第4話 犯人は
「さあ、先を読んで、僕に教えて」
「お前……武朗をどうした」
「どうもしないよ、借りただけだ。僕には身体がないからね」
小首を傾げて、うっすらと笑った。
「身体がないのは不便なんだ。思うように事が成せない」
「返せよ!」
「駄目だ、君が読むまで、この身体は返さない。人質だよ」
凍える闇の色の目が、尚人を竦ませる。
「早くしないと、持たないよ。頑健な身体だけど魂は柔らかい」
指先がそっと、胸に触れる。
「読んで」
歯噛みしながら、尚人は読みさしの本を取った。今まさに、探偵が呼ばれたところだ。『探偵が必要だ』そう宣言した台詞に、丸が付けられている。
「『告発する、偽装、人畜無害な、佐藤』」
頭を抱える尚人に、視線は注がれたままだ。武朗が、酷く噎せ返るのが聞こえて、びくりと身体が震えた。
「犯人は、佐藤?」
だが、登場人物の佐藤は人畜無害と言うより寧ろ、残虐鬼畜な厭な奴だ。それでは意味が通らない。
「お前、なんだって、こんなこと。ていうか、お前、何なんだ」
「取り憑いてるんだ、その本に。分かるだろう」
「無茶苦茶だ」
「だから、この本は、誰も最後まで読み通せない」
「え?」
その意味を悟って、尚人は本を投げ出した。そうだ、この本を最後まで読み通した奴は誰もいない。
バサリと落ちて開いたページに、茶色いシミが飛び散っていた。液体が紙面を汚した跡がくっきりと残っている。
あれは、ワインのシミなどではない。
尚人の震える眼差しが据え置かれた本を、武朗の指が掴んで拾う。そっと、爪の先が茶色の汚れをなぞる。上目に見る真っ黒な瞳が、三日月の形に歪んだ。
茶色く染まったページが、尚人に向けられる。咄嗟に尚人は顔を反らした。
見てはいけない。誰も、最後まで、読み通せない。その意味は、読み通せた人がいないから。それは、つまり。茶色のシミは。
「珈琲のシミだよ」
くつくつと喉の奥で嗤い声を上げて、男が囁いた。
「よく見て、ほら。『これが、証拠だ』」
耳元で囁いた唇に、身を竦ませる。眼前に突きつけられたページの中でその台詞が、丸で囲まれていた。ぽつりぽつりと描かれた円をたどる。びっしりと紙を埋める物語の上に、もうひとつの物語が、浮かび上がる。
「『これが、証拠だ、犯人は、逃げた、探せ、提出、証拠、警察』」
尚人の目が、印を辿っていく。同じ言葉が、幾度も強調されていた。
「『血の染み、照合、すぐに分かる、犯人は、お願いだ、助けて』」
自分の声に重なった男の声が、鼻声になっているのに気付いて、尚人ははっと顔を上げた。冷え切った黒い色の淵が、赤く滲んでいる。
「助けて、お願いだ」
それは、男の言葉だった。本を掴んだ手が微かに震えている。細い睫の先に盛り上がった水が雫を作り、頬を流れて落ちた。
尚人は本を掴み取る。男が尚人の手首を掴んだ。戸惑うような眼差しが揺らいでいる。
「分かってる」
それだけ言うと、尚人はページを繰った。
先ほどの珈琲のシミよりも、濃い茶色の汚れが、掠れたようにページの端に着いていた。
「『指紋、殺された、証拠、犯人、逃げた、呼んで、警察、証拠、ここに』」
鉛筆でぐしゃりと塗りつぶされたページの隅に、茶色のインクで押された指の形が隠れていた。尚人はぐっと奥歯を噛みしめる。震える指が、紙をそっと送る。男が安堵したように、細い息を吐いた。
尚人の目が、文字を辿る。残された言葉、隠された記録。
「『犯人は、三月、サンガツはミツキとも読める』どういうことだ」
登場人物を整理する。生き残った人物の中にミキ、という男がいた。三つの木で、三木と書く、つまり、ミツキだ。
「だから、何だって言うんだ」
ぼやきながら、先を捲った。そこから先は、何の印も付いていない。ただ、震えるような線がページをよぎり、そのまま掠れて消えていた。
印のないページを先を急いで捲っていく。物語の中で真犯人は探偵に告発され、警察に突き出された。殺人は未然に防ぐことはできなかったが、事件は無事に解決した。
だが、もう一つのメッセージは、ここまでだ。
「なんで肝心なところで印が途切れてるんだ」
「だって、僕は、最後まで読めなかったから」
男が哀しそうに笑う。そうだ、だって。
「『殺された』」
男の指が、尚人が書き出したメモの上を滑る。そしてページを捲りながら、静かな眼差しで尚人を見た。
「『謎は全てはここに開示された。賢明なる読者の皆様方は、提示された証拠を元に犯人を推理してください』」
ひっそりと、男が笑う。泣き笑いの顔で『読者への挑戦状』と書かれたページを指さした。そこには、微かに、爪で引っ掻いた丸が挑戦状を囲んでいた。
「謎は全て、開示された?」
「そう、僕ができる限り」
尚人はメモを見下ろした。走り書きされた文字。
殺された男が命が尽きるまでの間、証拠を残し続けた本。まるごと一冊が、殺人の証拠だ。床に落ちていたラムネの袋を取り上げ、一粒を口に放り込む。ゆっくりと噛みつぶす間に、冷たい茶を飲み込んだ。じんわりと、冷たい流れが脳を冷やす。もう一粒、白くて甘い塊を口に含む。尚人は自分に言い聞かせるように、声を発した。
「もう分かったことは、除いていこう。まず、この本が、犯人を告発する証拠だってことと、警察に殺人だということを知らせろという意味の単語を除いていく」
がりり、とラムネを奥歯で噛み砕く。
「残ったのは『二十三ページ、珈琲、罪、人畜無害な、佐藤、言い換える、三月、サンガツはミツキとも読める』……二十三ページに、何かあったか?」
戻って確認するが、特にめぼしい印は見当たらない。
「二十三、三月、サンガツ、ミツキ『3』ていう数字に何かあるのか」
「そうすると『珈琲、人畜無害な、佐藤』が余る。罪も忘れるな」
「武朗!」
聞き慣れた声音が響いて、尚人は友人の肩を掴む。
「うわ、お前、気持ち悪っ」
覗き込んだ武朗は、小刻みに白目と黒目を反転させていた。
「ひっど」
武朗の口から男の声が、堪らず噴き出す。けらけらと、朗らかな声を上げて、男が笑っていた。その隙間を縫って、仏頂面の武朗が顔を出す。二人は交互に入れ替わっているようだった。
「器用だな、お前」
感心して呟いた尚人を、武朗の表情が睨み付ける。
「いいから早く解決してくれ、吐きそうなんだ。そりゃそうだよ、二人分入ってるからね」
途中から男の声で話しながら、武朗が手で急かしてくる。
「簡単に言うけどなあ」
「簡単だろ、もう、答えは見えてる。ほら、すぐそこに」
二人の声が重なって、差し示す。
頭を抱えてラムネ菓子を口に放り込んだ。甘く儚い冷たい香りが口に広がる。
「人畜無害な、佐藤、珈琲」
奥歯で噛みしめた白い菓子は、容易く砕けて崩れた。
「言い換える、佐藤、罪、二十三ページ」
胸の奥が、酷く痛んだ。ナイフで切りつけられたみたいに。息が、できない。
指先がガタガタと震えて、膝から崩れるように座り込んだ。
「人畜無害な砂糖……言い換え……二十三は二(ツー)、三(ミ)で罪と読める。人畜無害な砂糖菓子のようで、珈琲に関わる人物……罪は23、それをさらに読み替える……つまり『罪』と『23』は同じ人物を表していて。読み方を変えれば『フミ』だ」
震える自分の声が、そう告げるのを、誰か他の人の言葉のように尚人は遠くで聞いていた。
魂が零れるみたいな、深い深い溜息は、一体、誰のモノだっただろうか。
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