檻桜
魚継
第1話
明日、二ノ宮家に嫁ぐ。
嘉穂は二度と来ることはないであろう家の中を歩き回っていた。そうして子供の頃よく勉学に励んでいた間に入ると、その円窓の向こうに離れ座敷が見えた。円窓に添えられる形で置かれた卓と椅子。懐かしい。大きくなってからは、寝室か書の間で勉学をしていたので、ここに来ることは滅多になくなった。嘉穂は、椅子に座ると子供の頃にしたように、円窓を開けた。温かい風と共に、桜の花びらがやってきて、卓の上へ床の上へと舞い落ちた。
嘉穂は、母に似つくことのなかった爪の先で、花びらをつまみあげる。それを白い手の上にそっと置いて、眺めた。
思い出すのは、忽然と姿を消した母上のこと。世界の輪からはずれるようにしてある離れ座敷を見る。
一度もあの檻の中から出ることの叶わなかった母上。母上がいなくなったと知らされた時、小さな嘉穂は思ったものだ。きっとお外に出たかったのだろうと。綺麗に咲いた桜の枝を嘉穂に残して。
嘉穂は美しく艶やかだった母上に瓜二つだった。しゃべり方、思考、仕草、頭の良さ、その外見は母上を模写したように、瓜二つ。それでもたった一つ、母上のあの刃物のように長く鋭利な爪だけは似ることはなかった。
そう言われるたびに、胸が締め付けられた。
嘉穂は立ち上がった。あの離れ座敷という名の牢屋に閉じ込められ続けた母上のことを思うと嫌な胸騒ぎがする。どうしてなのかはわからない。それでも母上をまるで自分自身のように感じるときがあった。
部屋を出て行きざま嘉穂は、最後に円窓の向こう離れ座敷を見た。そうして静かにその部屋を出て行った。
檻桜
一人娘を産んだ史春(ししゅん)は、その後すぐに離れ座敷に閉じ込められた。閉じ込められてから半年間、何故このような場所に閉じ込められなくてはいけないのか、わからずに泣いていた。格子の向こうに見える世界が、史春にとっては全てであり、そのどれもこれもが手を伸ばしても届かぬものばかり。愛おしい娘の成長も見れず、人と会うのは昼の食事時に食べ物を運んでくれる、その一瞬だけ。人恋しい。外に出たい。娘を抱き締めたい。
そう思うもののそれが出来ないのは、恐ろしいからだ。娘を傷つけてしまうのではないか、と。
「お前は人ではない。人の形をした妖怪だ」
――この人妖。
泣いては、外に出して欲しいと訴える史春に、夫はそう言い放った。
「その刀のような爪がお前が人妖だという何よりもの証だ。妖怪の血が薄くなっているはずだと、お前の父親に説きふせられて、貰ってやったというのに」
史春は、美しかった。床につくほどに長く黒い髪は、陽光に照らされれば煌びやかに輝き、風が吹けば繊細に波打った。その端整な顔から笑顔がこぼれれば、周りにいた者たちの頬には赤が上った。男達は、史春を嫁に欲しがった。人を貰えばよかったと、吐くこの目の前の男も――その史春の美しさに心奪われた者の一人。それが、今ではお前なんぞ、貰わなければよかったと、挙句の果てには父親に頼まれて貰ってやったのだという。
幸せに、してくれるといってくれた夫は一体どこへいったのだろう。
水のように透き通った長く鋭利な爪に目を落とす。子供の頃は、爪はこれほど長くはなかった。いや、成人しても爪には何の変化もなかった。変化が現れたのは、嫁ぎ先へと赴くとき。数十年、蝶よ、花よと育ててくれた愛おしい人たちのいる我が家の門を一歩外に出たときだった。白い着物の袖からはみ出すものがあった。
それが、人のものとは思えないほどに長く鋭利な爪だった。その時、その瞬間から周りの目は変わったのだ。冷たい視線と、落胆を隠せないため息。
史春の内を蝕んでいくものがあった。
思わず門を振り返った。振り返らずにはいられなかった。
これまで誰の言葉も疑わずに生きてきた。離れ座敷から決して出てくることのなかった母上のことも、父上に「母上はご病気なのだよ」と教えられ、それにさして疑問も持たなかった。しかし、今はどうだろうか。
何か違うような気がする。何かが間違っているような気がする。
母上は、本当にご病気だったのだろうか。
――ご病気で、お亡くなりになられたのだろうか。
胸騒ぎを覚えつつも、嫁ぎ先へと向った。その日から始まったのは、人妖としての生活だった。急に周りの態度が変わり、心は置いてけぼりになった。自然と口数がへり、自ずと人から離れるようになっていった。寂しい日々が、過ぎていく中で、ぼんやりと母上のことを思った。母上もこのような扱いを受けていらしたのか。中庭のその先に見える離れ座敷を見ながら、思ったものだ。次は自分だと。母上がそうだったように、わたくしもそうなる。あの離れ座敷に閉じ込められるのだ。この長い爪があるがために、人妖と呼ばれ疎まれ――そしていつか、母上のように消えていく。
未来に何の希望も見出せずに、移ろいで行く季節を半場死人のような目つきで見守っていた。いつだろう。あそこへ連れて行かれるのは、いつになるのだろう。そんなことばかりを考えていたある日、突然暗闇に光がさした。赤子を授かったのだ。ようやく希望が見えた、ように思えた。赤子を授かれば何かが変わるかもしれない、と周りを見渡してみたが、人妖に近づく者はやはり一人もいなかった。
それでもお腹の中にいる赤子が、史春の中で動いてくれるたびに、一人ではないのだと嬉しさに涙を流した。この子は、そのまま史春の希望になった。
しかし史春は知らなかった。その希望がどれだけ脆いものか。すっかり過去のことを忘れていたのだ。一度も母親と会うことのなかった過去を、離れ座敷から出てこなかった、出られなかった母親のことを。
赤子を産んで、抱こうと伸ばした腕は当然のように何者かに掴まれ邪魔された。わが子を抱きたいと暴れる史春が連れてこられたのは、離れ座敷。
「お願いします。一度だけ、たった一度だけでもよいのです。わが子を抱かせてはくれませんか」
何度頭を下げたろう。どれだけ必死に希っても、その返答は変わらなかった。
「お前は自分が何者か知っていて、それを言うか?」
唾を吐き捨てて出て行った夫の後姿は、涙に歪んで見えなかった。涙はいつか枯れるものだ。雨が降った後は、必ず晴れるのだよ、史春。わたくしが産んだ赤子なのに。小さな頃、泣いていた史春に、悪いことが起これば、その後必ず良いことがあるのだよ、と教えてくれた父上。それは人の理です。わたくしは人ではありません。父上、人妖のわたくしにも良きことが起こるのですか。それはいつの話なのでしょう。
泣いても、泣いても、涙は頬を流れ続けた。
――わたくしの赤子。可愛いややこ。
その夜、涙に暮れながら史春は眠った。赤子を抱いている夢でも見ているのか、時折薄っすらと微笑みながら。
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