第4話 児玉源太郎の時計と伊東巳代治の天眼鏡

 あれは明治37年、日露戦争の少し前のことです。


 当時、陸軍参謀本部の構内に『メッケル官舎』という粗末な木造の建物がありました。

 これはドイツのメッケルがお雇い武官の頃に住んでいた場所で、児玉源太郎こだまげんたろう大将は自宅ではなく、このメッケル官舎で寝起きをしていらっしゃいました。

 児玉大将は台湾総督のまま内務大臣をされていたのですが、明治36年に対露作戦を計画していた田村怡与造たむらいよぞう陸軍参謀本部次長が急死したため、内務大臣を辞めて参謀本部次長に就任し、メッケル官舎で対露戦の計画を練っていらしたのです。


 私は……ああ、私が誰かわかりませんね。これは失礼を。

 私の名前は龍居頼三たついらいぞう

 東京生まれの新聞記者で、第三次伊藤内閣では農商務大臣になった伊東巳代治いとうみよじ氏の秘書官をしていました。


 伊東さんは後の満州鉄道総裁・後藤新平さんとは若い頃からの親友でして、その縁で私も前から児玉大将とは知り合いではあったのですが、毎日のようにお目にかかる機会を得たのは、この日露戦争の前あたりからでした。


 児玉大将はいたずらがお好きな方でしてね。

 メッケル官舎で寝起きしていた時、毎朝、永田町付近を散歩していらしたのですが、その毎朝、伊東さんの家にいたずらをしかけていました。


 伊東さんの家は永田町一丁目にありまして、百坪ほどの土地の中に翠雨荘という別棟を設けて、そこにご家族とは別に伊東さんだけが寝起きしていました。


 児玉大将はその門をトントントンと早朝から叩きます。

 伊東さんは『宵っ張りの朝寝坊』の人でしたから、寝ぼけ眼で誰か来たのかと門を開けるわけです。


 でも、誰もいない。


 他の日には小石をポンと伊東さんの部屋の窓に投げる。

 不思議に思った伊東さんが顔を出すけど、やはり誰もいない。


 児玉大将は寝ぼけながらキョロキョロする伊東さんの様子を、クスクスと面白がっていました。


 そんなある日、伊東さんが私の元にある物を持ってきました。


「児玉がこのようなものを贈って寄越したのだがなんだろう?」


 見るとそれは安物の目覚まし時計でした。


 伊東さんは権謀術数に長けた才子と言われる人でしたが、意味を解せなかったようです。

 児玉大将は伊東さんの朝寝坊をからかっているのですが、そうとも言えず、私は真面目ぶった顔を作って答えました。


「それはきっと早起きを促すためでしょう」


 私が説明すると伊東さんは納得し、こう相談してきました。


「何か返礼をしたいが、何がいいだろう?」


 その時分、児玉大将は地図を見るのに疵見の眼鏡を使っていらっしゃいました。

 疵見の眼鏡とは小さいものを拡大するのに使うものです。


「眼鏡をお贈りになってはいかがですか?」

「そうか。では買いに行ってくる」


 伊東さんは素直に頷いて、銀座に向かわれました。


 その翌日。

 児玉大将は私を捕まえて言われました。


「我輩が疵見眼鏡を用いていることを君が喋ったな」


 普段、人前で地図を見ることはそうないので、児玉大将の傍にいない人は、大将が地図を見るのに眼鏡が必要だとは知らなかったことでしょう。

 ただ、私だけとは限らない話ですので、児玉大将にお聞きしてみました。


「なぜ私だと?」

「これだ」


 児玉大将が見せて下さったのは、一級品の天眼鏡でした。


「伊東がこれを送ってきた。何だと思う?」

「先日、児玉閣下が目覚まし時計を贈られたので、その返礼は何がいいかと相談されました」

「あの安物の目覚まし時計がこんな一級品の天眼鏡になったのか。伊東の返礼は心憎いではないか」


 児玉大将は呵呵と大笑されていました。


 伊東さんは計算高い人と見られることがありましたが、意外に皮肉な贈り物を皮肉と気づかず、素直に受け取る面もありました。


 また、児玉大将はそんな伊東さんの面を微笑ましく思ったようです。

 児玉大将は軍務に寸暇なき身でありましたが、こんなお話もあったのです。

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