新しい日 / Newdays

空舟千帆

新しい日

 家に帰って手を洗った。

 プラスチック容器の細いノズルから、ねっとりとした薬用石鹸が出てくる。塗り込むたびに鼻をつく臭いに半ば安心しながら、盛大に水を使って何度も手をこすり合わせる。

「無駄よ」

「なんだって?」

 両手を振って水を切りながら、いつのまにか後ろにいた妻を振り返る。

「無駄だ。って言ったのよ、そんなことをしたって。あの風船が通った後にはもう」

「見てたのか」

 とっさに出た言葉になんの感情も込められないまま、私は妻の貌を見つめなおす。


 四月も終わりに近づいているというのに、外は曇っていてやけに寒かった。どこへ行こうというのでもなく、私は近くの公園を歩いた。

 足元を見ながら歩を進めるうち、なぜだか妙な感じを覚えて顔を上げる。

 幼い男の子とその両親、室内犬を連れた中年の女性。気がつけば皆が空を見上げていた。

 空の灰色に紛れるようにして、数機の風船がすぎゆくのが見えた。

 卵を横に倒したようなフォルムに、彩度の低いぼんやりとした色。それが何がしかの動力によって、のろのろと空中を進んでいるのだった。

 風船を見送ってしばらくすると、空からは白い薄片が降り注いできた。遠目には季節外れの雪のようでいて、触れた手にはざらざらとした感触を残すそれに、私は漠然とした嫌悪感を覚えた。


「〈雪〉に触れたかどうかなんてことはちっとも重要じゃないのよ。とにかくあれが通り過ぎたあとでは、なにもかもがきっと変わってしまう」

 もうずいぶんと前から肌荒れが目立つようになった妻の貌は、それでもまだ若さと美しさを残していたが、見開かれた双眸は奇妙に虚ろだった。かつてそこに宿っていた豊かな光を、やがて訪れた時代が拭いさっていったことを私は知っていた。


「なにもかも違う新しい日。日々の暮らしを否応なしに塗り替えてしまう何か……」

 歪んだ喜びを含んだ声色で、妻はひと通りの発話を繰り返していたが、私はもう耳を傾けることをやめていた。もう一度洗面台に向きなおって、見た目にはきれいな手を幾度となく洗う。

 妻が言うことはおそらく間違ってはいない。無理矢理に生活へ押し入ってきた異物を、私たちは今度も受け入れるほかないはずで、けれど今はただ〈雪〉に触れたことが不快だった。

 音を立てて蛇口から水が流れ、石鹸の臭いが立ち込めるこのあいだだけは、自分だったものをかろうじて繋ぎ止めていられる。虚しい錯覚にすがるようにして、私は両の手をこすり合わせ続けた。


〈了〉


お題:薬用石鹸キレイキレイ・風船・降雪

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新しい日 / Newdays 空舟千帆 @hogehoho

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