第9話<カクヨム版>明日葉と妹たち

明日葉の小説授賞式



 明日葉あすはは悩んでいた。

「ううぅん……うぅぅぅん……」

 寮部屋に漏れるうめき声。悪夢にうなされているかのようなその姿はしかし、彼女がノートパソコンを覗き込みながら発している言葉だった。

 寝巻に包まれた背中は丸まっていて、肩は落ちて、さらに髪もボサボサ。

 全校生徒の憧れである『図書室の姫』は、見るも無残な姿であった。

 さすがの明日葉も高校二年生の乙女であるからして、人前にあまり披露したい光景ではない。

 なので、これはよっぽど追い詰められているのだ。

 明日葉の後ろで、妹たちがヒソヒソと言葉を交わす。

「明日葉お姉さま、大層悩んでますね……」

「そうですねえ……物語を綴るのは、やっぱりとても大変なんですのね……」

 真悠まゆ千沙都ちさとだ。

 妹になるまでは、せいぜい図書室で小さなパソコンのキーボードを叩いている明日葉の姿しか、見たことがなかったふたり。

 それはまるでピアノを弾くかのように、優雅なお姿だったのだけれど。

「ううぅ……うぅぅぅ……」

 今はまるで、寒空の下で雑巾を絞っているかのようだ。

「なにか石田たちにできることがあればいいのですが……」

 真悠は今までにも何度かそう申し出たのだけど、明日葉はただ静かに首を横に振るだけだった。

 せめてもと聞き出した話では。

『実は、新作がどうもうまくいかなくて……。何度もお話を書き直しているんですが、納得いく出来にならないんです……。担当さんは私を信じて待ってくれているので、余計に申し訳が立たなくて……。あっ、すみません、妹にこんな愚痴を聞かせて……』

 などと恐縮して、それ以降は口を閉ざしてしまった。

 こちらは、その愚痴を聞くぐらいしかできないのだから、せめて思う存分、心ゆくまで話してほしいのだけど……。

 と、真悠の侍女魂じじょだましいがくすぶるのをよそに、今も明日葉は悩みまくっているというわけだ。

 はふう、と千沙都がため息をつく。

「せめて明日葉お姉さまの書いているお話が官能小説なら、わたしたちにもお手伝いできることがあるかもしれませんのに……」

「そうですねー……」

 適当に相槌を打ってから、ん? と勢いよく振り返る。

 なにか今、おかしくなかった?

 千沙都は頬をぽーっとさせて、潤んだ瞳で明日葉を見つめている。

「もし該当シーンの参考資料がほしいなら、それこそわたしや真悠さんが……」

「あの、千沙都さん、千沙都さん?」

 真悠は不安になった。最近、千沙都の趣味をいろんな人に受け入れてもらえたからって、もはや自分から隠さなくなってきてない? と。

「は、恥ずかしいですけど……でも、それが明日葉お姉さまのためになるなら、わたし……っ。思い切って、勇気出します……っ」

「違いますから、千沙都さん。違いますから、千沙都さん!」

 パジャマのボタンをひとつずつ外してゆく千沙都を、真悠が羽交い絞めにする。

 その横を、ゆらりと幽鬼のようにひとりの少女が通り過ぎた。

 目の下にクマを作った明日葉だ。

「寝ます……おやすみなさい……」

 ぱたん、と割りばしが倒れるみたいにベッドに入る明日葉を見て。

 真悠と千沙都は、思わず顔を見合わせていた。

「明日葉お姉さま……」

「これは、かなり重症ですね……」


 ***


 明日葉は、先日の学園長との面談を思い出す。

 一年を通して行った姉妹制度への、アンケート、感想、フィードバック。そんなものをあらかた話し終わってから、学園長が尋ねてきた。

『それで、どうだったかな。あなたにとっての姉妹制度は』

 少し考えた後に、明日葉ははつらつと答えた。

『──とても実りある、素晴らしい体験をさせてもらえました』と。

 明日葉は胸に手を当てて、語る。

『私はずっと、自分ひとりの世界に閉じこもっていました。そこには物語で育んだたくさんの私が生きていて、だから毎日とても賑やかで、寂しくはありませんでした。けれど、決して変化することもなかったのです』

 妹たちへの感謝を告げるように、明日葉は思いの丈を口にした。

 目も輝いていた。

『そんな私が妹制度を始めて、最初は不安でした。他者との触れ合いは怖くて、臆病な私はすぐに自分の心に閉じこもってしまいました。そんな私に妹たちは優しくしてくれて、人と言葉を交わすことの大切さを教えてくれたんです』

 そんな明日葉を、学園長は穏やかに見守っている。

『私は姉としてこの制度に参加しましたが、あくまでも生徒であり、教師はむしろ私の妹たちでした。私はこれから、自分の中だけではなく、外の世界に手を伸ばし、もっといろんな物語を紡げることでしょう。感謝します、学園長。私を誘ってくださって』

『なあに、君がそこまで感じ入ってくれたなら、私から言うことはもうなにもない。残された期間、妹との時間を大切にしてくれ』

 明日葉は微笑んだ。

『──はい』


 と……。

 思い出し、明日葉の頬が熱くなる。

 あのときの明日葉は確かに前向きで、大事な何かを掴むことができたと信じていた。なのに、なのになのになのに。

「ふっふふ……。実際は、このざまですね……」

 夜遅くまで執筆していると同じ部屋の妹たちに迷惑をかけてしまうため、明日葉は今、誰もいない寮の学食にいた。

 電気もつけていない部屋は暗く、ノートパソコンのディスプレイの光だけが灯っていた。

 肩にカーディガンを羽織り、膝上にはブランケット。そして暖かなお茶を頼りに、寒がりながら指を動かす。

 惨めな気分だ。今の自分ならと意気込んで挑みかかった題材は、あまりにも手強く、明日葉の心身をも日々消耗させてくる。

「なにが、だめだったんでしょうか……」

 自分は確かに、人と触れ合うことの大切さを感じたはずなのに。

 新しい輝きは形にならず、掴めたと思えば、するりと手のひらから零れ落ちた。

「はぁ……」

 大きなため息をついたときだ。

 スリッパの足音が聞こえてきた。

 それはのんびりとこちらに向かって近づいてくる。身を固くしていると、学食のドアが開いた。「おや」とのんびりとした声がする。

「明日葉さん? どうしたの、こんなところで」

「あ、涼香りょうかさん。いえ、ちょっと……」

 そそくさと、明日葉は髪を整える。いつも綺麗にしている涼香にだらしない姿を見られるのは、恥ずかしかった。

 涼香自身はそんなこと気にせず、手持ちの水筒に学食備え付けのウォーターサーバーからお湯を注いでいる。

「こんな寒いところでお仕事なんて、大変そうだね。ご苦労様です」

「いえ、その、私が悪いですから……」

「悪い?」

「ええ、本来はもう少し順調に進んでいるはずだったので、焦ってしまって……」

 自己評価が地に落ちた明日葉は、そう言って肩を落とす。

 涼香は小首を傾げた後、明日葉の近くにやってきた。

「なんだか、悩んでるみたいだね、明日葉さん。私でよかったら、話聞くよ」

「いえ、人様にお話しするようなことでもないので」

 話を聞いているんだか聞いていないんだかわからない様子で、涼香は椅子を引き、明日葉の前に腰を下ろす。

「まあまあ、明日葉さん。妹には言いづらいこともあるでしょうて」

「それは……確かに、そうですけど」

「ま、お仕事のことだと、私はまったく役に立たないけどね!」

 涼香はそう言って笑う、わざとコミカルな口調を演じて、会話の敷居を下げようとしているのが明日葉にもわかった。

 こういったさりげない心遣いに関しても、姉妹制度を始める前の明日葉は、まったくの無頓着だった。

「だったら、おひとつだけ聞いてもいいですか? 涼香さん」

「ひとつと言わず何個でも。でもま、最初のひとつ目から聞きましょう」

「涼香さんは、他の高校から転入してきたんですよね。なんでも、すごく勉強ができる方の集まる学校にいたと伺っています」

「そうだね。客観的には、その評価で間違いないかな、って」

 外からの月明かりに頼りなく照らされて、涼香は気恥ずかしそうにうなずいた。

「この学校に来て、涼香さんは大きく変わったと思いますか」

「思うよ」

「では……」

 普段なら、これ以上踏み込もうとは思わない。だから、やはり自分は追い詰められているのだろう。助力を求める発想すら浮かばないほどに。

「それは本当に、いいことだと思いますか?」

 明日葉の真剣な視線に、涼香はおちゃらけた雰囲気を引っ込めた。それでも冷たさより物腰の柔らかさが先に立つのだから、涼香は変わった。

「んー……そうだねえ」

 初めて会ったときはまだ、誰が敵で誰が味方なのかを見極めようと警戒しているような節があった。しかし、今の涼香は来るものをすべて受け入れてしまうような器量を備えている。彼女に聞くまでもなく、それはいいことに違いなかった。

 それでも、涼香の言葉で語ってほしいと、明日葉は思ったのだ。

 答えに近づけるような気がして、だから。

 しかし、涼香の答えは明日葉にとって予想外のものだった。

「わかんないよね」

「……はい?」

 明日葉は聞き返す。

「でも、涼香さんは変わりましたよね。話しやすくなりましたし、今はみんなからもすごく好かれていて」

「そうだね。でも代わりに、あの頃のピリピリとした感覚はすっかりなくなっちゃった」

「人当たりがよくなって、友達もたくさんできましたよね」

「話してくれる人は増えたね。それは間違いなく。けれど、ひとりになったときに寂しいと感じる気持ちは、前よりずっと増えた」

「それじゃあ、まるで」

 涼香は変わってしまったことを、悪いことだと思っているみたいじゃないか。

「そんな、だったら、私は……」

 書きかけの原稿データに目を落とす。

「いったい、なんのために」

「もしかしたら、私が答えることで、明日葉さんを困惑させちゃうかもだけど……先に謝っておく。ごめんね。ただ、私はちゃんと自分の言葉で答えるね」

 その先を怖がる明日葉に、涼香は努めて優しく微笑んだ。

「だからね、言ったんだ。『わかんないよね』って」

「……それは?」

「私は確かに変わったよ。でも、それがいいことだったのか、悪いことだったのかなんて、わかんないんだ。そりゃ、私の周りにいる子たちはみんないいことって言ってくれると思うけど。でも、確実に成績は下がったし、それは明らかにマイナスでしょ?」

「そう、なんですか……?」

「まあ、世間一般的に見ればね。だからね、ただ言えることがあるとすれば、ひとつ目、私は変わった」

 そして涼香は二本目の指を立てた。

「ふたつ目。私は──こんな私を、けっこう気に入ってる」

 はにかんで笑う。その指は、ピースサインのようだった。

「気に入ってる……」

「うん。もっと言うとね、いいかどうかなんてどっちでもいいんだよね。私は望んで変化して、今の私になった。それがね、明日葉さん。私は、楽しかったんだよ」

 涼香の言葉を、明日葉は丹念に飲み込む。

「楽しかった、ですか。なるほど、確かににそれは……いいとか悪いとかでは、片付けられない言葉なのかも、しれませんね」

「なんか、詭弁みたいでごめんねえ」

「いえ……涼香さんが、正しくお気持ちを伝えようとしてくれた結果だと、わかっていますから。ありがとうございます」

「そう言ってくれると、助かるなあ」

 涼香は伸びをして立ち上がる。

「あまり明日葉さんの時間を奪うのもよくないから。私はそろそろお部屋に戻るね。明日葉さんも、無理せずにね」

「はい、ありがとうございます」

 頭を下げて、明日葉は涼香を見送った。

 それから頬杖をついて、ディスプレイを目でなぞる。

「……楽しいから、か」

 自分は変わったことを『成長した』と思っていた。

 だから、遅々として進まない原稿ページに歯痒い思いをして、苛立っていた。

 けれど、変わることは、ただ変わることでしかないのだとしたら。

 自分は前にも後ろにも進んでいない。ただ自分のあり方が変化して、今までと変わらず自分はここにいる。

 それは悲しいことだろうか? それとも、寂しいことだろうか?

「いえ……」

 巻き戻って、頭から原稿を読み直す。

 そこに登場する女の子は誰にでも優しく、明るくて、可愛らしい少女。

 今までの自分が決して書くことはなかった、瑞々しさにあふれている。

「……好きですね、この子」

 そうだ。変わった自分はまた、一からのスタートで。

 それはまた気が遠くなるほどに地道な道のりになって、あるいは自分が積み上げてきた実績や信頼すらも、無に帰すような行為なのかもしれないけれど。

 明日葉は選んだのだ。

 だってそれが──。

「……楽しい、から」

 明日葉は大きく息をついた。

「──そういうこと」

「ふぇっ!?」

 明日葉は飛び上がるようにして驚いた。すると、去っていったと思ったはずの涼香が、柱の陰から現れた。目の端にわずかな涙を浮かべながら批難するようにじっと見つめると、涼香は「ご、ごめん」と笑いながら頭を下げてきた。

「いや、さすがに独り残すのも心配だったから。でも、悩みはちょっと軽くなったみたいだね」

「……はい、おかげさまで」

「ごめんってば」

 少しむくれた後に、ふっと明日葉は笑う。

「いえ、いいんです。本当に、助かりましたから。涼香さんには今度またぜひとも、改めてお礼をさせてください」

「そんな大げさにしなくてもいいってば。友達でしょ? あ、だったら今度は私がひとつお願いしてもいい?」

「もちろん、なんなりと」

 涼香はにっこりと微笑んだ。

「そのお話、完成したら私にも読ませてくれないかな? きっと、すごく素敵なお話になると思うから」

 その言葉に、明日葉はわずかに目を丸くして。

 それから、小さくこくりとうなずいた。

「はい、ぜひ」


 静かな夜が過ぎてゆく。

 涼香が実はこれまでに出版したすべての本を読了している熱心なファンのひとりだと、明日葉が知ることになるのは、また別のお話。

 そして、明日葉が出版社の特別な賞を受賞することになるのは──そう遠くない、未来のお話だった。

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