第3話 本と落書き

 デザートまで平らげた後、人を駄目にするクッションで駄目になりながら、武朗が何かを呻いた。尚人がちらりと視線を投げると、半眼の眼差しで、気怠げに手を振る。気にするなとでも言いたいのだろう。気になる。こちらはクッションを没収されて、硬い座椅子に座らされているのだ。眠気覚ましにと、濃い緑茶も用意されているが、差し出される時に日本人の大半はカフェインが効かない体質だ、という豆知識も加えられたので、プラシーボ効果すら期待できない。

 武朗が、あっという間に小さな寝息を立てるのを聞きながら、尚人はページを捲る。

 始めの方は、特に何事もなく読み進んだ。

 初めて聞く作家だったが、それは普段、本格派の推理小説を読まないからで、実は有名なタイトルなのかもしれない。堅苦しい文体ながらも、読みにくさや古くささは感じず、気がつけば没頭していた。

 始めにおや、と思ったのは二十三ページだった。本の端に添えられたページ数が丸で囲まれている。だが、その前後は特に何も記されてはいない。何か、ヒントになるページなのだろうか。さらに読み進むと、館に閉じ込められたメンバーが、食卓で飲み物を振る舞われている場面で、珈琲を飲んだ人物全てに印が付けられていた。

「厭な予感がする……」

 やはりこれは、よくある図書館で借りてきた推理モノの、落書きあるあるではないのか。

 案の定、珈琲を飲んだ者から第一の死者が出た。こいつ、誘導するつもりだ。確か本格推理小説では、探偵と共に謎解きを楽しみつつ、読むはずである。目次を見る限り『読者への挑戦』というページだってあった。ミスリードをしようというのか、正解へのヒントのつもりか。どちらにしても、煩わしい。

「戦ってやる」

 尚人は無闇に闘志を燃やした。この印を付けた奴の意図を見抜いて、それを出し抜いてやる。よりよいヒントを探そうと、頭をフル回転して読みふけった。

「尚人、尚人」

「あ?」

 呼び声に顔を上げる。いつの間にか、武朗がクッションから頭だけもたげてこちらを見ていた。

「大丈夫か?」

「え、ああ?」

 時計を見れば、三時間が過ぎていた。

「休憩するか」

「や、いい」

 途中で止めることなど、考えられない。面白くて、引き込まれた。いつの間にかヒントを見つけるなどということも忘れて、ただただ繰り広げられる事件に翻弄されていた。

「や、お前、トイレも行ってないだろ。一回水分摂れ」

「あー、そうだな」

 言われてみれば、喉がからからだった。冷えてしまった濃いめの緑茶を一息に煽る。不足していた水分が、脳に補われる。滞っていた血流がさらさらと動くのを感じた。

「糖分補給だ。脳に栄養を与えろ」

 投げられた袋を受け取る。昔懐かしいラムネ菓子だ。尚人が子供の時分は、ラムネ瓶をもしたプラスチック容器に入っていたが、今はチャック付きの袋に変わっている。水色のパッケージに赤い文字で『ブドウ糖』と記されていた。確か、将棋のすごい人も、試合中にブドウ糖の結晶を食べるという話を聞いたことがある。よし、やれる。

 口に二三粒のラムネを放り込むと、武朗がクッションから腕を伸ばしてばたついていた。

「横着するなよ」

 どうやらテーブルの上に置かれた、作り置きの茶を飲めと勧めてくれているらしい。硝子のポットを手に取って色気のないマグカップに注ぎ、武朗にも手渡す。ごくりと飲み干しながら横目で見ると、武朗はちびりちびりと日本酒でも啜るように舐めていた。どうあっても、クッションから起き上がりたくはないらしい。

「ちょっとトイレ借りるわ」

「どーぞ。あ、それは置いてけ」

「え?」

「本、持ったままだぞ」

「あ。やば、汚したら怒られるな」

「そうそう。ただでさえ、こんなに汚れてしまってるのに、なあ」

「だなあ」

 テーブルの上に置いた本を、武朗は横目でじっと眺めていた。


 手洗いを済ませ、気分転換に顔を洗って戻ると、武朗はうつ伏せに突っ伏して、また寝息を立てていた。よく眠る奴だ。

 先ほど閉じて置いたはずの本が開いている。武朗が少し読んだのだろう。茶色いシミの広がったページだったから、汚れが気になったのかもしれない。

 拾い上げたが、まだ読んでいないところだったので、すぐに本を閉じた。途端に、うう、と武朗が呻く。

「ったく、いい気なもんだ」

 こちらはマッシュルームピザと都市伝説の検証と、あの男に結末を教えるという重荷を背負って、大いなる謎に挑んでいるというのに。

 中断したところからまた、読み始める。事件は四人目の被害者が発生し、館がパニックになっている場面だ。

 尚人は、おや、と首を捻った。雪に閉ざされた館の中で、次に殺されてしまいそうな男が叫んでいる。『警察を呼べ!』そんなどうということもない台詞が、鉛筆でぐるぐると囲まれていた。この状況では、当たり前だろう。誰だって警察を呼べと言うはずだ。

「ひょっとして」

 警官が犯人なのか? 確か駐在の巡査がいたはずだ。あいつなら、道が断絶されていたとしても、勝手知ったる山の中を進んで館に来られるはずだし、そもそも、道が閉ざされる前に敷地内に隠れることも可能だろう。

 してやったり、とほくそ笑みながら、尚人は先に進んだ。

「尚人、紙」

 気怠い声に呼ばれて首を巡らせると、ほぼ目を閉じたままの武朗が壁際の机を指さした。

「紙と鉛筆でメモ取れ。推理に必要だぞ」

「ええ、いいよ。そこまでしなくても」

「お前、マッシュルームピザとデートするんじゃないのか」

「デートの約束をしたのはフミちゃんとで、マッシュルームピザとじゃない」

 寝ぼけている武朗に訂正すると、何か言いかけていた背中が大きく咳き込んだ。

「おい、大丈夫かよ」

 気管に唾でも入ったのか、げほげほと苦しげに背を丸めている武朗に近づき、背を擦ろうと手を伸ばす。その手が、ばちん、と打ち払われた。

「何すんだよ!」

「触るな。いい」

 噎せ返りながら顔を上げた武朗の目つきが、危うかった。

「おい、武朗? どうした、お前」

「いいから。お前は先に進め」

 武朗の指が空を掻いて、床に落ちる。慌てて駆け寄った尚人の足首を、がっしりとした掌が掴んだ。

「襲うぞ」

「はあ?」

 何言ってんだ、と見下ろした尚人に、にやりと武朗が嗤う。

「馬鹿な冗談言ってんなよ」

「はは、悪い。寝ぼけてて」

「まったく」

 ばしん、と叩いた武朗の背中は、酷く冷たかった。

「お前、身体冷えすぎじゃない」

「かもなあ。ちょっとそこのあれ取って」

 丸めて椅子の背に引っかけてあった黒の薄物を掴んで、尚人は眉を上げた。

「お前、これ、着物じゃねえの」

「そうそう、じいちゃんの形見」

「毛布にするなよ」

「だって、俺着ないもん」

 お坊さんがよく着ている、薄い絹の黒い着物だった。何という名なのか尚人は知らないが、焚きしめられた香のいい薫りがする。武朗の祖父は孫によく似たがっしりとした体格の、巌のような人だった。尚人も悪戯をしては叱られたものだ。厳しい人ではあったが、遠方からも何やら相談に来る檀家さんが後を絶たず、武朗はそんな祖父によく懐いていた。懐かしい香りを吸い込むと、それを武朗の背に掛けて、また本を開いて座る。

「印が付いてたとこ、リストアップしろよ」

「分かってるって」

「関係なさそうなことでもだぞ。後でお前の無知をあざ笑うネタにするから」

「厭な奴だな」

 眉をしかめて苦笑しながらも、尚人は素直に全ての印を見直して書き出していく。本当に何の役に立つのか、さっぱり分からないが、武朗の言うように後で真相が分かった時に『なあんだ』となるのかもしれない。

「この本に印を付けた奴が、正解にたどり着いたとは限らないけどな」

「まあ、その時はその時だ」

 読み終えた分までを抜き出して、次のページを捲る。

「二十三ページ、殺人、珈琲、『警察を呼べ!』で、次は」

「『犯人は』」

 武朗が低い声でそう告げた。一瞬、実は武朗が先にこの本を読んでいてネタバレするのかと思ったが、そうではなかった。彼なりに、推察を巡らせているらしい。

 捲ったページの先は、登場人物たちが犯人が誰かを推理し合うシーンだった。幾つもの印が文章の中にちりばめられている。

「『犯人は、罪、言い換える、ダイイングメッセージ、告発する』ってこれじゃあ、何のヒントにもならないじゃないか」

 当たり前のこと過ぎて、どこにも犯人につながらない。武朗は、また、寝息を立てている。ぱらり、とページを捲る。また、殺人。簡単に人が死ぬ。この中では人は人ではなく、舞台装置の一つに過ぎない。消費される命は、幾ら潰されても嘆かれることはない。

 それでも、物語の中で、登場人物は殺される。殺され、懇願し、恐怖に落ちる。

 叫ぶ被害者の言葉に、印が増えていく。

 逃げ惑う人の形をした無力な舞台装置が、声を発する。尚人はそれを拾い上げてメモに並べていく。殺人現場に落とされた証拠を集めるように。

 本を見ながら横目で走り書きしていた手を止めて、尚人はぎくりと、身体を強張らせた。真っ白な紙に書き出されていった無残な叫び。ばらばらに拾い集めたはずのそれは、気がつけば、はっきりとした声で尚人を呼んでいた。

『助けて、殺された、探偵を呼べ、犯人は』

「武朗、おい、起きろって」

 冷たい肩を揺さぶる。武朗の筋肉質な腕が、力なく、だらりと垂れる。背にかかっていた香の薫る薄布がはらりと落ちた。

「武朗!おい!」

 頬を掴んで顔を覗き込むと、ぐるん、と白目を剥いた視線とかち合って、尚人は後退った。にたりと、武朗の唇が嗤う。尚人の知らない顔。

 武朗の腕が、ゆらりと上がった。幾度かゆっくりと瞬きをして戻った眼球は、黒く凍てついた色をしている。

 その眼差しに、覚えがあった。図書館の庭で会った、あの男のあの眼差し。武朗が口を開く。その喉から漏れる声音は武朗の声だが、別の人の音だった。

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