
仕方ないですよ。そう、春川は少し寂しそうに笑った。おれは黙って、春川の言葉の続きを促す。
「私も忙しかったんです、いろいろと。今日ね、私、内定を貰いました。小さい会社ですけどね。ここから遠く離れた土地で、私は春から社会人になります。だから、今日ここに来たんです。どうしても、この桜が見たかったから」
「……そうか。やっぱり、お前に会えたのは桜の木のお陰だな。その新生活は、ちゃんとやっていけそうなのか」
「もちろんです。今から弱気になってちゃ、ダメでしょ?」
笑いながら、ゆっくりと雪を踏み締めて。春川はおれの隣に並んだ。そして、雪が積もる桜の木を二人で眺める。
吐く息は白く、凍てつくような気温。でも不思議なことに、二人でいるとあの春の日が蘇ってくるようで。目を閉じれば桜の香りを感じそうなくらいに、そこには確かに春がいた。
「ここは冬でも、やっぱり綺麗ですね。先生と桜の木を見るのは、きっとこれで見納め。でも欲を言うなら最後は、やっぱり咲いているところが見たかったな」
「見られそうにないのか」
「はい。卒業したら、すぐにこの街を発ちます。桜の開花よりも、多分早くに。新しい街にも早く慣れないといけないし。いつまでもここには居られないから」
「そうか。なら、これが本当に最後なんだな」
「はい、最後です」
「……春川。最後にお前の問いに、答えさせてくれ」
「無理しなくていいですよ。私はもう、いろいろ自分で納得してるんですから。色覚異常は、私が持って生まれたもの。どうにもならないことです」
おれはその言葉を無視するように、勝手に語り始めた。そうだ、これはおれの勝手。春川にどう取ってもらっても、たとえ届かなくてもいい。ただ、自分がしたいだけ。そんな自分勝手な言葉を、春川に告げた。
「……ここで真面目な教師だったら、あの時は配慮が足らなかった、って謝るんだろうな。でもおれは不良教師だから。だからおれはお前に、『それでも絵を続けろ』って言うよ。色覚異常は珍しいことじゃないとか、補正メガネを掛ければ大丈夫だとか、偉大な画家にも色覚異常の者はいたとか──、そんなことを言うつもりもない。春川、絵を続けてくれ。お前だけの色を見せてくれ。おれは、お前の絵をこれからも見たい。お前の目を通して見る世界が見たいんだ」
「……先生って、本当に自分勝手だったんですね。振った女に、これをやれあれをやれとか、ちょっと信じられないなぁ」
「さっきも言ったろ。おれは不良教師なんだ」
クスクスと春川は笑った。短い髪にうっすらと雪を積もらせて。それでも楽しそうに、嬉しそうに。あの春の日のように、春川は笑ってくれたのだ。
「……いつか、また絵を描きます。私だけの色をつけた絵を。いつか先生に、見てもらえたらいいな」
「あぁ、楽しみにしてる。だから頑張れ。そしていつかお前の絵が世に出ることになったら。必ずそれを見つけるよ。どこに飾ってあったって、必ずな」
「いつになるか、わからないですよ?」
「きっとそう遠くない未来だ。おれは待ってるからな、春川」
「先生、待ってるだけじゃダメです。私も頑張るんだから、先生も頑張ってください。先生の写真、私は好きだから。私が凄いと思う写真なんだから、先生もどこまでできるか挑戦して下さい。どっちの作品が先に世に出るか、勝負ですね」
不敵に笑う春川を見て、おれは同じような顔で返した。勝負の旗色は始めから悪い。それでも不思議と、負けられない気持ちが先に立った。
「わかった、受けて立ってやる。実は、初めてコンクールに出そうと思ってた写真があるんだ。さっきは言いそびれたけど、就職祝いにこれを受け取ってくれ」
いつか春川に渡そうと、現像していたあの写真を手渡した。六切サイズの額縁に入れたその写真。
桜の花びらを、手を伸ばして取ろうとする春川の横顔。それは、あの春の日を閉じ込めた写真だ。
「……これ、あの時の写真ですか。先生って本当に好きなんですね、葉桜が」
「あぁ、好きだ。いろんな桜があると思うけど、おれはやっぱり、満開の桜より葉桜が好きなんだ。だから、これで初めてコンクールに挑戦しようと思う。まぁ、お前が許可してくれたらだけどな」
雪が舞い、その額のガラスに当たる。放っておけば全てを覆い尽くしてしまいそうだったけど、それは違った。
一滴、また一滴と。薄く積もる雪を融かしたのは、春川のあたたかい涙。
「いいか、春川。その写真をコンクールに出しても」
「いいですよ。被写体がちょっとイマイチですけど、素敵な写真です。私が審査員だったら、九十点くらいかな。ねぇ先生、この作品のタイトルは?」
「……葉桜の君に、にしようと思ってる」
「そのタイトルと合わせたら、百点満点ですね。ありがとう、先生。ずっと大切にします、この写真を」
雪が強くなる。最後の時間が、終わる。
「それじゃ先生、またいつか」
「あぁ、またいつか」
また学校で会えるけど。二人での時間は、これが最後。お互いそれはわかっていた。言わなくてもわかっていた。だからおれは、振り返って去っていく春川に、小さな声で告げた。
「……さよなら、桜子」
ぴたりと一瞬、足を止めて。
でも春川は、振り返らずにまた歩き出した。
そうして二人の時間は、終わった。
──────────────
忙しなく人の波が流れる、駅の改札出口。
おれは新しい職場に向かうため、慣れない通勤路を歩いていた。この度の異動で転勤となり、今日から新しい学校で教鞭をとる。と言っても、おれは真面目な教師ではない。その証拠に、出勤初日なら割と早めに行くものだろうが、スマホのナビが示す到着時刻は指定時間ギリギリだった。
とりあえず、遅刻さえしなければいいか。そう思いながら真っ直ぐに、歩を進めたその瞬間。
鼻先を何かが、優しく掠めていった。
思わず足を止める。それは薄いピンクの桜の花びら。視線を上に向けると、そこには果たして桜の木があった。駅の改札出口に咲く桜。朝から足を止めて見上げているのは、おれだけだ。
それは七分咲きの桜。もちろん悪くはないが、おれは葉桜の方が好きだった。
昔から、葉桜の配色が気に入っていた。桜色と新緑色。その二つの色は、春を表す色。たった二色だけで春を表現できる、完璧な配色。
今日の七分咲きから鑑みれば、葉桜を見られるのは来週以降になるだろう。というか、今は通勤の途中。初日から遅刻するのはいくらなんでもまずい。切り替えなければ。
再び、足を進めようとした時だった。
視界の端に、ちらりと捉えた駅前の看板。何の気なしに見てみると、そこには大きく描かれた葉桜があった。
何かの広告には違いない。だが、この広告は意味を成していなかった。背景として使われているこの葉桜にしか、目が行かないくらいのインパクトがあるのだ。
それは葉桜には違いなかった。桜の花、そして桜の葉。それが緻密なまでに美しく描かれている。
しかしその配色は、おれの知っている葉桜のものではない。
限りなく白に近い、うっすらと青い桜の花と。
そして、鮮やかに彩られた薄黄色の葉。
いつもとは違う葉桜。
それでも春を感じる、それは不思議な絵。
近づいて、看板の端を見てみると。
そこには作品のタイトルと作者の名が、控えめに記されてあった。
『葉桜の君に』
春川 桜子
【完】
葉桜の君に 薮坂 @yabusaka
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