矢切の渡し

山南こはる

第1話

 かつて、矢切の渡しという船があった。


 江戸川を渡る小さな船だ。東側は千葉県、西側は東京都葛飾区。寅さんで有名なあの葛飾区だ。昔、演歌でも歌われていた。


 そう、それは、とても昔のこと。


 ♢ ♢ ♢



 ユキトは変わった少年だ。

 いつもひとりで本を読んでいるか、でなければのこぎりで木をギコギコやって、何かを作っている。集落の中で、トシと同い年なのは彼だけだ。トシは必然的に、この変わりものの少年と、幼いころからの付き合いになっている。


「おい、ユキト!」


 トシは軒先から首を突っ込んで声をかけた。屋根にも壁にも穴が空いているのにもかかわらず、ユキトの家は薄暗い。


「なんだよ?」


 ユキトは基本、無愛想である。三和土たたきの上には本と、数字がびっしり書かれた紙が散らばっており、ちびたえんぴつが二本、転がっている。土間にはのこぎり、木の破片。中央に作りかけの工作。何を作っているのかはひと目で分かった。


 船だ。


「お前、また船なんか作ってるのか? バチ当たるぞ!」


 トシの祖母は集落でいちばんの年寄りで、世界崩落を体験した最後の世代のひとりでもある。


 その祖母が言っているのだ。船という乗り物は恐ろしいものだ、と。日本の崩落は『ごーかきゃくせん』なる船からはじまったのだ。だから船を作るのはバチあたりなのだ。


 でもユキトはそれを聞かない。


「それは船が悪いんじゃないんだ。船の上で、病気がはやったのが原因だ」

「またむずかしいこと言いやがって! ばあちゃんに言いつけるぞ!」


 トシは断じていじめっ子ではないし、ユキトはいじめられっ子ではない。この河川敷の集落の中で、十二歳の子どもは彼らふたりだけなのだ。

 トシは上がりかまちに座った。ユキトは顔を上げず、小さなえんぴつを右手に持つ。


「だいたいお前、なんで船なんか作ろうとしているんだ? 何するんだよ?」


 以前からの疑問だった。ユキトは船を作り、大人たちはそれを嫌がり、子どもたちは怖がっている。


「川を渡るんだ」


 ユキトの両親はいない。彼の面倒を見ていた叔父は去年、死んだ。だから彼はひとり暮らし。ひとりきりで、船を作っている。


「川って……、江戸川を?」


 トシは目を見開いた。声がのどに突っかかって、うまく出ない。ユキトの細い髪が、はらりと額にかかる。


「そうだよ、ほかにどこの川があるの?」

「ユキト、お前……。江戸川の向こうに、渡ろうっていうのか?」


 江戸川の向こう。


 そこが『東京』という地名であることを、トシはもちろん知っている。だがそこに何があるのかは知らない。


「うん、僕は東京に行きたい」


 世界崩落の前に、東京は封鎖された。橋は爆破され、往来はできなくなった。江戸川は最終防衛ラインなのだ。封鎖された東京からあふれる避難民を迎撃する、最後の防衛線なのだ。


「何しに行くつもりだよ?」

「ただ見たいだけだ。……もしかしたら僕たちみたいな、生き残りがいるかもしれない」


 世界は崩落し、人類はほとんど死に絶えた。こちらの岸から眺める東京は、緑に覆われている。コンクリートの建物の残骸。その上にはびこる植物。


「……東京に行っちゃいけないって、ばあちゃんが言ってたぞ」


 世界が崩落した二〇二〇年の夏、トシの祖母は二十四歳だった。封鎖される東京、感染が広がる世界。外出自粛。街から人がいなくなり、東京から逃げようとする人びとが、川を越えようとした。


「分かってる」


 ユキトは最終防衛ラインを越えようとしている。こんなチンケな船で。木造でエンジンもなくて、ふたり乗ったら転覆しそうな船で、防衛ラインの向こうへと行こうとしている。


 ユキトは変わった少年だ。船を作るなんてバチあたりなことを平気でする。しかもその船で、東京へ行くだなんて言っている。

 そんなこと、できるわけがない。トシは冗談だと思っていた。ユキトの目は真剣だ。


「トシ。僕はね、最終防衛ラインの向こうに行きたいんだ」


 決意にあふれたまなざし。

 集落の子どもたちの中で、誰よりも勉強ができて、誰よりも利口なユキト。その彼が言うのだ。防衛ラインの向こう側。東京に行きたい、と。あの緑に覆われた死地に何があるのか。トシの心の中に、かすかな好奇心が芽生える。


「じゃあ、俺も行く」

「バカを言うな。この船はひとりしか乗れない。僕が乗っていく」


 ユキトは紙面に目を落とす。たくさん並んだ数字。計算式。船の図。持ちものリスト。そしてどこから入手したのか分からない、東京の地図。


「もしかしたら、二〇二〇年の夏がそのまま残っているかもしれない」

「二〇二〇年の夏?」

「もののたとえだよ。

 実は東京は滅んでなくて、二〇二〇年の夏の続きを送っている人たちが、いるんじゃないかって、そう思うんだ」


 空いた壁の穴から隙間風が流れてくる。梅雨の時期の風は、湿り気があるのに冷たい。


「いつ行くんだ?」


 本気なのかは分からない。冗談がヘタクソなユキトなりの、精一杯の冗談なのかもしれない。


「船ができたら行くよ」


 船の完成度は半分くらい。船がどうして水に浮かぶのか、トシは知らない。ユキトは知っているのだろう。

 彼は江戸川を渡る。最終防衛ラインを超える。


「誰にも見つからないように、こっそり、夜に行こうと思う」


 いくら身寄りのないユキトであっても、いなくなったら大騒ぎだ。あるいは、船に乗っていなくなったバチあたりな子どものことなど、誰も探さないだろうか。トシには分からない。


「向こう岸に着いたら、これを吹くよ」


 ユキトは首にかけたひもを得意げに見せる。銀色のホイッスルがぶら下がっている。


「帰りはどうするんだよ? その船、流されちゃうんじゃないのか?」

「一応、繋留の杭は用意しているけど……。流されちゃうかもね」

「じゃあ帰ってくる時は、どうするんだ?」


 薄暗がりのかまちの上で、ユキトの目が一瞬、ふと細められた。


「その時はもう一回、ホイッスルを吹くよ。それでトシが迎えに来てくれるのを待つ」

「俺は船なんか作らないぞ」


 船はバチあたりな乗りものだ。日本の崩落は『ごーかきゃくせん』からはじまったのだから。


「分かってる。気が向いたらでいいんだ」


 そう言って、ユキトは寂しそうに笑った。彼は帰ってこないつもりなのかもしれない。


 最終防衛ラインの向こうに行く。同い年の、十二歳の彼が、そんな夢を抱いていただなんて、知らなかった。



 ♢ ♢ ♢



 二〇二〇年の、夏。


 それがどんな恐慌の時代だったのか、トシは知っていた。生き証人である祖母から、何百回、何千回とくり返し聞かされていたから。



 東京は封鎖されて、東京から避難してきた人びとが、県境に集結した。感染の蔓延を防ぐために、すべての橋が落とされた。


 それでも川を渡ってくる人がたくさんいた。咳をしている人、熱がある人。川の底から伸びてくる手。祖母は竹やりを手に、避難民たちを川に沈めた。


 祖母は船に乗っていた。小さな船。演歌にも歌われたその船に。祖母はまだ、二十四歳だった。


 彼女にとって、いいや、あの時代の千葉県民にとっては、江戸川は最終防衛ラインだった。感染を封じ込めるための、最後の最後の、砦だったのだ。



 ♢ ♢ ♢



 笛の音が聞こえた気がする。トシはそれを夢うつつの中で聞いた。


 東京。


 かつて最終防衛ラインの向こうには、大都会が広がっていたという。人類は感染症に負けた。コンクリートの都市は緑に還った。あるべき姿に還った。ユキトはそこに行こうとしている。


 最終防衛ラインの向こう側。そこに何があるのか。二〇二〇年の夏。開催されなかったオリンピックを待ち望み、新しい時代の幕開けに胸を躍らせた人びとが、まだどこかで、生きているかもしれない。


 二〇二〇年の夏の続き。ユキトが夢見ているものが何なのか、トシにはよく分からない。

 それでもほんとうに、二〇二〇年の夏が東京に残っていたら、それはとてもすごいことなのだと思った。



 ♢ ♢ ♢



 翌日、ユキトはいなくなっていた。


 おんぼろの家の中に船はなく、川の対岸に見覚えのある船が、繋留されて浮いていた。


 あの笛の音は、ほんとうだった。ユキトはほんとうに江戸川を、最終防衛ラインを超えたのだ。



「じゃあ帰ってくる時は、どうするんだ?」

「その時はもう一回、ホイッスルを吹くよ。それでトシが迎えに来てくれるのを待つ」



 ユキトの声が、一瞬、細められた目が、脳裏によみがえる。


 ユキトはいなくなってしまった。自分の意思で禁忌を犯した。緑あふれる死地の東京に、二〇二〇年の夏を、人類が滅びる最後の夏のかけらを、探しにいってしまった。



 ♢ ♢ ♢



「だからじいちゃんは、おふねを作っているの?」

「ああ、そうだ」


 孫の問いかけに、トシはうなずいた。


「きょうはふえのおと、きこえるかな?」

「さあな」


 あれから五十年。ユキトの笛の音は聞こえず、今日も江戸川の向こうは、緑の死海に沈んでいる。


 ユキトはもう帰ってこないだろう。トシはそう思っている。それでもいつか、彼のホイッスルの音が聞こえた時のために、こうやって船を作り続けている。


 帰ってこなくていい。祖母は晩年、言っていた。東京は広い、と。ユキトひとりで冒険するには、時間がかかるのだ。


「じいちゃん」

「なんだ?」

「えどがわのむこうは、なにがあるの?」


 トシは船から顔を上げて、微笑んだ。


「さあな」


 かつて、矢切の渡しという船があった。

 それはもう、とてもとても、昔のこと。


 ユキトはもう帰ってこない。

 たぶんユキトは東京で、二〇二〇年の夏を見つけたのではないかと思う。

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矢切の渡し 山南こはる @kuonkazami

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