卒業が別れじゃないと気づくのは

千代田 白緋

卒業が別れじゃないと気づくのは

「新田と出会った日からどれだけの時をここで重ねて来ただろう」


桐山は1人、高校の卒業式後の教室で呟く。学級委員長としての最後の仕事を行う為に残っているはずなのに、新田の事が頭を離れない。普段とは違う着慣れない服を着た教室。堅苦しかった教室は、今や賑やかな装いに包まれている。黒板には昨日の放課後の余韻が残っていた。賑やかな黒板。昨日、クラスの皆でわいわい書いて、描いた最後の共同作業の余韻。きっと同じ余韻がこの三階には並んでいる事だろう。それを消さなくてはいけない。こんなにも悲しく寂しい事があるだろうか。


外では賑やかに卒業を祝って騒ぐ卒業生。その音に桐山は胸をキュッと締められる思いだった。実は先ほど、唯一の親友、新田と喧嘩別れをしたのである。


卒業式が終わり、片付けられていく会場を前にいつまでも思い出せるように目に焼き付けようとするが、涙がこぼれ、思い出という焼いたフィルムを溶かしていく。これが使命を全うした感動の涙なのか、唯一の友を失った悲しさの涙なのか分からなかった。


~数分前~


ドン―。桐山は親友の新田を壁に押し付けていた。


「お前、今日、都会に行くってのは本当なのかよ」


「なんだよ、急に」


新田は動揺に顔を曇らせた。そして


「ああ、そうだよ。前、話しただろ。俺はこんな田舎で終わりたくねえ。まあ急遽、今日出発ってなったのは俺も驚いたけどよ」


めんどくさそうに新田は答える。


「だからって突然すぎるだろ」


「し、しかたないだろ。俺だってもう少し、この町に残りた―」


「ああ、そうかよ」


桐山は新田を離し、距離をあけた。


「どうしたんだよ、急に」


突然、自分の話を止められ、新田は驚いた。


「お前なんて都会に行っちまえ」


桐山が吐き捨てる様に言う。その言葉に新田は戸惑った。


「なんだよ、その言い方。応援してくれないのかよ」


新田は襟を正しながら言う。


「うるさい。さっさと行っちまえよ」


何度も吐き捨てられる言葉に新田はとうとう我慢が出来なくなった。


「お前に、お前に言われなくたって都会に行ってやる。お前はここに残って、精々田舎っ子で生涯を終えちまえ。さっきは少し残りたいって気持ちがあったけどよ、親友だと思っていたお前にこんだけ言われて、もう顔も見たくねえ。俺はぜってえ都会っ子になってやる。こんな田舎からはおさらばだ。お前ともな。」


そう言って新田は東京行きの切符を桐山に見せつけると教室を出て行った。


「勝手にしろ」


俯きながら、言った言葉が溶けて消える。


~現在~


桐山の心の中はぐちゃぐちゃになっていた。きっと僕は駅に向かうべきじゃない、そんなの分かってる、と黒板を消し終えながら、桐山は思う。喧嘩別れをした。それは自分が望んだこと。どの面下げて、会うって言うんだ。新田の背中を蹴るって決意したのはお前だろ、と自分を責める。黒板を消し終わり、教室の装飾も取り去り、何もかもが終わりを告げた様な気がした。友情という名の宝物も。


多くの思い出を詰め込んだ教室。それが今や、真新しい教室になる。それに喪失感を感じていた桐山は、ふと教壇の上に置かれた卒業アルバムに目がいった。それだけがこの教室において唯一、大切な失われないものの様な気がした。手に取り、ページをめくっていく。その中の写真一枚一枚が桐山をこの教室に留まらせる。そんな特別な魔力がこの卒業アルバムにはある。懐かしい写真。自分が映っている写真にはいつも新田がいる。どれだけ自分たちが一緒にいたのかを物語っていた。このまま、新田を都会に行かせた方が良い。親友の夢の手伝いが出来たんだ。これほどに、嬉しいことはない。


ある記憶が思い出された。初めて新田が東京に行くって話をした時の事だ。新田はいつも自分の隣にいながら、一歩先を走っていた。故郷を出て行く決心が出来ない自分は新田にコンプレックスを抱いていたんだと思う。そのコンプレックスは卒業式の今日まで拭えなかった。


突然、今日、東京に行くなんて言われて桐山は気が動転した。新田が少しではなく、かなり離れてしまう気がしたから。そんな、友達の旅立ちを応援できない親友なんて親友じゃない。だから、喧嘩別れする事を選んだんだ。不器用な応援だったけど。桐山は足を教室に縛り付けられた様な気がした。そうだ、僕には新田を見送る価値なんてない。そう心に何度も言葉を刺す。


桐山はパラパラと卒業アルバムをめくる。瞬きする度に思い出が水になってこぼれていく。すると最後のページ、寄せ書きのページがバサッと開いた。桐山はバランスを崩した卒業アルバムを落としてしまった。それを拾おうと身をかがめた時だ。寄せ書きのページには喧嘩別れする前の新田の言葉が残っていた。書いてもらった記憶はあるが、まじまじと見ていなかった。


それを読んだ瞬間、桐山の時間が止まる。


『また会おうぜ。親友』


この一文が飾りっけなく書かれていた。長年、連れ添った親友だから分かる。これを書いている瞬間の新田の姿が。脳内に再生される。いつも隣でふざけていた新田が俯きながら肩を揺らし、文字を書いている。


卒業アルバムに涙が落ちる。桐山は分厚いアルバムだけ抱え、教室を出て行った。先程まで向かい風で桐山を縛り付けていた物は追い風となり、足を走らせた。卒業アルバムには載せきれなかった多くの思い出を胸にいだいて。



一方、新田は駅前の桜並木の道を一人歩いていた。喧嘩別れした親友の愚痴はここに来るまでに散々道にポイ捨てしてきた。もう忘れるんだ、あいつの事なんて。俺が書いた寄せ書き、現実にはならないな。そう思いながら、空を見上げる。そこには川沿いの桜の白いアーチが出来ていた。それを先程から降り始めた天気雨が色付け、香り高くし、美しく祝っている。頬に落ちる雨が全くと言っていいほどに不快じゃない。なぜなら自分の心を映している様だからだ。晴れやかな気持ちの反面、心の水面にぽつりぽつりと落ちる悲しみの雨。


「神様は俺の気持ちなんてお見通しって訳かよ」


少し悔しくもあり、少し嬉しかった。やっぱり、桐山は俺にとって唯一無二の親友だったんだな。でも、それも過去の話だ。


駅に到着して、ポケットから切符を取り出し、開札に通す。ここで立ち止まっても、まだ時間はある。そんな声がどこからか聞こえてくる。それを無視して、開札を通る。階段を上り、既に到着している特急電車に乗り込む。どうせ来やしない。あんな別れ方をしたんだ。桐山は応援してくれてるって信じていたのに。窓際の指定席に腰を下ろす。リュックサックを膝の上に乗せると、固いものが当たった。気になって中を確認する。それは卒業アルバムだった。


「そう言えば、桐山からも寄せ書き貰ってたっけ」


何気なく、寄せ書きのページを開く。そこにはでかでかとした文字でこう書かれていた。


『お前はこんな田舎でつぶれちゃいけない才能がある。都会の恵まれた環境で大いに才能を伸ばして、俺たちの誇りになってくれ。お前が都会に行く事を不安に思う気持ちは分かる。だから、俺はお前の背中を蹴る』


気づくと涙が頬を伝っていた。あの喧嘩は桐山の優しさだった。


涙を拭ってふと電車の窓の方を見ると桐山が立っていた。


俺はまがった鉄砲玉の様に急いで降車した。手に卒業アルバムを持って。


「桐山、なんでここに。見送りに来いなんて言ってねえぞ」


我ながら素直じゃない。


「さっきは悪かった。僕、新田と喧嘩別れするのなんて嫌だよ。『また会いたいんだ』」


「俺だって、嫌だったよ、こんな別れ方。でもお前のおかげで喝が入った。お前は優しいやつだな。俺は『お前たちの誇りになって』帰ってくる。それまで待っててくれ、親友」


「分かったよ、親友」


二人共、互いの気持ちは分かり合っていたし、二人の手には卒業アルバムが握られていた。握られている意味を二人は分かっていた。


新田が拳を突き出す。桐山もそれに答えて、拳を突き出し、新田の拳にぶつける。もう彼らの間に言葉はいらなかった。


電車の出発のベルがなる。二人は目を合わせて、全てを納得したかのように頷く。そして新田は駆け足で車内に戻っていった。電車が出発していく。桐山は電車が見えなくなるその時まで手を振り続けた。


卒業が別れじゃない事を知るのは今よりもっと大人になれた時、あいつとまた会う時、その日までそれぞれの道を歩いて、つまずいて、振り返り、きっと、きっと、また会える、その日まで。



迷い立ち止まる時はあいつがくれた言葉を握りしめて。

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