戻らない泡

千本松由季/YouTuber

戻らない泡

 都庁から出て、群衆に紛れる。昼間だ。威圧感のある都庁ビルを、歩きながら、まだ背中に感じている。

 帰りに俺はいつも、その隣のホテルに寄る。夏だ。見てくれのいいホテルの従業員が、帽子を被った額から汗を流して、俺を見て深々と頭を下げる。俺は、ようやく冷房の効いたホテルに入って行く。


 俺はいつも相手にチェックインさせる。それじゃなくてもスキャンダルだらけの、俺みたいな地方政治家。上階のレストランにでも行く振りをして、エレベーターに乗る。

 今はどんな高級ホテルでも昼間、数時間部屋を使わせてくれる。ここは十二時から十六時だ。売春宿のママが携帯で部屋番号を教えてくれる。俺は今流行りの言葉より、売春宿、という言葉が好きだ。ママは俺の好みの女を知っている。


 ここのエレベーターは俺にとって特別だ。上へ上へ、速く速く、引き上げられる時、あのことを思い出す。そのために俺はここへ来る。わざわざ危険を冒して、都庁の隣のホテルにする意味……。


 千九百八十三年、俺の好きだった俳優が、この高層ホテルから飛び降り自殺をした。

 

 女のワンピースを脱がせた。背中の長いファスナーを下ろす。シルクのようなプリントの。ウィリアム・モリスを気取った。

 やっぱり俺好みの身体をしている。ほとんど少年のように胸がなく、女らしい曲線がない。女優のシャーロット・ランプリングみたいだ。肌が綺麗だ。ヴィスコンティの映画の彼女みたいだ。

 こんな仕事をしているのはなぜだろう? 金が欲しいのか? 頭がいかれているのか?


 女が毛布に潜って俺のにコンドームを被せる。女が笑い声を立てる。なにか言っている。毛布の下だから聞こえない。俺は毛布をめくる。コンドームが大き過ぎるって言っている。よく考えたら、俺は聖一郎のものを持って来てしまった。

 聖一郎は俺の秘書で、あそこまで背が高いと、俺とのセックスはとてもダイナミックだ。

 女は口で大き過ぎるコンドームの上からやっている、泡がブクブク言ってるような変な音しかしない。女は口を金魚のように丸く開けて、俺のを真っすぐに根元まで銜えた。……金魚の口から出る泡の音がする。


 千九百八十三年、俺は高校生だった。自慰をする時は必ずあの俳優のことを夢想していた。……沖雅也。彼は俺の神だった。自殺する直前、このホテルの部屋に売春婦を呼んでセックスした、という話を聞いた。


 俺は大き過ぎるコンドームで女のバックに入れた。後ろから細い腰を抱えた。彼女は決して自分からは動かない。死んでるように。腕をだらりと下げたまま。尻が大理石のように冷たく白い。

 決して、記憶にないのに、既視感がする。彼女の中で、薄いゴムの、パチパチと泡のはじける音がする。

 やりながら、あの俳優のことを考える。聖一郎は少し彼に似てる。だから俺が雇った。俺は俳優と聖一郎と、両方のことを思い描いて腰を動かした。


……それから泡のことを思った。小さな泡がたくさん空中を飛んでいる。シャボン玉みたいに虹色になっている。石鹸の匂いがする。その中に俺の好みの、男とも女ともつかない、裸の人間達が入っている。飛びながら周りを見渡して、楽しそうに笑って、淫靡に腰を動かして。


 俺は大き過ぎるコンドームを外して、女の尻に出した。それから女に、Mサイズのコンドームを買って来るように言った。女は尻を拭きもせず、下着も付けず、俺に服のファスナーを上げさせて、部屋から出て行った。やっぱりいかれている、と俺は思った。でも、あのいかれ方は、俺は嫌いじゃない。

 帰って来たら、口づけでもしてやろうと思った。


 聖一郎に電話をした。今日の、都庁での会議の話をした。彼が言った。

「美治(よしはる)、またあのホテルにいるんでしょう? 今日のは男? 女?」

「女だ。頭がいかれている」

聖一郎が拗ねたような声を出す。忘れずに彼の好きな、ピンクの泡の出るシャンパンを買って帰ってやろう。彼は俺より十五も下だ。甘えられると可愛いと思う。俺は言ってやった。

「でもやる時は、お前のことを考えてる」

「美治もいかれてる……。これからプールに行くから」

彼は電話を切った。切る前に彼は俺にキッスをした。


 プール。あの俳優は、このホテルの四十七階から飛んで、プールに落ちた。

 また、泡、という言葉が浮かんだ。……泡になって死んだ人魚姫。俺はどうしてそんな話を知ってるんだ? 人魚姫。子供の頃、絵本で読んだんだ。死んで泡になるというところが、印象的だったんだ。携帯で人魚姫のあらすじを探した。


 いかれた女が帰って来た。コンビニの袋を下げている。俺は彼女に金を渡した。中にはコンドームの箱と一緒に、プリンとゼリーと小さなスプーンが二つ入っていた。

「どっちがいい?」

彼女が聞いた。俺はまだ人魚姫の話を読んでいた。それによると、人魚姫は海の泡になって死んだのではなく、それから空に舞い上がって、空気の精霊になったのだそうだ。だが王子様とは結ばれなかった。やっぱり悲劇だった。取り返しのつかない。

 俺はゼリーを選んだ。薄緑色のゼリーの中に、小さく切ったフルーツがいくつか浮いている。俺はそれを窓に透かして見た。人魚姫の泡。俺はゼリーを食べた。冷えていて、美味しかった。俺はさっき、女に口づけをしてやろうと考えていたのを思い出した。

 また服を脱がして、一緒にシャワーに入った。彼女との口づけはプリンとゼリーの味がした。小さな乳首にも口をつけた。まるで若い男の物のようだ。


 変な話を思い出した。どこで読んだか全く覚えていない。……その男は人魚に恋をし、恋は成就して、いざセックス、という時、人魚は、私が卵を産むから、貴方が精子をかけるのよ、と言う。セックスができないことを知った男は、絶望し自殺する。


 いかれた女が買って来たコンドームで、正常位で入れた。さっきバックでやったみたいに、細い腰を抱えた。彼女はあの時のように、死体のように、動きがない。

 不感症、という言葉が浮かんだ。なんにも感じていないんじゃないのか? 俺は一度抜いて、彼女の中に指を入れてみた。動かないし、声も出さない。

「君、感じないんだろ?」

俺は言った。彼女はなにも言わなかった。俺の指についた液に泡が混じっていた。

「君は若いから、まだこれからどうにでも変われる」

俺は言ってやった。優しく抱いて、口づけして、少しでも感じるようにしてやった。……どのくらい感じたか俺には分からない。


 女はあまり感じ過ぎると罪悪感を抱くと言う。じゃあ、感じない女には罪悪感がないのだろうか? だからこんな商売をしている?

 この女にはまた会いたい、と思った。そういうことは滅多にない。男の時には時々ある。男の方がプロ意識がある。


 もうじき十六時だ。俺はカーテンを開けて、地上を見た。ここは四十三階だ。俺はいつも部屋を取らせる時は、上層階の、プールの見える部屋にしてもらう。プールが見える。俳優はプールサイドに落ちたんだ。だから泡になって死んだわけじゃない。空気の精霊にはなったかもしれない。


 俳優が死んだ時、彼は背中から飛んだという。警備員の制止を聞かずに。四十七階から。彼は背中から飛んだ。だから、美しい顔はそのままだった。……三十一才だった。

 空気の精霊になった彼は、今でもシャボン玉の中で浮いている。虹色の、石鹸の匂いのする。風が吹くと、虹が流れて、きっととても綺麗だ。

 

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