霧の中の青き薔薇(2)

 彼が湯船に腰を降ろしてから幾分が経っただろうか。浴場の霧の中からゆっくりと日の出に向っていく空にとき色が見えた。しかしながら彼が未だ長風呂を決め込んでいたのは、ひとえに青薔薇の魔法に他ならない。


「あのたち……?」

 彼は怪訝な表情を浮かべた。目の前の十代半ばに見える『彼女』の口から出された言葉の意図を測りかねたのだ。そんな彼の疑問符を無視するように『彼女』は想いを言葉に乗せた。

「全長240 m超で水線長/幅LB比9のスレンダーな体つき。日本海軍では珍しい古きよきインバーテッド・バウに若干のシアーがある艦首の曲線美は名高きインヴィンシブルの血を引く者の証。18インチ砲2門という門数を割り切って大口径を追求した飽くなき巨砲主義と大火力を自由自在に機動させうる最大30 kt 超の駿足があらゆる海況で作戦行動可能な優秀な船体と相まって、遠洋作戦の尖兵としてこれ以上ない逸材……まさにフィッシャー男爵最後の落し子にて、第2艦隊至高の姫騎士。」


「そ……そうか」

 どこか恍惚な声音で早口にそう語った『彼女』に彼は若干引き気味に相槌を打つしかなかった。なんなんだこいつ。そこらの理解ある一般人じゃない……明らかに趣味者。それも重度の。その可愛らしい容姿からは想像すらできないような内面を秘めているらしい。もっとも驚きはしたが、嫌悪感はなかった。さすがに『彼女』程ではないが、昔はフネに心ときめかしていたな……。

 ここで彼はふと気付いた。『彼女』の背後に広がる錦江湾に、遙か昔の少年時代に見た海をもう一度見たことを。刻々と色合いを変えていく夜明けの海に佇むフネは、くたびれた巡洋艦ではなかった。美しい鋼に御国の守りを一身に託された憧憬の艨艟だった。思い出した。私は『彼女』のようにフネがたまらなく好きなのだ。彼はそうだからこそ言葉を続けた。彼は夢見る軍艦少女と他愛もない話をしたくなった。


「至高ですか……。46サンチといえども2門では少なすぎるのでは?」

 彼は一般的というよりも海軍内部での「松島」に対する評価を口にした。先の大戦の頃とは話が違う。当たらない大砲なぞいっそのこと取り外してしまえ。そんな話も聞こえてくるフネだ。確かに航本を中心に空母の「素材」として高く評価する向きもあるが、水上戦闘艦としての彼女の価値はやはり大正生まれの軽巡並みであった。

「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る。」

 今は亡き長老の精神論を口にした『彼女』に彼は物憂げな表情で返したが、それに満足したのか「冗談ですよ」と『彼女』は悪戯な笑みを浮かべた。

「真面目な話、戦車の主砲は砲1門ですよ。」

「いや、だからそれは……」

 真面目な話と言いつつ現実にそぐわない無茶を言う『彼女』に彼は眉をひそめた。

「環境が違いすぎると仰っしゃりたいのですよね?」

 彼の思考を見透かしたのか『彼女』は間髪入れず答えた。戦車がたった1門の砲でその任を果たすことができるのは、陸の上という言を俟たない前提があるからだ。様々な地形と遮蔽物に彩られた陸地で直接照準が許される範囲はそう遠くない。また砲が身を委ねる地面が揺れ動いたりしないことは非常に魅力的だ。

 対して海の上ではそうもいかない。遮蔽物は水平線だけであり、昭和二桁代の今となっては 主力艦級なら優に20,000mを超える大距離で殴り合うが、もはや光学機器が正確に測距できる範囲を超えていた。また砲が身を置く船体は大型化が進んだとはいえ、大洋という雄大なる大自然の中では不規則に上下左右に絶えず揺れ動く不安定で厄介な台座であることに変わりない。

「そうだね。君ならわかっているかもしれないが……。」

彼はそう前置きしながら『彼女』に語りかけた。

「海の大砲は同一諸元で複数弾を射撃して散布界を形成させ、確率論として命中弾の発生を期待する公算射法が取ることが普通なんだ。このやり方で命中弾を出すには、散布界を構成する弾の密度をある程度高めないといけない。だから一隻あたり複数門を積む必要が出てくる。」

 つい専門用語を口走ってしまった彼は『彼女』を置いてけぼりにしていないか心配になったが、『彼女』はうんうんと楽しげに頷いていた。彼は『彼女』の博識ぶりに若干の畏怖を感じたが、乗りかかった船であり気にせず続けた。

「明治27年の黄海海戦での初弾射撃は概ね3000m。日本海海戦で7000m。ジュットランド沖海戦で16,000m。第二次蔚山沖海戦で29,000m。砲性能と射法の進化で交戦距離は伸びる一方だ。確かに射撃指揮装置は年々進歩している。だが、空前の大口径46サンチといえども、たった2門では大距離で有効打を期待できる散布界密度は確保できないんだ。」

 さすがに「初弾観測急斉射での試射を考慮して、少なくとも6門は欲しい。」とは軍機に触れるため口が裂けても言えなかったが、彼の言葉は事実だった。話の種である「松島」が生まれたのは1916年。当時の帝国海軍は「金剛」型の14インチ砲で20,000m超の射撃にようやく挑戦し始めた頃だ。20年後の1936年現在、未だ現役の「金剛」姉妹が30,000m前後の射距離で演習とはいえ10~15%の命中率を叩き出していることを考えると隔世の感を禁じ得ない。なお彼の脳裏に最低限の門数が6門と浮かび上がったのは、帝国海軍が捕捉濶度――連続した2斉射で目標を捕捉した2つの照尺の中間照尺が相当な夾叉公算を得られるような照尺差――の最大値を5門艦以上で夾叉公算50%以上としていたからであり、それ以下の門数艦では夾叉公算の要求がさらに上がるからであった。5門未満での初弾観測急斉射は、標準的な照尺差である500mないし600mの修正では過大となり、恐らく初弾観測二段打方あるいは同三段打方を余儀なくされるだろう。それらを回避できる6門が現実的な最低限のラインではないか……と彼が彼なりに推測しただけとは付記しておきたい。(西戸崎は大砲屋ではなかったので詳しい理論は専門外だった)


「なるほど……確かに。戦艦や装甲巡が戦う間合いは、大正年間と今では大きく違いますね。勉強になります。」

 『彼女』はあたかも納得したかのような口振りで相槌を打った。しかしその口元に浮かぶニンマリとした笑みは隠せていなかった。

「でも、それって軽巡もそうなんですか?」

「……先の大戦中、長良型の14サンチは約10,000mで打方初めだったと聞く。最新の最上型の8インチだと、もっと長いはず。」

 さすがに突っ込んだ話になると口にできないことも増えるな……。彼は自分を諌めるように気を引き締めた。言うまでもなく彼は「最上」型が概ね距離20,000m強での砲戦開始を目安にしていることを知っていたが、口にしなかった。軍機だった。なお「最上型」ではそれ以上の距離――概ね25,000m近くへの射撃も可能だったが、航空機による観測が必要不可欠だった。

「試すようなこと言ってごめんなさい。色々教えて貰いましたけど、僕はまだ、あの娘が持つ18インチの神通力は健在だと思っています。だって彼女、軽巡ですよ。」

 ――それは新世代装甲巡のロールアウトで艦隊前衛から追い出された結末に過ぎないのではないでしょうか。『彼女』の言葉にそんな言葉が浮かびあがったが、利口な彼はそれを飲み込んで『彼女』にもっと詳しく教えて欲しいと頼んだ。

「軽巡の間合い……だいたい距離20,000m以下なら18インチ砲弾の弾道は低いものになるでしょう。それこそ戦車砲のような。」

 ようやく『彼女』が戦車を引き合いに出したことに合点がいった。「松島」の前部に集中配置されたMark I 40口径18インチ砲 改め 五年式 46センチ砲の最大射程は37,000mにも及ぶ。そんなビックガンにとって20,000m以下の射距離なぞ造作もない間合いに過ぎない。首を縦に振る彼を見た『彼女』は続けた。

「仰る通りたった2門では長距離の砲戦は無理でしょう。でも、もしも、あまり公算射撃に頼らない……ダロ勘で当たる間合いで戦うなら? 」

 ダロ勘で当たるような距離で18インチ砲弾を撃ち込むのか……。えぇ……。貴女は25,000t級の巨艦で水雷突撃の先鋒でもやるつもりなのでしょうか。軽巡の役割は多岐に渡るとはいえ、結構な無茶苦茶をご所望される『彼女』の真面目な瞳に、彼は破顔しながら冗談交じりのレビューを口にするしかなかった。

「無敵の軽巡のお出ましですな。文字通り超軽巡だ。」

「普通の軽巡以下を撫で斬りにして、格上の戦艦には高速を利して逃げ切れる。もし逃げ切れない高速戦艦が相手でも懐に飛び込めば、道連れにできる。あの娘はそんなアグレッシブな狂戦士なんです。」

 声を上げて零れるような笑みを浮かべる『彼女』に彼もつられて笑う。どこからか漂う甘い花の香りを纏いながら、「道連れ」という不穏な言葉を躊躇なく発する『彼女』のアンバランスさに彼は笑うしかなかった。


「さりとて、そんなうまくいきますかな。」

 彼は反撃の口火を切った。『彼女』が言う通りなら、今ごろ七つの海は「超軽巡」なるフザけた軍艦で溢れているはずだが、その同類は両手の指で数えられる程度だ。つまり致命的なジレンマを孕んでいる。彼は続けた。

「装甲巡が本命に突っ込むのを是が非でも阻止してくるのでは?」

 弩級戦艦と遜色ない装備を携えながら30kt近くの高速を持つ現代の装甲巡は、無敵軽巡の宿敵に違いなかった。戦艦顔負けの距離30,000m近くでも十分に戦える装甲巡は帝国海軍でも1936年現在で総勢12隻。英米を始めとした列強海軍もそれなりの数を束ねている。そんな相手を躱して突き進むのは、はっきり言って不可能だ。ただでさえ超軽巡は目立つのだ。

「ん~……。それはそれでいいのではないでしょうか。」

「それは一体どういう……」

 信じられないことに突破断念やむなしと口にする『彼女』に彼は食いかかった。『彼女』は微笑みながら言った。

「戦艦も出てきて、装甲巡もいる。それって決戦ですよね。」

 彼は頷いた。軽巡や駆逐艦同士の小競り合いに終わらず、相対する両軍が主力艦を繰り出したということは、互いに覚悟を決めたこと他ならない。

「帝国海軍はこれまで戦争の趨勢を左右する決戦を何度も経験してきました。それは相手が決戦を望み、あるいは望まなくとも強要できたから他なりません。」

 『彼女』の言葉は正鵠を射ていた。世界半周航海という難事業の果てにウラジオストクへ向かうロシア艦隊の進路に立ちふさがり、決戦を強要したからこそ帝国海軍は1905年の対馬沖で栄光を手にすることができた。散り散りになりながら旅順脱出を断念して引き返したロシア艦隊を撃滅できなかった1904年の黄海とは対照的だ。

『彼女』は言葉を続けた。

「海戦って恋なんです。お互いに恋い焦がれて、両想いになって初めて決戦ができるのです。両想いなんて素敵ですけど、でも片思いなときもある。そんなとき、気になる貴方を振り向かせるとびっきりのアピールが必要なんです。」

 少し恥ずかしそうに恋を語る『彼女』の照れた仕草に彼の鼓動は予期せず昂ぶる。どこからともなく甘い花の香りが彼の鼻腔をくすぐった気がしたが、彼は分別のある海軍軍人としての理性を全力で投入して、不埒な考えを頭から振り払った。そうでもしなければ、彼は『彼女』が言うところの恋を知ることができそうになかった。

「海戦が色恋沙汰とは初めて知りましたが……。」

 彼はわざとらしく肩をすくめてそう言ったが、次の言葉を紡ぐには真剣にならざるを得なかった。それは帝国海軍の至上命題たる艦隊決戦という結論に帰結しながら、日本海軍グリーンウォーターネイビーにはないブルーウォーターの香りがあった。

「あらゆる場所に姿を見せる行動力と、つい気を取られてしまう大火力。……いや、本当に気を引くのは一見大人しげに見える後甲板の大きな機雷庫の方か。それでいて声をかけようにも、その足取りは並みの巡洋艦のように軽やかで、自慢の18インチは戯れに腰に回そうとする手を安々と払いのける。」

 彼は錦江湾に浮かぶ英国娘の血筋を記憶の隅から呼び起こした。先ほど『彼女』が言ったように「松島」は高速戦艦の始祖として名高い「クイーンエリザベス級」戦艦の血統ではなく、巡洋戦艦の始祖たる「インヴィンシブル級」の遺伝子を色濃く受け継いだフネであった。その本質は「巡洋艦殺し」。自らより一回りは小さい格下を確実に始末するため戦艦に匹敵する火力を携え、獲物同様の機動性を手に入れた。この一連の思想に連なるフネ――battlecruiser の 訳を「巡洋戦艦」としたわけだが、直訳した「戦闘巡洋艦」がより適切に性質を表しているだろう。つまるところ、戦艦すら身構える太刀を手にした巡洋艦でしかないのだ。人類が風の力で海を旅していた遥か昔から隣り合う違う道を歩んでいた巡航艦と戦闘艦の差は、収斂しつつあったがまだ完全に交わってはいない。

 それを知っていたからこそ、彼は挑発的な言葉を口にできた。自然と口元が緩む。

「でも本気になれば、いくらでも口説き落とせる。」

「はい。いくら気難しいイギリス娘でも真剣アプローチにはイチコロです。」

 まだ眠っているだろう英国娘の攻略難易度で意見が一致した二人は暖かな霧の中ですっかり打ち解けた笑みを浮かべた。

 実際のところ、二人が至った結論は極めて正解に近かった。18インチ砲の超絶な大火力と30 kt超の軽やかな足取り、長大な航続距離がもたらす神出鬼没さと厄介さに輪をかける機雷敷設能力。それらを合わせたとしても結局のところ「松島」は1隻の巡洋艦でしかなかった。机上の理論に過ぎないが、「松島」を始末するには2隻の一般的な12インチ砲級の装甲巡をあてれば事が済む。言うまでもなく、高速戦艦High Value Unitを引っ張り出せるなら尚更だ。「松島」は日本最強の巡洋艦の1隻だ。そうだったが、所詮それまでだった。それでよかった。いや、そうでなければならなかった。想いの人を真剣にさせさえすればいい。艦隊決戦は両想いでなければいけないのだから。

 暁の水平線に勝利を刻むとき、例え1隻の巡洋艦が水面の下に消えていたとしてもそれは些事でしかない。


「実際のところ、超軽巡はマーキュリーに取り憑かれた海軍卿が非常事態を糧に産み落とした狂乱のコンセプト以外の何者でもないです。」

 『彼女』はこれまでの自らを嘲笑うように肩をすぼめた。『彼女』は続ける。

「ここ15年で戦艦から駆逐艦まで、あらゆる艦種が大型化しました。もし超軽巡が独立した艦種としてこの世界で生き残るには、頭のネジが外れた比類なき者を造り続ける必要があるでしょうね。それこそ40ノット級を発揮する20インチ砲艦のような化物で、攻撃偏重なピーキーな代物を。」

 軍艦は幾ら肥大化したところで陸上に依存する「船」という性質に代わりはない。例え用兵者がどんなに偉大な軍艦を望んだとしても、船を受け入れるドックの大きさや港湾には制限がつきまとう。巨艦を生み出す国家はそれを受け入れるインフラから整備する必要があった。そしてそんな大金を安々と、存在そのものが狂気でしかない超軽巡に注ぎ込む国家は存在しない。軍備は趣味ではないのだから。

 ――そういうアタマの悪いフネ好きなんですけどね。『彼女』は最後に本音を付け加えることも忘れない。

「常識的外れな超軽巡1杯より常識的な装甲巡を2杯。どちらが賢い買い物か言うまでもない。超軽巡はあまりにも非効率な兵器でしかなかったというわけか。まったく排水量も歳もそう変わらない金剛型とこうも差が出るとはね。」

「それは金剛姉妹の筋がいいだけですよ。でも……」

 出来の良すぎる先輩と性格に難がある後輩を比べた彼のコメントをたしなめながら『彼女』は決意を瞳にたぎらせた。

「超軽巡コンセプトは失敗だった? デカイだけの5,500トン級軽巡? そんなことは、どうでもいい。松島はまだ戦える。彼女の夏は終わってなんかいない。この戦争で証明してみせる。」


 小悪魔的な微笑みを口元に湛えながら『彼女』はそう言ったが、

「戦争ではないですが……まぁ戦争のようなものですものね……。」

戦争という単語に敏感だった生真面目な彼はほんの少し困ったように返した。


 1933年の12月も終わろうとしていた頃、バイヨンヌのとある信用金庫の倒産から始まったフランス政界を揺るがすスキャンダル――スタヴィスキー事件を発端に右に左にフランス共和国は大迷走を始めていた。そして総選挙を控えた1936年2月13日。次期首相候補だった社会党党首レオン・ブルムがアクション・フランセーズなる王党派団体の実働部隊カムロ・デュ・ロアによって暗殺されるというセンセーショナルな事件は、協力関係であったはずの社会党と共産党のパワーバランスにも影響を及ぼし、劇的な結末をもたらしていた。1936年5月3日、結成されたフランス人民戦線内閣の首相はモーリス・ソレス――フランス共産党書記長だった。史上初の革命によらない実質的な共産政権の誕生である。

 ほどなくして他の列強諸国が恐れていた事態が起こった。人民戦線内閣が成立してから1ヶ月も経たない6月1日。カムラン湾に現れたのはウラジオストクからひたすら南進を続けていた赤星を掲げるソ連戦艦だった。当のモスクワは、1935101の影響を受け、全面攻勢に打って出たインドシナ共産党と平和を愛する同志フランスの和解のためとプロパガンダを流していたが、そんなことはどうでもよかった。少なくとも仏ソはいつの間にか蜜月となり、自由を愛していたはずのフランスは自らの意思で「赤堕ち」したのだ。

 共産主義。理由はそれだけで十分だった。既にを赤化から守るため日本は今さら赤旗に弓引くことを恐れない。

 ソ連太平洋艦隊唯一の戦艦「リガ」がカムラン湾に初寄港した1ヶ月と2週間後の1936年7月14日。日本海軍は「自由で開かれた海洋の維持」という大義を唱え、新南群島――当時でいうスプラトリー諸島なるバリア省の一部としてフランスが数年前から領有を主張していた群島に上陸を敢行し、艦隊の火力に物を言わせて瞬く間に珊瑚礁が隆起した小島と環礁を手中に収めていた。

 ――これは戦争ではない。あらゆる諸国の船舶に自由で開かれた海洋の通行という必要不可欠な権利を保障するための積極的な平和の執行である……とは時の海軍大臣

永野海軍大将の言葉である。


「ガードが硬いというよりは、引きこもりが好きと言いますか。単に外海を怖がっている臆病者と言いますか。これではまやかしの戦いですよ。」

 彼はこの戦いの国際法的定義はひとまず棚上げして、期せず話題に上がった喫緊でしかも彼の安眠を妨げた課題を口にした。彼の声音から怨嗟の色が聞こえたらしく『彼女』は笑いながら慰めた。

「あれだけ派手にやったら、仕方ないですよ。」


 確かに派手な平和の執行だった。新南群島上陸戦と命名された一連の島嶼攻略戦のハイライトは連合艦隊から支那方面艦隊に預けられた第3戦隊の4隻――巡洋戦艦「天城」・「赤城」・「葛城」・「笠置」とフランス軍浮き砲台の砲戦だった。浮き砲台といってもベトンで塗り固められた粗雑なポンツーンではなかった。彼女の真名は戦艦「パトリー」。「レピュブリク級」2番艦として「祖国」と名付けられた南仏ラ・セーヌ=シュル=メール出身の前弩級戦艦プレ・ドレッドノートだ。

 彼女の経歴は次の通りだ。激動の1910年代を地中海艦隊主力として駆け抜け、齢14にて練習艦に転向。晩年はサン=マンドリエ=シュル=メールの入江で浮き校舎として不動のまま砲術訓練に明け暮れる日々が長らく続いていたが、極東の雲行きが怪しさを増す1935年の暮れにフランス海軍は戦船として彼女に眠りから覚めることを求めた。1936年、生家ラ・セーヌ=シュル=メール造船所にて簡単な整備を終えた彼女は「イツアバ島浮き砲台」という味気ない改名を余儀なくされながらも、慣れ親しんだ地中海の後に一路極東へ出港。インド洋を超え、暖かな南シナ海の浅瀬に腰を落ち着けた。彼女の使命は民兵とも海賊とも化した武装中華赤色漁民の上陸阻止であり、にわかに積極的な行動を取り始めた日本海軍に対する示威だった。

 イツアバ島沖の浅瀬に投錨した齢29にもなる彼女は盛りが完全に過ぎ去った過去の遺物だったが、そうであっても戦艦という眷属に属することに違いはなかった。40口径30.5 cm砲4門と45口径16.4 cm砲18門という携えた武装は旧式とはいえども沿岸要塞としては一級品の火力であり、鉄条網のように防雷網を多重に張り巡らせた彼女に水雷兵器は役に立たない。例え老婆の最後のご奉公だったとしても、未だ彼女は間違いなく軽巡以下の艦艇なら相手にならない実力を有していた。

 とはいえ結論から言えば、彼女は7月14日の朝日差し込む洋上にて叩き潰された。何もできなかった。薄明と共に現れたのは16インチ砲を振りかざす超弩級艦スーパー・ドレッドノート「天城型」四姉妹。もはや鎧袖一触。不動の老齢戦艦プレ・ドレッドノートがひしゃげた鉄屑となるまで大した時間はかからなかった。なお、フランス守備隊は浮き砲台の破滅と共に白旗を上げ、あっさりと岩礁を引き渡した。

 あれから1ヶ月と少々。台湾近海やマレー半島沖は言うまでもなく南シナ海全域からフランス旗船は姿を消し、彼らの海上交通路は息絶えた。おまけに、イギリス人は嬉々として「いくら着飾ったところで、は淡水でしか生きていけない」と紙面に書き連ねた。だが、カムラン湾という安寧の住処からフランス人と居候のロシア人の主力艦は動こうとしなかった。


「打って出る気概があるのなら、今ごろフランス人は七つの海の覇者でしょうね。」

変わらず笑いながら『彼女』はそう続けた。「イギリス人ならやりかねませんけど」とも付け加える。

 きっと『彼女』はフランス人が帆走時代の戦いで風下に陣取ることを好んでいた――逃げやすいから――という歴史を知っているのだろう。(イギリス人は戦闘の主導権を握るため風上占位を好んだ)そんなことを思いながら、彼は相変わらず陰った表情で話した。

「……ともかく、このままではジリ貧だ。主力艦を海上封鎖に貼り付け続けることは困難というより不可能に近い。しばらくは安泰かもしれないが、いずれは綻びが生まれる。その結末に、痛みに、国民は耐えきれまい……。」

 パーフェクトゲーム。そんな戦争なんて絵空事だ。その戦いが例え歴史上に勝利と刻まれていたとしても、戦場の命は責任の大小はあれ平等に間違えを犯し、その償いに血を流してきた。瞳の色が違えども、運命の羅針盤はくるくると気まぐれな妖精が回すことに変わりない。だが、時として銃後の者たちはそれを許さない。今や軍歌に謳われる日露戦争の英雄、上村提督はウラジオストク艦隊の通商破壊阻止を失敗したとき「露探提督」と国中から誹謗中傷され、自宅に石はおろか短刀すら投げ込まれた有様だったではないか。

 もし警戒線を突破した仏ソ装甲巡洋艦が万が一日本船を沈めたら、国民はいったい何を思うのだろうか。我が国はたった4ヶ月ほど前――2月26日にクーデター未遂を経験したばかりだ。蜂起を察知した海軍内偵機関が皇軍相撃やむなしを覚悟して賊軍を粉砕し事なきを得たが、彼らが言う「昭和維新」や「従米打破」に親近感を感じる国民は決して少なくない。今から32年前に総計1091名と共に沈没した「常陸丸」のような悲劇が訪れたとき、果たして我が国は現政体を維持できるのだろうか。

「どうにかしなければ……」

 悲痛な声音を漏らした彼は浴場に吹き込んだ冷たい朝風で我に返った。いったい、私は何をしているのだ。こんな弱音を子供の前で口にするなんてどうかしていた。『彼女』がいかに聡明であったとしても、それをまかり通すわけにはいかない。彼はのぼせた頭を軽く振って、次に発すべき言葉を脳裏に浮かべた。――妙な事を言って申し訳ない。必ずや帝国海軍はこの難局を切り抜け、赤色艦隊を撃滅する。

 しかしながら彼は何も発することはできなかった。徐々に勢いを増していた海風が吹き込む度に浴場の霧は薄れていき、日の出が間近に迫った空の明るさは今まで見えなかったはずの事実を照らし出す。


「ならば果たして見せましょう。」

 そう言いながら、その『美しきもの』は湯船の中でお淑やかに立ち上がった。白い光に照らされながら水滴が滴り落ちていく膨らみのない流線形の体は、どこか気持ちの程度だが女性としては肩幅が広く、何となく筋肉質な印象だった。しかしながら、そんなことは枝葉末節の事象だった。今まで湯霧と溶けた酸化鉄で濁った天然温泉が隠していた『それ』の下半身は男性のそのものだった。相変わらず、薔薇の花びらに似たフローラルな甘い香りは微かに漂っていたが。

「お…男っ?」

 狼狽を隠せない彼から漏れ出た呟きに『それ』はしてやったりと笑顔を浮かべた。浴場には力強い朝日の光線が差し込み始め、人の想像力を無暗に働かせる闇は早々に駆逐された。湯霧の魔力も朝風の前に文字通りどこか遠くへ吹き飛ばされていた。 

 未だ呆気に取られる彼―—当時の南遣艦隊 兵站幕僚 西戸崎さいとざき 征治まさはる 海軍大尉の前で青き薔薇はついにその輪郭を露にした。不可能の代名詞だったそれは、確かに朝日の中で燦々と輝いていた。

「フランス人に教えて差し上げましょう。極東Far Eastに安息の港など存在しないことを。」

 美しき流線形のその人―—巡洋艦「松島」艦長 貴船きふね 廉太郎れんたろう 海軍大佐は不敵な笑みを浮かべ高らかにそう謳った。


 昭和11年、葉月の終わり頃。20世紀最大のオフショア・ファンタジーはこうして始まったのだった。

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茜さす水面に乙女は祈る 寄船みさき @Misaki_yorifune

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