第6話 伊東巳代治の奥様とお妾さん
お千代さんという貞淑で温厚な日本橋の元芸者さんである。
妾といっても日陰の身ではなく、巳代治の家のそばに家が用意され、子供たちも正妻である阿八重さんの子と同じく扱われた。
巳代治は阿八重との間に出来た子どもに、太郎、二郎、三郎と名前をつけていっているが、千代の子もその列に加わり、同じ名前のつけられ方をしているため、みんな五郎、六郎という形で名前が付いている。
ある日、伊東巳代治の家で伊藤博文と
巳代治が厠に行くために席に立つと、伊藤が千代に話しかけた。
「お前も巳代治の子をたくさん産んだが、どうだ。奥様に出ていってもらって、その後に入るというのは」
それまで温厚な微笑みを浮かべていた千代の顔色がさっと変わった。
伊藤は戯れであったが、千代に正妻である阿八重を追い出して、自分がその後釜に座れと勧めたのだ。
千代は居住まいを正し、真剣な声で返した。
「奥様が神戸へお帰り遊ばすなら、私は御伴いたします」
阿八重は神戸にあるお寺の生まれで、実家に帰るとなると、神戸に戻るということになる。
千代は阿八重が家を出た後、自分が巳代治の正妻になるのではなく、阿八重のほうに付いていくと断言したのだ。
巳代治と千代の付き合いは長い。
明治十五年の憲法調査の時には、伊藤が巳代治が千代の写真を持っていて眺めているのをからかったくらいである。
それでも、千代は阿八重についていくというのだ。
「いやぁ……」
何か返そうとした伊藤だったが、千代の厳然とした態度に、ちょっとしょげてしまった。
戯言のつもりだったのが、千代があまりに真摯に阿八重のことを思っているので、なんと言えばいいのかわからなくなってしまったのかもしれない。
そこに巳代治が厠から戻ってきた。
「どうかしましたか?」
ちょっとしおれ気味の伊藤を見て、巳代治が尋ねると、そばで聞いていた知泉が助け舟を出した。
「伊藤さんはお酒が足りないのではないですかね」
「ああ。違う種類も用意させましょうか。千代、頼む」
「はい」
温厚な微笑みを浮かべて、千代が席を立つ。
千代はその後、さらに何人か男の子を産んだものの、不幸にして三十代で出産中に亡くなってしまう。
巳代治はベルツ博士を呼ぶなど手を尽くしたが、千代と産まれるはずだった子ども共々亡くなってしまい、二人は手厚く家族として葬られたのだった。
これは朝比奈知泉の回想なので、巳代治自身は千代が伊藤たちにそう話したのを知らないかもしれない。
妻とお妾さんの関係もいろいろな形があったようだ。
伊藤博文の幕僚たち 井上みなと @inoueminato
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