第8話<カクヨム版>帆南と妹たち

どこか晴れやかな藤麻 帆南



「おねえちゃん」という幼い声がした。

 見やると、そこには髪を長く伸ばした──最愛の──妹が、クシを持っていた。

「とかして、くれる?」

 長い髪は手入れをしなければならないということを最近学習した彼女は、これが必要だから、という言い訳で、なにかと姉に構ってもらおうとする。

 仕方ない。そうしてもらわなければならないのだ。なぜなら自分は髪を伸ばしているのだから──、と。

 恥ずかしそうにはにかむ彼女の手からクシを受け取り、自分はくすりと笑う。

 ひとつ年下の妹は、甘えん坊だ。自分がいないとなにもできない。

「おいで」

「うん」

 いっぱしのレディーを気取る妹の髪の毛に、クシを差し込む。

 まっすぐに下りた細い髪の毛は、梳かす必要があるのか疑問に思うほど、するりと歯の間を滑り落ちてゆく。一本一本が新雪のように柔らかく、触れていると指の温度で溶けてしまいそうだ。

 しばらく手触りを楽しんでいると、妹が「……?」と振り返ってくる。髪を玩具おもちゃにしないでほしい、という批難がましい視線を浴びて、つい笑みがこぼれた。

「ごめんごめん。触りたくなっちゃって」

「べつに、いいけど」

 表情に乏しい妹は、ぽつりと言う。どこか腑に落ちないような表情をしている(ように見える)彼女を、後ろから抱きしめる。ひだまりのような洗髪剤の香りがした。

「里帆は、美人だね」

「うん」

 顔の造形だけじゃない。里帆りほには雰囲気がある。野山に咲く一輪の花のように、人の目を惹きつける。誰からも寵愛を注がれることになるであろう。生まれつきの美女の資質だ。

 父も母も、家に来るお手伝いさんもみんな──見知らぬ赤の他人すらも──里帆のことが大好きだった。里帆の美貌は天からの授かりものであり、彼女はその美しさがゆえに幸せになるべきだと持ち上げられた。

 世界一の歌手が喉を大切にするように、里帆は才能を保全するようにと周りの大人たちから強く教え込まれた。宿命を背負わされたように窮屈な暮らしを強いられた里帆に、帆南ほなみは同情した。

「里帆」

 髪を乱さぬよう、優しい手つきで帆南は妹の頭を撫でた。

 彼女が髪を伸ばし始めたから、姉である自分は、髪を伸ばすことをやめた。その姿にふさわしいのは、きっと里帆だろうから。

「お姉ちゃんも、里帆のことを愛しているからね」

「うん」

 帆南にとって里帆は自慢の妹だった。

 この想いは永遠だと、そう信じていた。


 ***


 島にもすっかりと寒波が襲来して間もない冬の日。そのお昼休みに、帆南は学院長室に呼び出されていた。

 もうじき、第三期目の──つまり、一年を通しての──姉妹制度が終わりを迎える。そのための、個人面談だ。

 帆南ひとりで学院長と一対一で話をするのは、緊張する。なにより叩けばホコリの出る体だ。せめて隣に涼香りょうか明日葉あすはがいてくれたら、と思ってしまう。

 様々な形式上の会話を済ませたところで、「それで」と学院長が声色を半音高くした。いよいよかと、帆南は思わず身構える。

「どうかな、藤麻ふじまさんはこの姉妹制度を経て。なにか自分で、ここが変わったな、って思うことはある?」

「特には」

 少しも迷わず口に出すと、学院長は微苦笑した。

「ほんのちょっとも?」

 今度は少し考えて。

「生徒の注目を集める機会が増えたので、前よりも真面目に授業に出席するようになりましたね」

 教育的指導の結果を考慮した発言を心がけてみたものの、なぜか学院長にはご満足いただけなかったようだ。

 面倒くさいな、と思う。

 帆南はただそうすればサボりによって傷ついた(自業自得の)内申点に色を付けてくれるというから、やっただけだ。

 姉として振舞うのは、そう難しくはなかった。共同生活にも慣れていたし、妹たちはみんな、里帆に比べたら手のかからない女の子ばかりだった。

 といっても、ふたを開けてみれば彼女たちは単純にいい子というわけではなくて、一癖も二癖もある妹揃いだったのだけれど。

「そう、わかったわ。ありがとうね、藤麻さん。今後の参考にさせてもらうわね」

 学院長の浮かべた透明な笑みは、真意がよくわからない。

 少し、引っかかる。

「学院長は」

「なにかしら?」

「私がなにか、変わったと思いますか?」

 人からどう見られているかなんて、どうでもよかった。

 どうせ、自分の周囲にいる人物は皆、自分を『里帆の姉』としか見ないのだから。

 だが、もし学院長だけが気づいている答えがあるのなら、手っ取り早く教えてもらいたかったのだけども──。

 学院長は微笑んで首を傾げる。

「さあ、どうなのかしらね」

 なんだか試されているような気がした。

「……失礼します」

 気を抜くと舌打ちしてしまいそうだったから、足早に学院長室を出る。

 はしたなく乱暴にドアを閉めて、帆南は目的地もなく歩き出す。

 疲れた。

 午後の授業は間もなく始まるが、このまま教室に戻る気にもなれず、窓の外を眺めた。

「姉妹制度ぐらいで、わたしが変わったりしないっての……」

 不快感を吐き出すようについた息は白く、サボるにも場所を選ぶ必要がありそうだ。

「……まったく」

 どんなに浮世から離れようとしても、なにもかもまとわりついてくる。血の繋がりも、季節の移り変わりも。子供のうちは決して、本当の意味で自由にはなれないのだ。



 学院の外れには、花の温室がある。園芸部以外はまず立ち入ることもなく、ひっそりと学院の行事に使う様々な花を育てている。

 見栄えもよいガラス温室は、古くからの建物らしく、中にはいくつものベンチが備え付けられている。きっと古くは、休み時間や放課後、憩いの場所として皆に愛されていたのだろう。

 温室の中は温かく、ここなら思う存分時間を潰せそうだ。

 胡蝶蘭こちょうらんの通路を抜けて、奥へ。

 帆南は見つけたベンチにもたれかかり、腕を枕にして横になった。

「……ふう」

 天井に顔を向けて、目を閉じる。

 遠くでチャイムが鳴る。ここには誰もいない。

 世界からひとり取り残されるような自由を、帆南は静寂とともに満喫した。


 ***


 お姉さま、お姉さま──という声に、揺り動かされる。

 誰だろう。

「ん……里帆……?」

 幼き日の里帆が、無邪気な瞳で──いや、どこかこちらの機嫌を窺うような顔で、帆南の袖をつまんでいる。

 ──いつかの日を境に、帆南は里帆を冷たくあしらうようになった。

 誰のどんな賛辞にも顔色ひとつ変えることのなかった里帆が、しかし頼りにしていた姉に邪険にされ、不安な表情を覗かせる。

 そんなことで溜飲りゅういんを下げていた自分に気づいたとき、帆南は少なからずショックを受けた。そうして、なにもかもが手遅れになる前に、帆南は静かに里帆から距離を取ったのだ。

 お互い傷つけ合うことがないように。

 それが最善だと、帆南は信じていた。

 心から愛していると言えたあの頃の帆南は、まだきっと自分の中にいる。だけど、それを表に出すことがどうしてもできなかった。焼けた石を握り続けることができないように。

 なにも感じず済むように心も鈍化させて、なのに里帆は、姉妹制度に申し込んできた。いったいなにを考えているのか、帆南にはさっぱりわからなかったのだ。

 と、顔をあげた帆南の前に立っていたのは、里帆ではなかった。

 吉村よしむらうらら。

 帆南の、第三期の妹のひとりだった。

「……吉村さんか」

「吉村さんか、じゃありませんよ!」

 腰に手を当てた彼女は目を吊り上げて、こちらを見下ろしてくる。

「教室に呼びにいったら、午後の授業出ていなかったって話じゃないですか! まったくもう! なんですぐに授業サボるんですか!? そんなに面白くないですか!? だったらぶっちぎりで学年一位取ってからサボってほしいんですケド!」

 寝起きにうららの声はキンキンと響く。

 それで帆南が嫌そうな顔をすると、うららがますますヒートアップする、という寸法だ。

「ていうか別に、私がサボろうが私の勝手だよ……」

 凡庸なセリフを吐いたことに、じゃっかんの気まずさを感じつつ、目を逸らす。

 だがうららは、断固として帆南を逃さない。

「勝手じゃありません」

「なんで……」

「帆南お姉さまは今、あたしのお姉さまですから」

 眉をひそめる。

 自分が里帆の面倒を見るはめになったのは、彼女の『姉』だったからだ。だから、立場上仕方なくという彼女の言い分には、抵抗感を覚えた。

「あのね、そういうのは他の品行方正なお姉様に言って。私は例外だから」

「なんですか、それ」

「そういうことだから。それじゃ解散」

「ちょっと、待ってくださいよっ」

 帆南の後を、うららが小走りで追いかけてくる。

「放っておいてほしいんだよ」

「帆南センパイがサボらなければ、あたしだって放っておきますよ!」

「厳しい子だな……」

 ちらりとうららを見やる。彼女は「まったく……」と腰に手を当てている。

 苛立ち交じりに、嫌味のひとつでも投げつけようかと思ったその時だった。

 瞬間、ふいに脳裏をよぎる香りがあった。

 お風呂上がりの里帆が、濡れ髪のまま帆南の下へやってくる。乾かしてほしいとドライヤーを差し出す彼女に、帆南は苦笑いしつつも、頼られたことが嬉しくて。

 まったく、とそう言って里帆の髪を乾かす。

 そのときの、洗髪剤の香りが。

 帆南は立ち止まる。

「センパイっ?」

 過剰に目を吊り上げて見上げてくるうららに帆南は。

 下唇の下に指を当てて、どこか本意ではない顔をしていた。

「立場が変われば、見えてくるものもある……ものなのか」

「いったい、なんの話ですか?」

「……いや、別に」

 心の中を告げるのはあまりにも恥ずかしくて、帆南はそう言うより他なかった。

 逸らした視線の先には、白い胡蝶蘭の鉢が並べられている。美しいものを目にすると、いつだって自分が比べられているような気がして、ずっと嫌だった。

 だがそれでも。

「周りを振り回して、心配を焼かせる。これじゃ、やってることは変わんないな、って思っただけ」

「もう、さっきから浸ってばっかりで、ずっとよくわかんないんですケド!」

 うららが口を尖らせて、帆南の手を引いた。

「清く正しく生きてください! お姉さまらしく!」

 そのあまりにも真っ直ぐな言葉は無理難題で、とても実現できそうにはない。

 帆南は首を横に振って、小さくため息をついた。

 姉妹制度によって強制的に結び付けられた人間関係でもなければ、そんなことを言われる機会はなかった。しかし、あの学院長はここまで見越していたのだろうか。

 確かに、姉妹制度によって帆南は変わった。

 それは。

「世の中には、いくらでも厄介な妹がいる、っていうことなんだろうな」

「なんですかそれ!?」

 うららの叫び声が響く温室は、ふたりだけなのに騒がしくて、とても帆南のことを放っておいてはくれそうになかった。


 ***


 この日も里帆は脱衣所にて、あまりの面倒さと熾烈な戦いを繰り広げながら、ドライヤーを手に濡れた髪を乾かそうとしていた。

 今すぐ床に寝そべって転がれば、明日起きる頃にはすっかり乾いているだろうに……と思わないでもないのだが、それでは髪が傷んでしまう。

 そのとき、隣に誰かがやってきた。

「里帆、貸して」

「……?」

 これからお風呂に入ろうとしていた姉──帆南だった。

 ちょっと驚きながらも、言われるがままドライヤーを差し出す。すると、受け取った帆南は不愛想な手つきで、里帆の髪を乾かしてくれた。

 ゴォ、という熱風が耳をくすぐる。

「お姉ちゃん」

「たまたま、気が向いたから、だから」

「びっくりした。……いいの? 里帆、もう高校生なのに」

「気が向いたの。てか、里帆がひとりで髪を乾かすとか、こっちだってびっくりだよ」

「うん」

 しばらく無言。お互い、複雑な思いを抱えながらも、そのワンシーンだけ切り取れば。

 ふたりはまるで、仲の良い姉妹のようであった。


 誰よりも遠慮のない手つきが懐かしく、里帆は目を細めた。

「明日からも毎日、気が向いてほしい」

「調子にのんな」

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