夢幻贖罪

潮風凛

贖いは終わらない

 冷たいベッドに横たわり、薄いシーツに自分の体温が伝わる数分間。じわじわと湧き上がる高揚とは裏腹に、私の身体を動かすあらゆる機関の作動音が徐々に穏やかになっていくのを感じる。

 まるで、死んでいくみたいだ。多分、人間は眠る時ほとんど死んでいる。身体の操作を投げ出し、意識を限りなくゼロに近づけて。そして死と生の境界に立った私は、もうとっくに死の側にいる彼女に会いにいく。敬虔な信者のように。従順な下僕のように。


 ――私が、己の手で死の側に送った彼女の元へ。


 彼女はいつも微笑んでいる。折れそうに細い身体をまじろぐこともせず、皮膚に絡みつくような生温い風に淡い黄金色オフゴールドの髪を揺らしながら、前に立つ私をじっと見つめている。彼女がお気に入りだと言っていた杏色のリップが薄くひかれた唇が開かれるのを、私は見たことがない。ただひたむきにこちらに視線を注ぐ一対の瑠璃ラピスラズリの瞳が、私が締めた小鳥のように細い頸が、声なき声を私に届ける。呪いにも似た願いを受け取って、私はそれを抱えたまま生きる者の世界に舞い戻る。


 多分、これは贖罪の機会ではない。


 私の罪は、私が一生背負うもの。唯一私を裁き赦すことができた彼女は、本当はもうこの世界にいない。ただ幻のように、それよりはもう少し現実的リアルな質感で、私に繰り返し呪いをかける。お前の罪を忘れるな。そう無言で訴えるように。

 これは贖罪であって、贖罪にならない。これは罪を無くすためのものではない。それでも彼女が現れる限り、私はその願いのろいを受け入れ続けよう。かつてただひとつの真実も渡すことができなかった私の、それでも世界で唯一だった彼女への精一杯の誠意として。


 ――さあ、今日も朝が来る。永遠に終わらない贖罪の朝が。


 *


 私が彼女を殺したのは、ほんの数ヶ月前のことだ。

 ただ殺したのではない。何食わぬ顔で彼女に近づき、時間をかけて親しくなり、必要となる敵対勢力の機密情報から些細なプライベートまで根こそぎ聞き出してから殺した。そういう仕事だったから。

 私の住んでいる国は、幾つかの小さな勢力に分かれての内戦がずっと続いている。とはいっても、戦場で真っ向勝負なんてことには滅多にならない。自勢力への甚大な損害を嫌った各勢力の幹部は、情報戦と要人の抹殺で敵対勢力よりも優位に立つことを望んだ。

 犠牲を覚悟しない戦争なんて、まるでままごとをしているようなものだ。そのままごとに協力して自勢力に損害を出さないクリーンかつ完璧な勝利をもたらすように要求されているのが、私達軍部特殊情報部隊――通称、情特SIと呼ばれる特殊部隊である。

 私達は敵対勢力に潜入して、相手の弱みやスキャンダルとなるような情報を探す。必要なら殺害も行うが、軍人としてそれを専門としているわけではない。一風変わった部隊に共通することといえば、軍属とはとても考えられないような見目のいい娘が多く所属しているということ。通常部隊ではちょっと信じられないぐらい少女の比率が高い職場なのだ。

 潜入工作スパイをする上で一番重要な条件は、スパイがそうと判別できないことだ。ちょっと着飾ればいいとこのお嬢さんができるような、見目のいい娘ばかり集められているのはそこに理由がある。容姿が整っている少女が少しばかり媚びた態度をとれば好いた惚れたに慣れていない兵士はあっさり陥落するし、必要とあらば己の身体を売ってもいい。世間一般では眉を顰められることでも、ここでは常識だった。

 そういう意味で、私にとってこの仕事は天職といえるだろう。無駄に容姿が整っていた私は、男の下卑た視線は日常の一風景だった。十になってすぐに義父に襲われ、十三歳で義兄に犯され、姉に「最低の女」と罵られながら家を出た。最初から汚れていた私は、これ以上汚れることに何を躊躇うべきというのだろう。血と硝煙の臭いも、何もかも嘘で塗り固めて微笑むことにもすぐに慣れた。

 優しく微笑みながらするりと心の隙間につけ込み、必要なら自身の身体も使って、ただ淡々と情報を手に入れて殺す。それが私の日常。当たり前のように、今まで何度も繰り返したこと。だが、その日の標的ターゲットは私欲に溺れる敵対勢力の幹部のおっさんでも、下卑た目で私を品定めするように睨め回す兵士でもなかった。


『貴女が、今日から私を手伝ってくれるの?』


 開口一番にそう言って嬉しそうに握手を求めてきたのが、私と彼女の出会い。

 彼女は、裏ではそれなりに知られている実力者だった。敵対勢力の幹部の娘ではあるが、その立場に甘んじることない努力と年齢に見合わぬ驚異的な才能センスで情報戦の全てを掌中に収める才女。唯ひとり、自分を殺しにきた娘の正体だけは最期まで見破ることができなかった彼女は、当時私と同じ十六になったばかりの少女だった。

 彼女は、いつもコンピュータが鎮座する灰色の無機質な部屋にいた。血の臭いを知らない代わりに燦々と輝く陽光も透き通るような闇に浮かぶ星も知らない彼女は、それでも傷ひとつない笑顔を浮かべて私を見た。私はその笑顔に嫉妬した。欲しくもなかった見目の良さで家族に疎まれ野良猫のように生きる私と、誰もに愛されて自分の地位を確立している彼女では立場が違いすぎたから。

 到底仲良くなれないだろうと、その時の私は思った。だが、その認識は後々変わることになる。

 彼女の仕事を手伝い、共に長い時間を過ごすうちに私は彼女の様々なことを知った。珈琲が苦手で、蜂蜜入りの紅茶が好きなこと。ミステリーが好きだけれど、それ以上に真面目くさった文章でいかにも怪しいことが書いてあるようなホラ話を愛読書にしていること。幼い頃に父に与えられたテディ・ベアを大事にしていて、いつもそれを話し相手に寂しさを紛らわせていたこと。……幼い頃から、孤独を抱えて生きていたこと。

 幼少期から天才と讃えられた彼女は、それ故に周囲と壁を作って孤独に生きていた。忙しく中々会えない父と、遠慮して話しかけてこない部下。彼女がとことん己の技術を極めたのは、それしか自分にできることがなかったからだ。

 その孤独は、私と似た色をしていた。それでいて私よりもずっと強く明るくいられる彼女に、私は惹かれた。彼女の持つ光は、汚れきった私も明るく照らしてくれるようだった。

 私は、彼女と過ごす日々を愛しく思うようになった。彼女を支えることが至上の喜びと感じた。だが、そう感じる度に己の立場を自覚した。私は、彼女を騙している。彼女から全ての真実を隠し、虚飾の笑顔で情報を奪い、最後はその命をも奪う。醜く汚い存在であることを。


 ――それでも、少しでいい。ほんの少しでも長く、この日々が続きますように。


 祈りにも似た願いを繰り返す日々。だがそれは、唐突に終わりを告げた。上から命令が来たのだ。情報搾取の終了。ついては両日中に、目標ターゲットの速やかな殺害。

 ギリギリまで彼女と時を過ごし、私はその日のうちに彼女を殺した。ベッドの上で、眠る彼女の頸を折って。

 苦しむ彼女を見ていると、後から後から涙が溢れて止まらなかった。だが、謝るようなことは一度もしなかった。私は無言のまま彼女を殺し、涙の痕が残る遺体を放置して部屋を出た。


 *


 彼女を失った敵対勢力はすぐに混乱し、次第に弱体化して崩壊した。作戦は完全に成功したといえるだろう。

 自勢力の拠点に戻った私は暫く無気力に陥っていたが、やがて繰り返し同じ夢を見るようになった。真っ白な世界で、彼女が佇む夢を。

 周囲の人間は私にカウンセリングを勧めたが、私は歯牙にもかけなかった。カウンセリングで心が落ち着くよりも、下手なことをして毎晩現れる彼女に出会えなくなることの方が怖かった。

 彼女は、私に毎晩何かを願った。私は他の誰の話を聞くことよりも、その願いを叶えることに必死だったのだ。

 初めは、とても些細な願いだった。紅茶に蜂蜜を入れて飲んで欲しいとか、誰々の本を読んで欲しいとか。些細だが生前の彼女に直結しており、行動する度に死に際の彼女を思い出して辛かったのを覚えている。

 思い出を辿るような願いは、やがて全くその性質を異にするものに変わっていった。

 ある日、彼女は私に自分の身体を傷つけてほしいと言った。手首、太腿、胸。彼女に言われた場所をナイフで切った。左の薬指が欲しいと言われた。私は起きてすぐ、自分の薬指を切り落とした。死なない程度に毒を飲んで苦しんで欲しいと言われた。服毒した私は数日のたうち回った。痛みに喘ぎ、嘔吐に苦しんでも私は彼女が望む通りに行動した。

 次第に、彼女の望みは周囲の人にも及んだ。作戦中の事故に見せかけて、一番親しかった戦友をわざと撃ち殺した。娼館に潜入した時、ターゲットだけでなくその店にいた全ての人間を殺して死体を路上に晒した。情特を解雇された。軍事裁判にかけられたから、裁判官と多くの仲間を殺して逃亡した。

 勢力を脱出した後、私は仕事をするうちに身につけた情報を操り人を惑わす技術で信者シンパを増やした。自分の容姿も幸いし、私の為に行動してくれる人はあっという間に増えた。彼等を使って、私は各地で虐殺を繰り返した。全ては、彼女が望む通りに。

 今思うと、あれが本当に彼女なのか多少疑問ではある。私が作った彼女の幻想というより、私が殺した大勢の人間の思念が集まったものではないかと思う。それでもいいのだ。長く繰り返した私の罪。これを裁き赦すことができるのは、彼女しかいない。


 ――たとえ、それが無限に続く贖罪の道だとしても。


 鉄道をハイジャックして崖から突き落とした。地下の宗教施設に毒ガスを撒いた。川に毒を。各勢力の幹部が集う会議堂には銃声を。

 いつしか、この国の内戦はなくなっていた。各勢力は権力を巡って争うよりも、国全体を脅かす危険に対処せざるを得なくなった。私達は世間では巨大犯罪集団とか、カルト宗教とか呼ばれているらしかった。トップに立つ私のことも、あれこれまことしやかな噂が流れているそう。

 誰に何を言われようが、微塵も興味が湧かなかった。私が見ているのは彼女だけ。無言で私を見つめ、無音の呪いをかけ、ただの一度も赦すと言ってくれない彼女だけだった。

 今日も、私は彼女と対峙する。彼女の訴えに私は己の全身を傾ける。

 その時、彼女が今まで一度も開かなかった小さな唇を開いた。


「貴女も、もう死んで」


 懐かしい声が呟いたのは、私の死を希求するものだった。


 *


 最初、私は彼女が何を言ったのか分からなかった。ただ夢の中の幻でしかないはずの彼女が言葉を発したことに驚き、呼吸も忘れて呆然とした。

 彼女は悲しげに瞳を伏せ、私に一歩近づいた。耳に柔らかく響く、どこまでも優しい声で私に話しかける。


「心の軋みに耐えきれず、自分を傷つけることでも満たされず、罪を重ねることを贖罪と錯覚した可哀想な貴女。誰よりも赦してほしいのに、これは誰も赦せないと意固地になっている貴女。私は、貴女に赦してあげるとは言えない。そんなことで貴女が納得するとは思えない。でも、もう罪を重ねるのは止めて。そんなことをするくらいなら、私のところに来て」

「私は、貴女のところに行ってもいいの……?」


 私は、震える声でそう尋ねた。ずっと、彼女のところに行ってはいけないと思っていた。私は、永遠に終わらない贖罪の中にいるのだから。

 しかし、彼女はあっさりと頷いた。生前と同じ、私を照らしてくれた明るい笑顔で私に微笑んでくれる。


「一緒に行きましょう。夢幻ゆめまぼろし相手の贖罪は、もう終えてもいい頃合いでしょう」


 そう言って、彼女は私を暖かい腕で抱きしめてくれた。

 私は彼女の背中に腕を回し、力いっぱいしがみついて子供のように泣きじゃくった。まるで、彼女を殺した夜のように。あの時は出なかった言葉が、繰り返し口をついて溢れ出す。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな、さい……」


 多分、私はずっとそう言いたかったのだ。しかし、言ってはいけないと思っていた。決して赦されてはいけない罪だと、頑ななまでに決めつけていた。一度も赦すとは言わない彼女に甘えて、私は抑えていた後悔をひたすら彼女にぶつけた。

 贖罪を求め、神に赦しを請う一頭の仔羊のように。


 *


 翌朝、私は信者シンパを集めて全員で無理心中をした。彼等が、私が殺した最後の人間になった。

 贖罪にならないと分かっていながら償いを求め、赦されてはいけないと思いながら赦しを請い、私が殺した人の数は実に千人を超えていた。重ねた罪は十字架になって、私を縛りつける。けれど、私の夢幻贖罪は終わったから。彼女が、「赦さないこと」で終わらせてくれたから。せめて、この罪が私とともに消えてこの地に残らないことを祈った。

 もう二度と、無限に続く贖罪に囚われる人がいないように。

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