第3話
「ねぇ、先生。今日もあのバイクで来てるんですか? あのレトロな形の可愛いバイク。そろそろ私、後ろに乗せて欲しいな」
桜の花は全て散り、青々と葉を茂らせる夏を経て。季節は、木々が紅く色を染め始めた初秋。
いつもの桜の木も例外ではない。いつの間にかうっすらと、その葉を朱に変えている。桜の木の下、スケッチブックを開いた春川は再び、上目遣いでおれに問うた。
「ねぇ、聞いてます? 先生」
「聞いてるよ。でもダメだ。あれは原付だからな、二人乗りは道交法で禁止されている」
「じゃ、乗せてくれないってこと?」
「当たり前だろ。どこの世界に、教え子を後ろに乗せて原付を走らせる教師がいるんだよ。どう考えても教師は注意する側だろう」
「なぁんだ、ケチ」
「ケチで結構。おれは腐っても教師なんだ。まぁ、今更だけどな」
「ほんと今更ですよね。自分で不良教師って言ってたのに、なんか幻滅です。私は先生のアウトローなところが好きなのに。口うるさい正論を使う先生は、好きじゃないな」
口を尖らせて不満を言う。この半年間で春川は随分と変わった。もっと感情を表に出すようになった。こうしておれに、軽口を叩くまでに。
でも変わったのは、二人で桜の木の下にいる時だけだ。クラスでの立ち位置は変わらない。教室での春川は今も葉桜のまま。教室の隅で誰ともつるまず、頬杖をついて窓の外を眺めるだけ。
季節が二度変わった。それは何かを変えることもできるし、逆に何かが変わらなくても不思議じゃない期間。短くも長くも感じる時間を、おれと春川はここで過ごした。
春川と二人で会うのは週末だけ。学校ではお互い、示し合わせたように事務的に過ごす。そして週末にここで落ち合い、同じ時間を共有する。
春川は絵を描き、おれは写真を撮る。それだけ。ただ、それだけ。
それは説明しようのない、微妙で奇妙な関係。ただ同じ時を過ごし、ただ同じものを見る。
それがおれたちの、秘密の関係だった。
「先生? 何考えてるんです?」
「いや、別に何も」
「嘘だ、絶対なにか考えてたでしょ。私にはわかるんですよ」
「へぇ、それならおれが何を考えてるのか、当てて見せてくれ。当てられたら褒めてやる」
「言ったな、先生」
にやりと笑って、春川は考え込む仕草をする。下唇を指で撫でる、それは春川のクセだった。
「……わかった。私のこと、好きだと思っているでしょう。違いますか?」
「違う」
「即答? それ酷くないですか。驚かせようと、ちょっとは頑張ってみたのにな」
「頑張るベクトルが違うだろ。お前はな、もっと学校で頑張れ。もう秋だぞ。お前、この先どうするつもりだ」
「なんですか、その教師っぽい発言。口うるさいのは嫌って言ったのに」
またも唇を尖らせる春川。まるで子供だ。いや、春川は歴とした子供だ。まだ十八歳になったばかり。ここにいると忘れてしまいがちだが、それは当たり前の前提だった。
「なぁ、春川。口うるさい教師ついでに、ひとつ訊いていいか」
「口うるさくないことなら、答えてあげてもいいですよ」
「じゃあ訊くぞ。このまえ出した進路希望調査表のことだ。あれ本気なのか」
「あぁ、『先生のお嫁さん』ってヤツですか?」
「……冗談はよせ。おれは真面目に聞いてるんだ」
春川から笑みが消えた。視線を落とし、止めていた手を再び動かし始める。紙の上を鉛筆が滑る音がする。スケッチブックに桜の葉が踊った。
「聞いてるのか、春川」
「聞こえないです、先生」
「聞こえてるだろ、真面目に答えてくれ。就職希望って、本気なのか」
調査表に書かれた、春川の「就職」という文字。進学校と呼ばれる我が校で、その回答をした者は数えるほどしかいない。春川は、その数少ないひとりだ。
「……先生こそ、本気ですか」
「どういう意味だ」
「私は、この場所に特別なものを感じていました。ここは学校じゃない。先生はここで、一切学校の話をしなかった。だから私はこの場所が好きだった。嫌いな学校のことを、考えずに済む場所だから」
「いつまでも考えずにはいられないだろ。将来から逃げ続けることは、できないんだぞ」
「聞きたくないです、そんなこと。この場所を壊したくない。私と先生は、確かに生徒と教師って関係かも知れないけど、この場所だけは違ってたでしょう?」
「違わない。おれとお前は、どの場所でも教師と生徒だ」
「嘘。今までここでは、そんな話をしなかったのに。どうして。どうして急にそんな話をするの。まさか誰かにバレたんですか? 私たちの関係が」
「そうじゃない」
「ならどうして」
「お前の『就職』って回答を見て思ったんだ。おれはお前の、絵の才能を知っている。それは、おれ一人が知ってるだけでいいものじゃない」
「私に才能なんて、ないですよ。それはきっと先生が勘違いしているだけ」
「違う。お前には才能がある。ずっとお前の隣で絵を見てきた、おれにはわかるんだ。だから、」
「美大を目指せ、とでも言うんですか? 先生は、私の家庭環境を知っているのに?」
いつの間にか鉛筆を止めていた春川は、おれを真っ直ぐに見据えた。それは強い意志を感じる眼差しで。返す言葉が、すぐには見つからない。
「両親を亡くして。親戚に引き取られて。私は高校を卒業したら、家を出るよう言われています。だから、私の自由な時間はあと半年だけ。私に残された時間は少ないんです。その大事な時間は、好きな場所で好きなことをしながら好きな人と一緒に過ごしたい。それじゃ、ダメですか?」
「春川、それは……」
「私に対して特別な感情があったから、先生は私と一緒に過ごしてくれたんじゃないんですか? 何も言わずに、傍に居てくれたんじゃないんですか? 全部、私の勘違いですか? この関係を大切に思っていたのは、私だけですか……?」
今までずっと、隠してきた秘密の関係。だが、その関係は決してやましいものではない。もちろん誤解を生むこともあるだろうが、それでも恥ずかしくない関係だった。
でも隠していた。周りの人間にバレたらいけないと、そう自分に言い聞かせていた。
いや違う。本当に隠したかったのは自分の気持ち。春川の傍に居たいという、この想いだ。
「正直に答えて、先生。私は先生が好き。特別な感情という意味の『好き』です。先生は? 私に特別な感情は、ありませんか? 先生がいう私の『才能』じゃなくて、私自身をどう思っているか聞きたいんです」
……好きだというのは簡単だ。一緒に居たい気持ちも本物だ。もちろんそれは、春川の才能に関してではない。好きなのも一緒に居たいのも、春川桜子自身だ。
でも。春川が持つ才能は、おれみたいな人間が独り占めしていいものではない。本物の才能は、世の中のために使うもの。決して一人の人間に対して使うべきものではない。
だからおれは決意する。この判断が、間違っていないことを信じて。
「わかった。正直に言おう。お前に対して特別な感情は、ある。でもそれは、お前がおれに抱いている気持ちとは別物だ」
「別って、どういうことですか」
「似てるんだよ。何かを諦めたようなお前の笑顔が。おれが昔好きだった人と、そっくりなんだ。だから見ていられなかった。おれはその人を救えなかったから、今度こそ、その人に似ているお前を救いたいと思ったんだ」
「私が、似てたから? 先生が昔好きだった人に?」
「今もおれの心は、その人にある。それはこの先もずっと変わらない。だからお前の気持ちには応えられない」
春川は、ゆっくりと視線をおれから外す。俯いて、スケッチブックに顔を埋める。ぱたぱたと落ちる涙が、白い紙を濡らした。
「……その人と似ていたから。諦めた笑い方が似ていたから。だから先生は、この桜の木の下で、私と一緒に居てくれたんですか。そして先生は、今もその人を想い続けている」
……いいな。その人、羨ましいな。
ぽつりと漏らすように、春川は言った。上擦っていて鼻声で、時折混じる切ない吐息。
泣かないで欲しいと思う。抱きしめてやりたいとも思う。でも、これを選んだのは他でもないおれ自身。
だからおれは、泣く春川を黙って見ることしかできない。それが誠意だと、そう思ったから。
春川の気持ちはもちろん嬉しい。しかし、春川はまだ若い。若すぎると言ってもいい。きっと取り巻く環境が辛すぎて、無意識に救いを求めていたのだろう。その対象が、たまたまおれだったけだ。
近くにいる大人で、何も言わずにただ傍に居てくれる人間。春川はおれのことを好きだと言ったが、それこそ勘違いだ。本人にはきっと、自覚がないだろうが。
だからこれでいい。それは言わなくてもいい。
おれが春川を思う気持ち。それも間違いなく本物だが、それには永遠に蓋をしよう。そして、誰も見ることのない場所に埋めよう。
その場所は、誰もが見上げるだけで足元を見ることがない、この桜の根本が相応しい。
「春川。お前にはもっと相応しい場所がある。それはおれの隣じゃないんだ。だから、絵を描き続けてくれ。きっとお前の絵は、お前が本当に望む場所に連れて行ってくれるはずだ。お前の才能は本物だと、おれは思うんだ。美術の夏井先生も褒めてた。逸材だってな」
「……無理、ですよ。私に絵の才能はない。好きだけど、好きだからこそ、私は自分の絵に足りないものがよくわかるんです」
「そんなことない。お前の絵は、」
「私が絵に色をつけない理由、知ってますか?」
蹲っていた春川は、ゆっくりと顔だけおれのほうに向けた。何かを問うような視線。涙まじりの視線に釘付けにされて、おれは視線を外すことができない。
「私はね、先生。ずっと絵描きになりたかった。それしかなかったから。紙と鉛筆さえあれば、絵は描けたから。ここまで育ててくれた親戚は、それしか与えてくれなかったけど、私はそれで充分満足だったんです。両親が死んでしまって、親戚の家に連れてこられて。塞ぎ込んでいた私を救ってくれたのは、絵を描くことだけだったんです」
鼻をすすりながら、絞るように言葉を続ける春川。見ていて辛く感じるが、それを聞くのはおれの役割だ。春川が逃げないのなら、おれも真正面から受け止めなければならない。それはきっと、おれにしかできないことだ。
「私は今日まで、ずっと一人で絵を描いてきた。ずっと。長い間ずっと。先生に出会ったあの春の日まで、一人でずっと」
「一人であそこまで描けるのは、やっぱり才能だ。誇っていいことだ。それにそこまで絵が好きなら、きっと美大や専門学校に行ってもやっていけるだろう。活かしてほしいんだ。好きなことを、自分の人生に。それは一握りの人間にしか出来ないことだし、難しいとは思うが、挑戦する価値があるものだ」
「……私にはね、先生。絵描きに絶対に必要なものが、ないんです。それ、なんだかわかります?」
あの笑顔。何かを諦めたような、その表情。やっぱりあの人によく似ている。儚さを感じるその顔は、見ているだけで胸を締め付けられる。
「わからない。おれにはお前の絵に足りないものなんて、ないと思う。あるなら教えてくれ」
「……それじゃあ先生。バイクの後ろに乗せてくれたら、教えてあげますよ。あのレトロで可愛い茶色いバイク。やっぱり私は、後ろに乗ってみたいから」
「だからあのバイクは原付だって、」
──そこまで言って、気がついた。
春川が鉛筆でスケッチしていたのも。頑なにそれに色を付けなかったのも。おれの写真の構図だけを褒めたのも。いつも休みの日は、モノトーンの服に身を包んでいたのも。
そして、おれの赤色のバイクを、今、茶色だと言ったのも。
「お前、まさか色が──」
「色覚異常なんです。私の見ている世界は、先生が見ている世界とは違う。そんな私に、人を感動させる絵が描けると思いますか?」
なんて言えばいいのか。どう言葉を掛ければいいのか。結局黙ることしかできなかったおれに、春川は儚い笑顔で言葉を継ぐ。
「先生、今までありがとう。できることなら、来年の桜も一緒に見たかったな。先生が好きだって言ってた葉桜の色。春の色っていうものを、私も感じてみたかったです」
ゆっくりと立ち上がり、葉だけの桜を見上げて。春川はその場所を去ろうとする。
おれは春川に掛ける言葉を探した。でも何を言えばいいというのか。
見えている世界が違うのに、人を感動させる絵が描けるのか。
その問いの答えを、おれは持ち合わせていない。引き止めることは叶わず、去ろうとする春川をただ見送ることしかできない。
そして春川は一度も振り返ることなく。
桜の木の下から、姿を消した。
(続く)
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