第3話 檻桜3


 春宵。

 史春の手の中には、桃色の花が咲いた一枝が握られていた。やせ細った手首からは赤い血が滴り落ちている。手枷を無理にはずそうとして切ってしまったのだ。史春は己の手を見やる。脅迫するように月の光にひかる手枷は、もうそこには存在しない。暗黒のどこかに転がっていることだろう。格子の向こう、墨が零れた空に満月が浮かんでいた。桜の花びらが、その中を雪のように舞っている。

 夜も更け、人が寝息を立て始めた頃。この牢獄に閉じ込められてからというもの史春は初めて積極的に動いた。

 手枷を取ると戸口へちょこちょこと歩いていく。足枷、手枷で捕らわれている史春が逃げられるはずはないと、次第に閉められなくなった戸口は、少し押しただけで簡単に開いた。膝をついて外に這い出た史春は、そろそろと立ち上がった。外に出たのも、一身に夜風を受けるのも久しぶりで、胸にこみ上げてくるものがあった。離れ座敷を振り返る。二度とここから出られないと思った。出ることを諦めていた。ここで一生を暮らすのだと思っていた。史春は離れ座敷から目を逸らす。嘉穂が会いに来てくれなければ、こうして外に出ることもしなかった。

 そろりと桜の木のある場所へと歩き出した。冷たい土の感触がたまらなく心地よかった。一歩踏み出すたびに、乾いた音が辺りに響いた。中庭を右折するとそこには、一つの門がある。門の向こう側からこちら側へと花びらがひらりふわりと舞っているのが見える。

 史春はそちらへと足を向けた。門を通り、顔を上げるとそこには何本もの桜の木があった。史春は最も背の低い桜の木の枝に手を伸ばして、一枝折った。史春は桜の花が散ってしまわないように、注意をしながら離れ座敷へと戻っていった。

 そして今に至る。史春は桜の花を見つめて、微笑んだ。早く日が登ればよいのに。早く嘉穂が会いに来てくれればよいのに。まだまだ日のでは遠いが、史春は格子の向こう、母屋を眺めることで何とか気持ちを落ち着かせようとしていた。娘の喜ぶ顔を思い浮かべると自然と笑みが零れる。明日のことしか考えられず、暗黒の中近づいてくる者のことになど気づけるはずもなかった。

「その桜、どうしたのだ?」

 突然の声に、身を竦ませた。その声は、遠い昔に聞いた声。まだ史春がこの牢屋に入る前の――幸せにしてやる、と言ってくれた声。振り返ったそこには、夫の姿があった。昔となんら変わっていないようで、全てが変わってしまったように思える。もう、史春のことなど忘れたのだろうと思っていた。

「なるほど。世話役が戸に閂をかけないのをいいことに、俺の知らないところで外に出ていたのだな」

 史春は首を振る。

「外に出たのは、今日が始めて。たったの一度でございます」

 眼光鋭く睨みつけてくる夫に、恐怖を覚えて一歩後退しながら答える。

「嘘をつけっ」

「嘘ではございません」

 唾を飛ばして怒鳴りつけられる。その剣幕に押されてつつも、か細く返事をする。それは出来るだけ親の怒りをこれ以上買わないようにする子供のように。

「お前の仕業なのだろう? 人妖。最近、町で立て続けに人が殺されている。お前がやったのだ」

 暗闇の中で聞きなれない音がなる。近づいてきた夫の、その手には太刀が握られていた。血を欲しそうに怪しく光っている。

「わたくしは人を殺したことなどありません。そのような非道なことは、致しません」

「さぁ、どうだろうな。その爪で人の首を貫けば、人など容易く――」

「わたくしは人殺しなどしていません!」

 叫び声に近い声を上げる。夫は眉をひそめた。この目の前の男は、史春が犯人なのだと決め付けているのだ。それは確かな証拠があるからではなく、史春が人ではなく人妖だから、という粗末な理由――否、偏見からの決め付け。

「お前のたわ言など聞きとうないわ。人妖の妻を持つ俺が、どれだけ恥じをかいて来たか。どれだけ苦労して来たか。お前にはわかるまい。町の者は、お前が殺したのだと噂している」

 そうか、と史春は男をひたと見つめる。この人にとって、わたくしが人を殺したかどうか、などということはどうでも良いのだ。ただこの人は、わたくしを殺したいのだ。人妖から解放されたいのだ。ただそれだけなのだ。

 だからこそその手には、太刀が握られている。史春はそっと床に桜の枝を置いた。恨みが汗となって顔面を流れていく男に、言葉など通用しない。

 ただ史春は、静かに目を閉じる。胸の中にひとつの確信が生まれた。

 ――あぁ、母上。あなたは、病気で亡くなられたのではないのですね。

 あなたは父上に殺された。わたくしのように罪をきせられ、葬られたのですね。

 太刀が大きく振り上げられる。桜の花が思いもよらぬ風に散った。何の容赦もなく振り下ろされた太刀は、史春の首の上を、胴体の上を走った。その次の瞬間、史春は床に倒れた。血溜まりは広がり桜の花を赤に染めた。着物が血を吸って、鮮やかに染め上げられていく。

 男はただある一点をじっと見つめていた。唇をかみ締める。人妖の証であった、長い爪が人のそれと何ら変わらないものとなっているではないか。

 離れ座敷の暗黒に男が一人。

 声を押し殺して泣いていた。


 終


 嫁ぎ先へと行く日。

 嘉穂が門を一歩出た時だった。着物の袖からはみ出すものがあった。

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檻桜 魚継 @uotu2020

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