第5話 約束
本を持った尚人と武朗が最寄りの交番に駆け込んだのは、それから二十分後のことだった。泣きはらした顔で行くのは厭だという尚人の顔に氷入りの袋を押し当てて、武朗が引きずっていった。
借りた本に、血のようなシミがある。その上、血の指紋のようなモノが着いていた、と差し出すと、巡査が慌てた素振りで受話器を取った。
後に知った情報によれば、数ヶ月前に、この辺りのマンションで、男の変死体が見つかっていたらしい。
武朗の身体を借りた男から伝え聞いていた日付で、図書館の貸し出し記録が当たられ、それと被害者の身元が一致した。ちなみにそれは三月二十三日のことだった。どうやらそっちは偶然らしい。
マンションで男がひとり死んでいた事件は未だ捜査中で、事件と事故の両方から検証されていた。尚人たちが持ち込んだ情報から、貸し出し中だったはずの本が返却箱に投函された時刻を調べたところ、その時刻には既に被害者が死亡していたことから、捜査は殺人事件に大きく傾いた。
鉛筆の落書きの下に隠されていた血の指紋と、珈琲の成分が分析され、さりげなく武朗が漏らした、図書館近くの珈琲屋の女店員の指に傷跡がある、という証言から間もなく指紋と血液の照合が行われ、言うまでもなく一致した。
ちなみに店員の名は佐藤芙実で、砂糖は関係なかった。そのままズバリを残していたわけだ。甘ったるい思い違いが恥ずかしい。
「だから、仏に遭ったら魔境と思えと言っただろう」
「どういう意味だよ、それ」
「悟りを開いていない修行僧は言わずもがな、修行もしてない凡人に仏が見えるわけがないから、仏に行き会ったらそれは仏のフリをした魔だってことだ。騙されンじゃねえぞってこと」
「桃源郷は魔境で、砂糖は砂粒だったってわけか」
「始めからそう言っただろ」
「お前、いつから気付いてたんだよ」
「たまたま噂を聞いて、面白半分に本を探しに行ったんだ。そしたら、図書館にあの男がいて、俺は取り憑かれそうだったから近づけなかった。それでピンときたんだ。お前ならどうにかできるだろうってな」
「俺が取り憑かれてもよかったのかよ!」
「お前なら鈍いから見えはしても取り憑かれはしないだろうが」
「ひどい……」
尚人はそれから数日を泣き暮らし、その度に武朗が旨いモノを作って慰めた。
「マッシュルームピザを食べに行くか。ご褒美だろう」
「いるか、馬鹿!」
人を駄目にするクッションを振りかぶって殴りつけたおかげで、武朗は床にダウンして呻いた。
「わわわ、ご、ごめん。大丈夫か」
いたた、と頭を擦って起き上がったその仕草に、尚人は思わず身を引いた。
「やあ、久しぶり。あの時は、ありがとね」
えへへ、と武朗の顔で無邪気に笑ったのは、あの男だ。
「本当に助かった。ありがとう」
「や、いや」
「なんか、ごめんね? 君、失恋したみたいだけど」
「俺の傷をほじくり返して塩を塗るのは止めていただけますか」
「ごめんて」
「気にするな」
「武朗、お前は出てくるなって」
「俺の身体だろ」
「ややこしいんだよ、どっちが喋ってるか」
「ねえ、それでさ」
武朗の頬をぽりぽりと掻きながら、男が上目に尚人を見た。
「何!」
「や、ほら、約束したじゃん」
「犯人捕まえただろ」
「そうじゃなくて、本の結末教えてくれるってさ」
「えええ」
男がもじり、と身体を捩った。
「ほら、僕、読んでる途中で死んじゃったじゃん。もう、続きが気になってさ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ。推理マニアだったんだもん。それで彼女と喧嘩になって」
「嘘だろ!」
「ほんとだって。聞いてみてよ、警察にさ」
「待ってくれよ」
「で、犯人、三木だった?」
目を輝かせて身を乗り出した男を、やや引き気味に見返して、尚人は言いにくそうに口を開いた。
「……読んでない」
「は?」
「読んでないよ。読めるかよ、あの状況で!」
「何で!」
「お前は読めるんですか!殺人事件の犯人分かったし、俺の好きな人は殺人犯だったし、失恋したし、友達は被害者に取り憑かれてるし、読めるわけないでしょうが!」
「約束したじゃん!」
「お前、涙ぐみながらしゅんとして『助けて』って!」
「言ったけど、それとこれとは別でしょ、ていうか、嘘でしょ。あそこで最後まで読まないとか、あり得ないでしょ。本はどこ?」
「……警察。証拠物件だから」
「嘘だろ」
男は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「成仏できない」
「してくれ」
「無理かもしれない」
「武朗!」
「俺は坊主じゃないから」
「すごく取り憑きやすかった」
「だから俺は最後まで読み通せなかったんだ」
「みんなそうだったんだよ。落書きが小説の犯人指摘だと思って読むの止めちゃったり、僕が見えて逃げ出しちゃったり、そうじゃなくても具合悪くなったりでさあ」
武朗と男が器用に交互に喋りながら会話を続けていくのを、尚人はぼんやりと聞いていた。
「まあ、仕方ないからマッシュルームピザでも食べに行くついでに、帰りに古本屋で見つけてこようぜ」
武朗の大きな手が、尚人の肩をぽん、と叩いた。
「で、続きはお前に教えてやる。それが済んだら、兄ちゃんたちに送ってもらえるように言ってやるから」
な、と武朗が何でもないことのように言う。
「……ありがとう」
儚げな声が、武朗の口から漏れた。
マッシュルームピザは、言葉を失うほどに美味しかった。
その絶品のピザを出すイタリアンレストランで二人を迎えたのは、人妻になった尚人の初恋の同級生とその夫で、そのことにも言葉を失った。
「お前、二人が何の店やってるか、ちゃんと聞いてなかっただろ」
「だって、俺さ」
「好きだったんだってよ」
「そういうことをぽろりと言うなよ、お前!」
じゃれ合う二人を、似合いの美形夫婦は嬉しそうに声を立てて笑いながらもてなしてくれた。
心の奥にわだかまっていた硬いモノが、やんわりとほぐれて、サービスで出されたシャンパンと共に流れていった。
今朝のニュースで、坂の途中のカフェの店員が殺人容疑で逮捕された速報が流れ、尚人は少し切ない思いをしたものの、武朗の横顔に流れた一粒の雫で、これでよかったのだと微笑むことにした。
満たされた腹を抱えて、古い本の匂いに埋もれた店に足を踏み入れる。天井までみっしりと詰め込まれた膨大な書籍に目眩を覚えながらも、二人は目当ての本を探した。
さほど時間もかからずに、紺色の本は見つかった。きちんと管理されていたらしい書籍は、金色の蔦の絡んだ美しい書体の装丁で、図書館のぼろぼろだったあれとはまるで別の本のように感じられた。
店から出ると尚人は大きく伸びをして、ふう、と溜息を吐いた。
「さ、帰って読もう。あいつもきっと待ってる」
隣に並んだ武朗の大人しげな気配に怪訝な顔を向ければ、前を見たまま、友人はぽつりと呟いた。
「もう、いない」
「え?」
「今朝、逝った。ニュースを見た時に」
「そんな……だって、結末を聞かないとって」
「ああ、そうだな」
唇を噛みしめた尚人の頭を、武朗の大きな掌が乱暴に掻き混ぜる。
「しょうがねえな。旨い飯作ってやる」
「満腹だからもう要らねえよ!」
「いいから、泣くな」
「泣いてない」
「しょうがねえなあ」
「煩い」
「俺が読めば、あいつにも伝わるから」
本の背で尚人の頭を叩いて、武朗が笑う。
「お薦めの本、リストアップしていってくれた。お前は見込みがあるってよ」
「見込み?何の?」
「推理小説マニア」
はあ、っと大きな溜息を吐いて、尚人は笑った。目尻から、小さな雫が落ちて散ったのを、武朗が見て見ぬふりをして、また頭を叩いた。
外の風は涼しく、秋の気配に満ちていた。
砂糖菓子と読めない本 中村ハル @halnakamura
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