葉桜の君に
薮坂
第1話
──シャッターチャンスだと思った。
揺れる桜、舞う花弁。包み込まれるような春の空気の中。おれは携えたカメラを、ゆっくりとそれに向ける。
ひっそりと静かに咲く、並木から離れた孤独な桜。満開には届かないが、七分咲きでもそれは充分に美しい。
優しく柔らかで、それでいてどこか儚げ。そんな桜の花が一斉に宙を舞う、桜吹雪の画が撮りたかった。そしてそのチャンスが、ついに来た。
勝負は一瞬だ。手に持つのは、やり直しが許されないフィルムカメラ。瞬間の春を切り取ろうとした、まさにその時だった。
──桜の木の後ろから、彼女が現れたのは。
それは画になる光景だった。美しく咲く桜の下。モノトーンの服に身を包んだ少女が、儚げな横顔で桜を仰いでいる。
音が止む。光も止まる。永遠かと見紛うような、永い永い一瞬。気がつけばおれは、無意識にシャッターを切っていた。
無機質な機械音が、止まっていた時間を破る。それに反応した少女は、こちらを見るなり驚いた表情で言う。
……なぜか思い切り、頭を下げながら。
「ご、ごめんなさい! 写真撮ってる人がいるなんて、思わなくて。本当にごめんなさい、私、写っちゃいましたよね。せっかくのシャッターチャンスを……」
いきなり謝り倒すその声を聞いて、おれはすぐに気がついた。
低めの身長に、特徴的なよく通る声。加えて少しパサついた質感のショートボブの黒髪。それらの持ち主は、おれが受け持つクラスの生徒、春川桜子に違いない。
「春川、どうしてこんなところにいるんだ」
ファインダーから視線を外して、春川に問うた。おれの声を聞いて、顔をゆっくりと上げた春川。その表情は変わらず驚いたままだ。
「秋田先生? どうして、先生がここに?」
「おれがここにいちゃマズいか」
「いえ、そんなことないですけど。でも不思議だなって。ここ、地元の人もあんまり知らないところだから」
春川はそう言うと、表情を変えてさらりと笑う。その笑顔を受けて、おれは参ったなと心の中で呟いた。休日に生徒と会ってしまうのは、気まずい以外のなにものでもない。
まして春川は異性だ。何を話したらいいのか、そもそも話すことが正解なのかすらわからない。
二倍ほども離れた歳の差は、簡単に埋められるものではない。このまま会話を続けるべきか、それとも帰るか。逡巡するおれに、今度は春川が問う。
「先生、訊いてもいいですか?」
「おう、なんだ」
「そのカメラ……」
「あぁ、悪かったな。無断で撮ってしまって。桜を撮ろうとしてたんだ。そしたらお前が木の影から現れた。驚いてシャッターを切ってしまったんだ、すまなかったな」
「あ、いえ。むしろ邪魔してしまったのは私ですし、非難してる訳じゃないんです。それより先生って、写真が好きなんですか?」
「まぁ、下手の横好きってヤツだな。昔から好きなんだ、綺麗な風景を撮るのは」
「それでこの桜を撮りに?」
あぁ、と頷くおれ。そうなんですか、と笑う春川。春川はおれから視線を外し、桜を見上げて言葉を継いだ。
「この桜、とても綺麗ですよね。公園の真ん中にある桜並木から離れていて、孤独にひっそりと咲いている。私は、この桜が一番美しいと思うんです。よくここを知ってましたね、先生」
「昔、この公園の近くにおれの実家があってな。去年この学校に転勤してきて思い出したんだ、この桜のことを。ガキの頃ここでよく遊んでて、その時にこれを見つけたんだ」
「小学生の時くらい?」
「そうだな、低学年の頃だ」
「それじゃ私と同じですね。私も、小学生の頃にこの桜を見つけたんです。それからずっと、春になれば必ずこの桜を見に来てるんですよ。ずっと一人で、ですけどね」
「もう高校三年なのに、お前友達いないのか」
ぐさりと来ること言うなぁ、と春川は困り顔で笑った。
春川の現状は、もちろん少しは知っていた。今年の初め、つまり三学期が始まった時。クラス担当をしていなかったおれは、前任の産休の絡みから、春川が所属する二年二組を受け持つことになった。そのクラスの副担任だったからだ。
その時の引き継ぎで、春川は「微妙な生徒」として前任から説明されていた。虐められている訳ではないが、クラスでは浮いた存在であるとのこと。
しかし昔から一人も友達がいないとは、そこまではさすがに把握していない。傷を抉るような発言をしてしまったが、春川は気にしていない様子で続けた。
「まぁ、私は一人が好きですし。友達がいなくても、別になんの問題もないですよ。私はこの桜に、友達のような親近感を感じていますし」
「名前が『桜子』だからか?」
「……私の下の名前、憶えてるんですか?」
少し驚いたような表情で、おれを見る春川。ころころと顔がよく変わるヤツだ。おれは目を丸くしている春川に言う。
「当たり前だろ。おれは今年度も、お前のクラス担任なんだぞ。担任が生徒のフルネームを知らないでどうする。そこまではまだ、腐ってないつもりだ」
「なんかちょっと嬉しいです。私の名前、そう呼んでくれる人っていないから」
「それなら、高校三年の目標にするんだな。誰かに下の名前で呼んでもらうこと。お前ならすぐできるよ。多分な」
「多分なんて無責任な言い方だなぁ。先生って、噂どおりですよね。ビジネスライクっていうのかな、ドライっていうのかな」
「今時珍しくないだろ。おれみたいな教師は」
春川は何かを諦めたように笑う。その笑顔は、あまり好きじゃない。見ていられなくて、おれは話題を変えた。
「……なぁ、春川はここで何してたんだ。花見をしていただけか?」
「私は、これです。絵を描いていたんです」
小脇に挟んでいた、緑色のスケッチブックを春川は示す。それは春の新緑と、よく似ている鮮やかな色をしていた。
「へぇ、絵を描くのか。でもお前、美術部じゃなかったよな?」
「はい、部活には入ってないですよ」
「見せてくれよ、そのスケッチブック」
「嫌です」
「嫌って、なんでだよ。絵を見せるのが嫌なら、スケッチしてたなんて言わないハズだろ」
「ただで見せるのは嫌っていう意味です。これを見せる代わりに、先生が撮った写真を見せてください。興味があるんですよ。交換条件ってやつですね」
「おれの写真に、そんな価値はないぞ。趣味で撮っている写真だからな。三十半ばの男が撮った写真に、興味が湧くなんておかしくないか」
やんわりと断るのだが、それでも春川は「見せて欲しい」と譲らない。そもそもおれは、話題を変えようと思っただけだ。そこまで春川の絵に興味がある訳ではない。しかし。
ここで「実はお前の絵に興味はない」と言えるほど、おれは冷たい人間になり切れなかった。
「……わかったよ。写真を見せるのはいいが、でも今日は無理だぞ。これはフィルムだからな、デジタルカメラと違って撮った写真を表示できる訳じゃないんだ」
「それなら、今度見せてもらえますか?」
「なんてことない普通の風景写真だぞ。それでもいいのか」
「もちろんです。先生、約束ですよ。来週の日曜日、ここで私に見せてください。先生の写真を」
「ここで?」
「はい、ここで。学校だと、いろんな目があるじゃないですか」
なるほど確かに言う通り。面倒なヤツに見られたら、何を言われるかわかったもんじゃない。現代社会は、そんな無責任な悪意に溢れている。
おれはいいが、春川に迷惑が掛かるのには気が引けた。ここは大人しく、その言葉に従おう。
そう告げると、春川は嬉しそうに笑った。来週、楽しみにしてますね。その言葉とともに、スケッチブックを渡される。
受け取ったスケッチブックをパラリとめくる。真っ先に目に飛び込んで来たのは、丁寧に描き込まれた桜のスケッチ。
……上手い。それもめちゃくちゃに、上手い。
「お前、めちゃくちゃ上手いじゃないか。すごいな、これ。こんなの見せられたら、自分の写真なんて恥ずかしくて見せられないぞ」
「先生の写真を見せてもらうのはもう、決定事項です。そんなお世辞で躱せるほど、私は子供ではないですからね」
春川は言うが、言葉が上手く耳に入ってこなかった。そのスケッチブックに、深く心を奪われていたからだ。
これは本物だ。今、自分の目の前にある桜そのものが、スケッチブックの紙の上で揺れているように感じる躍動感。
鉛筆一本で描いたとは思えないほどに、モノクロの絵から鮮やかな春の息吹を感じた。それはまさに、生きた絵だった。
「……本当にすごいな。絵には明るくないが、これが本物だってことは素人のおれにもわかる。なぁ春川、色をつけた絵はないのか?」
「色をつけた絵は、ないんです」
「どうして」
「私はスケッチ専門だから。鉛筆一本で表現できる素描が好きなんです。それにほら、色をつけるのには道具がいるし、お金だってかかるし。私、家に迷惑は掛けられないから」
知ってるでしょう? そう言いたげな上目遣いで、春川はおれを見る。きっと自分の家庭環境のことを言っているのだろう。前任から引き継いだ春川の身上書に、こう記載されているのをおれは憶えていた。
両親を早くに亡くした春川は、親戚の家に引き取られて暮らしている。それは春川にとって、不自由を強いる暮らしである、と。
しかし今それに言及しても、何かが変わる訳ではない。だからそこには触れずに、おれは春川に言葉を返した。
「それなら、美術部の備品を貸してもらったらどうだ」
「私は美術部じゃないですし、他人の道具で絵を描くのは、なんか違う気がして。それにスケッチだけで充分に楽しいからいいんです。これはただの趣味だから」
趣味レベルを完全に超えてるけどな。そう呟きながらスケッチブックを最後まで堪能した。一冊丸ごと、それは春の草木が生き生きと描かれたものだった。
「植物しか描かないのは、こだわりなのか?」
「こだわりっていうほどでもないですよ。ただ、私は植物が好きなんです」
「それは絵のモチーフとして、ってことか」
「植物って、ずっとそこに居てくれるじゃないですか。だから好きなんです。生き物は、いつかどこかへ行ってしまうから」
含みのある言い方だった。きっと、何か思うことがあるのだろう。でもそれに気がつかない振りをして、スケッチブックと共に言葉を返す。
「……凄くいい絵だった。これと張り合える気がしないけど、約束は約束だ。来週ここでおれも写真を見せよう。今まで撮り溜めたものを持ってくる」
「約束ですよ、先生?」
「あぁ、憶えておく。それに来週にはきっと、この桜も満開だろ。いい絵と写真が撮れそうだな」
「そうですね。私も楽しみにしておきます」
「それじゃ、また来週」
「先生、明日月曜日ですよ? 私、先生のクラスなんだけどな」
「そうだった、あまりにも絵が凄くて忘れてた」
「変な先生。でも、その言葉は嬉しいです」
小さくクスリと笑う春川。それは春そのもののような暖かさを感じる表情で。思わず見惚れそうになって、おれは顔を慌てて戻した。生徒の前で変な表情はできない。
「それじゃ先生、また明日」
「あぁ、また明日」
踵を返して、おれは公園の方へと戻る。入口に停めていた年代物の赤いスーパーカブに跨り、スタータペダルをキックした。
小気味良いエンジンの音。アクセルを捻り、カブを緩やかに走らせる。
一年で一番過ごしやすい季節。春。
麗かな日差しと、ふわりと優しい風の中を、スーパーカブが走り抜けて行く。
──春だった。それはどこまでも、春だった。
(続く)
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