最終話【空虚な妄想】

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。坊っちゃんだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、坊ちゃんはついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に齧りついた。群衆はどよめいた。あっぱれ、ゆるせ、と口々にわめいた。かくしてその男の縄はほどかれたのである。


 いつの間にかシコクへと身を置き奇怪な光景を見て、直感にささやかれるまま彼の地を後にしたはずである。なぜか坊ちゃんはこの間王城を離れていたらしかった。記憶の中を旅しているつもりが、いつの間にか身体そのものを彼の地へと出立させていたとしか言いようがない。

 今の坊ちゃんは確信していた。シコクから神戸へ、神戸から新橋へ。そうして東京に戻ったはずであった。しかしここは神戸でも新橋でもなく王城であった。


「清」、坊っちゃんは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」


 はて? 己の口から飛び出したことばが何を意味するかまったく解らない坊ちゃんである。

 〝清〟とはそもそも誰か? 〝山嵐〟同様俺の供回りの者だろうか? そんなことをとめどなく考えているうちにいつの間にか清はすべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く坊っちゃんの右頬を殴った。その瞬間坊ちゃんは横転しその思考は否応なく中断を余儀なくされた。清は殴ってから優しく微笑み、

「坊っちゃん、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 坊っちゃんは痛かった。だから腕に唸りをつけて清の頬を殴った。再び刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く。

「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。坊ちゃんにはなぜこうまで泣けるのかまったく理由が解らない。己が解らない。


 ただなんとなく、坊ちゃんがシコクへ逃走を試みている間に代わりに清が囚われの身になったようだと、そう辻褄を合わせるほかないようだった。そういえば、と坊ちゃんは思い出す。山嵐もまたシコクからの脱出劇を共にした者だったと。

 供回りの者達よ。坊ちゃんは感涙にむせんだ。

 群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。暴君赤シャツは、群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめてこう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」どっと群衆の間に、歓声が起った。


 坊ちゃん。彼は四国にいるでもなく神戸にいるでもなく新橋にいるでもなく未だ王城の中にいる。この喧噪のさ中坊ちゃんはもはやどこが現実でも構わぬと、そこまで————



 この時、取り上げられていたかの買い物袋の中から、坊ちゃんの買っていた檸檬が消えていたことは誰も知らない。


                                 (了)

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タイトル【キメラ】 齋藤 龍彦 @TTT-SSS

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