伊藤博文の幕僚たち

井上みなと

第1話 井上毅と大日本帝国憲法と岩倉具視

 明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布される。

 これはその2年前のお話。


 高輪の伊藤博文邸で憲法作成会議をしていると、伊藤に会いたい客が来て、いちいち議論が途切れる。


 それを避けるため、伊藤、井上毅いのうえこわし伊東巳代治いとうみよじ金子堅太郎かねこけんたろうの四人は横須賀金沢に移動して、憲法作成に臨むことにした。


 こわしも金沢に赴くため、鞄に着替えや本などを詰めて準備することになった。

 その準備の中で、毅は一冊の本を手にした。


 岩倉具視いわくらともみと共に作った『大綱領だいこうりょう』の草案である。


 『岩倉具視憲法意見書』とも呼ばれるこの憲法案は、明治十四年の政変(https://kakuyomu.jp/works/1177354054893696373/episodes/1177354054893703920)の際に、岩倉が毅に作らせたものだ。


 大日本帝国憲法は、この岩倉の『大綱領』が基本となる。


 明治十四年の政変の際、毅が起草し、岩倉がそれを三条実美さんじょうさねとみ有栖川宮ありすがわのみやに上奏し、天皇陛下にも上奏され、これが国家の方針となった。


 毅が起草きそうしているものの、『大綱領』の精神は岩倉にある。

 岩倉の意志に添う法案を書けるのが毅だったということだ。


 毅と岩倉の間には、伊藤博文と伊東巳代治のように私的な感情を含めた愛憎入り混じる感情はない。

 また、毅の親友である尾崎三良おざきさぶろうと三条実美のように旧恩きゅうおん深くというわけでもない。


 岩倉具視という人間にとって、毅は自分の考えをうまく表せる能吏のうりでしかなかったなかったかもしれない。


 それでも毅は構わなかった。

 

 上司に愛情を求める人間ではないし、能力を買ってくれたならば、それ以上にない評価である。


 ただ、多少の思いはあった。


 その思いは感謝である。

 

 毅は薩長藩閥さっちょうはんばつの人間ではなく、肥後熊本の人間だ。


 能力がどれほど高かろうと、それを評価してくれる権力側の人間がいなければ、その高い才能は発揮できない。


 その点で岩倉はもっとも毅を高いところに引っ張り上げてくれた人なのだ。


 岩倉が毅の能力を認め、その才能を買い、起草を任せてくれたことで、毅は明治国家の基盤となる憲法を作る立場になることが出来た。


 感謝はあまりあるほどである。


 岩倉と共に作った『大綱領』を毅は見つめた。


 世間の人々は、これから憲法が作られると思っているだろう。

 

 だが、毅にとって憲法はある意味完成している。


 岩倉の『大綱領』こそが毅の思う明治憲法なのだ。


 大日本帝国憲法と皇室典範こうしつてんぱんの起草は、主に毅が担うことになるのだが、毅はこの岩倉の案を基本に守る立場にもあった。


 天皇陛下は伊藤博文に、この岩倉の『大綱領』に従って憲法を起草するように命じている。


 だが、伊藤はやはり自分が作る以上、自分の色を入れてくるだろう。

 

 伊藤自身は忙しく、すべてを網羅もうらできないので、きっと腹心である巳代治によく言い含め、金沢で伊藤不在の時は巳代治がその役を担って、毅を削りに来るだろう。


 毅は少しずるいなと苦笑いした。


 岩倉が生きていれば、毅は『大綱領』を守らなければいけない立場にはない。


 文章だけ書いて、後の管理は岩倉に任せればいい。


 だが、岩倉亡き今、毅には岩倉の『大綱領』を遵守し、岩倉の遺志を実現する責任がある。


 法案起草者にとって、最初に作られたものを守り通すということほど骨の折れることはない。


 その対立する相手が、現在の主である伊藤や仲間であるはずの巳代治や金子堅太郎となれば尚更なおさらである。


 それでも、毅は岩倉の遺志を守るため、仲間とも戦わなければならない。


 世間ではきっと「伊藤博文が大日本帝国憲法を作った」と残すだろう。


 だが、それは違うのだ。


 岩倉こそが大日本帝国憲法の骨子とその精神基礎を作った人間である。

 

 いつか落ち着いたらそれを書き残そうと決め、毅は『大綱領』を鞄にしまった。


 まずは、毅は岩倉の遺志を大日本帝国憲法に反映させるという一世一代の大仕事があるのだ。


「……行きましょうか、岩倉卿」


 柄にもないと思いながら『大綱領』に話しかけ、毅は鞄の蓋をした。


 大日本帝国憲法が金科玉条の憲法として残り続ける限り、岩倉の意志は死ぬことはない。

 

 肺の病気が進んでいるが、岩倉の遺志を守るためにも、毅は大日本帝国憲法の起草を己の手でやり遂げるという固い決意を抱いていた。

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