第2話 檻桜2

 手枷、足枷をつけられ、幾ばくの時を過ごしてきただろう。史春はすっかり諦めていた。この牢獄から出ることは、決して叶わないのだと。格子の向こうの世界を眺めては、一人娘に思いを馳せる毎日。時折、頬を流れる涙は、人を、世界を恋しく思う寂しさから。ただ目の前に広がる暗黒を見つめる。長い間誰とも話してこなかったせいか、声を失ってしまったように思う。

 人の声が微かに聞こえれば、格子に飛びついていたものの、今はそれもしなくなった。ここに来て数ヶ月のころは、時たま夫も会いに来てくれていたが、それすらもなくなった。それでもたった一つ。この生き地獄が始まったあの日。赤子を奪われ、離れ座敷に閉じ込められて、数日後に教えられた娘の名前だけが、この暗黒の中の唯一の灯り火だった。

 ――嘉穂。

 どんな風に笑い、どんな風に泣き、どんな風に怒るのか。どんな子に成長しているのか。一切のことを教えられていなくとも、思うのは考えるのは娘のことばかり。

 そんなある日のことだった。

「……かか様?」

 幻聴だと思った。あまりにも娘のことばかりを考えているから、このような幻聴を聞いてしまうのだと、けれどそれは幻聴などではなかった。再度、か細い声で呼ばれ、格子を振り返れば、小さな顔が格子越しにこちらを見ている。思わず目を見開いた。立ち上がろうとした脚には、力が入らなかった。それでもゆっくりと立ち上がって、格子に近づいていくと、その小さな顔は、頬に赤を上らせて、くしゃりと笑った。

 会いに来てくれたのか、このわたくしに、母に。

 嬉しくて、嬉しくて、笑い返そうとして、けれど上手く笑えず、頬を涙が伝った。胸に手を添えて、父上に感謝した。史春は、子供の頃を振り返った。父上に母上はご病気だと教えられて、それにさして疑問を持たなかった。離れ座敷に行ってはいけないよ、と父上の言葉を守っていた。きっと目の前のこの子もそう教えられているはず。なのに、この子は父上の言葉を疑ったのか、会いにきてくれた。その外見こそ、小さかった史春に似ているが、その心は、史春のそれとは全く違う。

 嬉しさに涙が止まらなかった。

「かか様、苦しいの?」

 いいえ、と言ってみるものの、それが果たしてちゃんと言葉になったのかはわからない。涙に埋もれてしまったかもしれない。胸が苦しかった。それは負ではない、正の感情。娘が会いに来てくれた。たったそれだけのことで、救われたように感じる。嬉しくて、嬉しくて、胸が苦しかった。そうして泣く史春に、子供は桃餅を差し出した。

「お腹空いているのじゃないかしら、と思って。この桃餅、とっても美味しいの。かか様もお食べになって」

 着物の袖で涙をぬぐった史春は、優しく微笑んだ。史春に与えられる食事は昼に一度だけである。どうしても肉が削げ落ちる。骨ばった白腕を伸ばして、温かい桃餅を小さな手から受け取ろうとした。

「かか様?」

 史春の動きが止まる。刃物のように見えるそれは格子の向こう、青空から降り注ぐ光の中で、輝いている。

 ――この人妖。

 傷つけてしまいそうで、恐ろしい。まだ幼いこの小さな手に、傷をつけてしまいそうで、どうしても小さな手の上に乗せられた桃餅を受け取ることが出来ない。

「桃餅はお嫌い?」

 首を傾けて問いかける嘉穂に、史春はまたしても「いいえ」と首を振る。受け取らないわけにはいかない。むしろ受け取りたい。娘の優しさを、無駄にするわけにはいかない。史春は、下ろしかけた腕を光の中へと伸ばす。長い爪に注意を払いつつ器用に、爪の先で桃餅を掴んだ。不安そうにしていた子供は嬉しそうに笑った。

「かか様、また会いに来ますね」

 その言葉を残して、子供は中庭の向こう母屋へと戻っていった。長い間、姿を消すことは出来ないだろう。もし、ここに来ていたことがしられれば、どうなってしまうのか。

 史春は、手の中の桃餅を見つめた。桜の花びらから摂取した極少量の桃色の液体で、色付けがされている。鮮やかな桃色。そのところどころに、桜の絵が散りばめられている。それを口の中に運ぶと、一瞬でとろりと溶けてしまった。それが何とも切なかった。

 それからというもの子供は約束どおり、毎日のように会いに来てくれた。会いにきてくれる度に、嘉穂が話す日常の断片を史春は、相槌を打っては静かに聞いていた。いつまでもその声を聞いていたい、と願わずにはいられなかった。時折帰っていこうとする娘を引きとめようと伸びる腕を、もう片腕で必死に止めなければいけないことがあった。

 何時間も、何日でも話していたい。少しずつ埋められていく空白の時を史春はじれったく思っていた。自由の身ならどれだけよかったか。人だったのならどれだけよかったか。

 

 気だるい春の風が、ようやく桜の花を咲かせた日のこと。その日もいつものように嘉穂が母屋からやって来た。甘水(かんすい)を零さないようにと危うい足取りで現れた嘉穂は、それを史春に手渡した。

「お綺麗でしょ? 桜が咲いたので今日は、お花見をすることになったの。それで皆に配られて。だから、かか様にも」

 竹で作られた器の中で揺れる甘水には、蓮の花が池に浮かぶようにして桜の花が浮いている。史春は、綺麗ですねと呟いて、はたと嘉穂の顔を見上げる。

「嘉穂は甘水をお飲みになったのですか?」

 お花見に配られる甘水は、一人一つ。春の初めに喜ばしい出来事が起こったときだけ、たった一度だけ飲むことが出来るもの。これは嘉穂の分ではなかろうか。

「飲みましたよ」

 屈託のない笑みを向けられて、どうしたものか、と史春は考える。嘉穂は捕らわれの身である母親に、どうしても甘水を飲んで欲しかったのだろう。きっと桜に見入っている大人たちは、母上のことを忘れてしまわれてあの離れ座敷に届けることなどしないだろうから。

 史春はせがるような嘉穂の眼差しに負けた。無理に事実を聞き出すこともなく頷いて、その甘ったるい水を飲む。甘水は口に含んだときのどろりとした感触が嘘だったように、するりと喉をおりた。水を飲んだ後のように、後味はしない。たった一瞬だけ、与えられた夢のような飲み物だと史春は思った。甘水を半分ほど残して、嘉穂に器を返す。

「全部、お飲みにならないの?」

 丸い目を瞬かせる嘉穂に史春は、頷く。一人娘を愛おしそうに見つめる。

「せっかくなのだから、春の訪れを二人で祝いましょう」

 残りの甘水に視線を落とした嘉穂は、はいと頷いた。かつて史春がそうだったように、子供にとって年に一度しか飲めない甘水は、特別なもののはず。平気なふりをしていても、心の奥では甘水を飲みたくてしょうがないのだ。 嘉穂は甘水をあっという間に飲み干してしまった。口元についている水滴を、手でぬぐうと満足そうに笑った。史春は手の腹で嘉穂の頭を愛おしそうに撫でた。

 二人は遠くにある桜の花を見ながら、どうとでもない話をする。

 いつまでもこのささやかな幸せが続くのだと思っていた。桜の花が散っていくように、この一瞬も散っていくのだと史春はまだ知らなかったのだ。

やがて別れの時がやって来る。大人たちに知られてはいけないと嘉穂は母屋へと帰っていった。史春は格子越しに見える桜を、目を細めて見つめた。

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