第2話
慌ただしく一週間が過ぎ、気づけばカレンダーの曜日は一廻りをしていた。日曜日。今日は約束の日。
例の桜の木の下に着くと、そこには既に春川が居た。広げたレジャーシートの上にちょこんと座って、また孤独な桜をスケッチしている。
今日も春川は、モノトーンを基調とした出で立ちだ。薄手の黒いマウンテンパーカに、白のチノパン。そのモノクロは、春の世界に溢れるパステルカラーを強調しているようだ。根っからの芸術肌なのだろうな、きっと春川は。
「よう、春川。捗ってるか」
「先生、こんにちは。今日は満開かなって思ってたんですけど、ちょっと開花の足が早かったみたいです。もう、葉桜ですね」
桜を眺めて春川は答える。つられておれも桜を見上げた。所々、淡い緑の葉が芽吹く葉桜。
桜の満開はもう終わってしまったようだ。きっと、このところの陽気のせいだろう。
「確かに、もう葉桜だな」
「葉桜って、描くの難しいんですよね。鉛筆だけだと単調で、花と葉の描き分けが難しくて」
座る春川に断って、スケッチブックを眺めた。言葉とは裏腹に、紙の上には見事な桜が咲いていた。しかし言われてみれば確かに。色の無い葉桜は、どこか寂しげに映る。
「上手く描けてると思うけどな。綺麗だと思うぞ、その葉桜。おれ、葉桜は結構好きなんだよ」
「葉桜がですか? 珍しいですね、先生。葉桜ってあんまり、いいイメージがないのに。もしかして写真では映えるんですか?」
「映える、と思ってる。おれの腕じゃ、魅力を伝え切れてないかも知れないけどな。去年撮った葉桜の写真があるんだ。約束どおり持ってきたぞ」
リュックからアルバムを取り出し、それを春川に手渡した。才能あるヤツに自分の写真を見せるのは勇気が要ると思ったが、やってみるとそうでもない。
嬉しそうな顔で受け取ってくれた春川は、ゆっくりとページをめくっていく。めくるたびにその表情が変わる。こんなにいろんな顔をする生徒だとは、おれは知らなかった。
「綺麗……」
ぽつりとそう漏らして。春川はおもむろに、再びページをめくる。そしてまた一枚。アルバムの最後のページに辿り着いた時、小さな溜息が聞こえた。
「……素敵じゃないですか、先生の写真。私、好きですよ。とても春を感じる構図ですね」
「お前に褒められると、悪い気はしないな」
「写真と絵って、似ているようで全く違うんですね。私、初めて知りました」
「そうか? どっちも対象物を写すって意味なら、似てるんじゃないのか?」
「いいえ、やっぱり違いますよ。この葉桜の写真、本当に綺麗ですもん。特に光の使い方が素敵です。透明感っていうのかな。桜の葉を透かす光が、本当に綺麗。私の絵では、これは表現できないだろうから」
また何かを諦めたように、春川は悲しそうに笑った。できることなら、その笑顔はやめて欲しい。これに似た笑い方の人を、おれは知っていた。
その人を否応なく思い出してしまうのだ。思い出したところで、最早意味なんてないのだが。
「……先生? どうかしました?」
「いや、何でもない。それよりあれだ。葉桜を描くなら、やっぱり色を付けた方がいいと思うぞ。その写真を綺麗だと言ってくれたのは、色が付いているからだろう」
「色、ですか……」
「葉桜って、桜色と新緑色のコントラストが美しいんだ。この二色だけで、完璧に『春』を表現できていると思わないか?」
「なるほど。確かにそうかも知れませんね」
「お前なら色をつけても上手く描けると思う。何なら、おれが美術部の先生に掛け合ってもいいぞ。誰も使ってない道具があるかも知れないだろ。まぁ、もしかしたら美術部に、強制的に入れられるかも知れないけどな」
「高校三年の新入部員なんて、前代未聞ですよね」
可笑しそうに笑った春川の方が、やっぱり見ていて気持ちがいい。おれも春川に笑顔を返す。そうやって笑いあうのは心地がいい気がした。それは溶けるように暖かな、春風のせいかも知れないが。
「さてと。先生、今日も写真を撮るつもりなんですよね? そのカメラを持って来てるってことは」
「まぁな。ちょうどおれの好きな葉桜もあることだし、今日は久しぶりにフィルムがなくなるまで撮影しようと思ってる」
「先生って本当に、葉桜が好きなんですね」
「春川は嫌いなのか」
顎に指を当て、少し首を傾げる仕草。芝居がかったように見えるが、不思議と春川に似合っているように見える。
「嫌いと言うよりは……、なんて言うんでしょう。好きは好きなんですけど、でも大っぴらに好きとは言えないというか」
「なんだそれ?」
「……ねぇ先生、私が陰でなんて呼ばれてるか知ってます?」
「いきなり何の話だ?」
「私のクラスでの
「どういう意味か、わからないぞ」
先生、鈍いなぁ。そう笑って、春川は続ける。おれは黙って耳を傾ける。
「葉桜って、一般的には満開の桜より下に見られるじゃないですか。盛りを過ぎたというか、何というか。要は、満開の桜には勝てっこないってことです」
「一般的には、だろ。おれみたいに葉桜が好きなヤツだって、世の中にはいるぞ」
「だから珍しいな、って思ってるんです。普通の人はやっぱり満開の桜が好きなんですよ。人だって同じ。そんな人が、ウチのクラスにいるでしょう?」
「満開の桜? 誰のことだ、それ」
「……城井さくらちゃんですよ。クラスのアイドル的な。あの人が満開の桜で、私は葉桜。ぴったりだと思いません? このネーミングって」
あぁ、城井か。確かに華やかなヤツで、男子からの人気も高いと聞く。そう言えば城井も「さくら」だったか。こう言ってはアレだが、目の前の春川とは全く違うタイプの生徒だ。二人が仲良くしているところは、ちょっと想像できないくらいに。
「……お前、虐められたりしてないだろうな」
「まさか。みんな私を虐めるほど暇じゃないですよ。そういう意味で言ったんじゃないんです。先生が、葉桜が好きだって言うから。そんな人も居るんだ、って思ったんです。それにね、私はこの葉桜って渾名、別に嫌いじゃないんですよ」
春川はひとつ深呼吸をして。目の前の葉桜を、愛おしそうに眺めていた。
「……葉桜だって、桜には違いないから」
それは何かを決意するようにも見える眼差しで。その凛とした姿に、おれは今度こそ見惚れてしまっていた。
「だからね、先生。葉桜って自分みたいな気がして、好きなんだけど好きって言えないんです。私、自分のことは好きじゃないから」
「……そりゃ、なかなか複雑だな」
「あはは。なに言ってるんでしょうね、私。まぁ、とにかくです。私は葉桜みたいな存在なんですよ。逆立ちしたって、満開の桜には敵いっこない。そういう存在なんです」
「あまり自分を卑下するな、春川。葉桜を好きなおれがいるみたいに、お前のことを気にいるヤツがいるかも知れない。クラスの中にもな」
「そんな人、いないですよ」
春川は頑なに、自分を信じようとしていない。いつものおれなら、こんな生徒は放っておくのだが。どうしてか春川は、無視ができなかった。
「お前がクラスの連中と、どういう関係になりたいか知らないが、もっと自分を出していけ。ちょっと息を潜めすぎじゃないのか。二年から三年になって、クラスのメンバーも変わった。もっと前に出てもいいと、おれは思うけどな」
「無理ですよ。私の性格は、前に出るのには向いてないですし」
「そんなことない。おれと普通以上に話せてるだろ。同じようにすればクラスの連中とも、仲良くやれるんじゃないのか」
春川はおもむろに首を横に振った。目を閉じてゆっくりと。そして付け加える。私はみんなと立場が違うから、と。
「……私ね、先生。性格が最低なんですよ」
「そんなことないだろ」
「いえ、最低です。思っちゃうんです。クラスのみんなといると」
「なにをだよ」
「……どうして私だけ普通に暮らせないのか。どうして両親は死んじゃって、親戚の家に引き取られているのか。みんなは受験して大学に行って、きっとこの先も楽しい人生を送るはず。なのにどうして私はいろいろ諦めないといけないんだろう、って思っちゃうんです。正直、みんなが妬ましい」
「それは……、」
「仕方のないことだ、っていうことはわかってます。わかってるんです。でもだからこそ、私はみんなと仲良く出来そうにない。自分から拒絶してるんです。みんなと近づくと、もっと妬んじゃうだろうから。そんな自分には、絶対になりたくないから」
春川は結局、また諦めたような顔で笑った。その顔はやっぱり似合わない。できることなら見たくない。もっと普通に、笑っていられたらいいのに。
「……ごめんなさい、先生。こんなこと言っても仕方ないのに。どうしてだろ、先生には話せちゃいますね」
「……少し安心したよ、春川」
「安心?」
「誰にも言えなかったんだろ。でも教師のおれには言えた。まずはそれでいいんじゃないのか。もっと教師を使え、春川。悩みをすぐに解決することはできないかも知れんが、愚痴を聞くくらいはできるぞ。おれみたいな不良教師にだってな」
「……不良教師ってなんか、先生のためにあるような言葉ですよね。ちょっと笑っちゃいました」
「いや、そこは『そんなことないですよ先生』って否定するところだろ?」
「否定はできないですよ。だって自分の心に、嘘はつけないから」
春川はクスクスと笑った。それで良かった。それだけで先週の邂逅にも意味があったと、そう思えるから。
「……先生、ありがとう。私、ちょっと元気が出た気がします」
「そりゃ良かったな。おれはまぁ、何もしてないが」
「先生がこんな人だって、もっと早くから知っておけばよかったな」
「別に遅くはないだろ。あと一年弱、おれはお前の担任なんだぞ」
「それなら、」
一旦、言葉を切って。もう一度、大きな深呼吸をして。ゆっくりとおれに向き直った春川は、何かを求めるように言う。
「それなら。また私の話を聞いてもらえますか。この桜の木の下で」
「あぁ、いいよ」
「嬉しいです、先生……あっ」
計ったかのように。また穏やかな春風が、ふわりと吹いた。煽られた花弁が、ひらりひらりと舞い落ちてくる。
きっと無意識なのだろう。落ちてくる花弁を受けようと、目で追う春川は掌を差し伸ばす。
柔らかな日差し。心地よい風の音。その風が運んでくる、ほのかな桜の香り。そして、花弁を掴もうとする少女の横顔。
──シャッターチャンスだと思った。
気がつけば無意識に。おれはシャッターを切っていた。
その小気味の良い機械音は。優しい春の一瞬を、深く鋭く切り取った。
(続く)
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