第2話 読めばいいんですね
それから尚人は、岩に刺さった伝説の剣を抜くべく、足繁くあの坂の上の図書館に通った。
勿論、途中のカフェにも寄ったが、砂糖菓子の笑みを力に変えて残りの坂を上がりきった。ちなみにシュガーベイビーの名前は
図書館に行くのだと言ったら、昼用にと、サンドイッチを詰めた可愛らしい箱を手渡してくれた。
日の当たる外のベンチに腰掛けて、尚人はたった今借りてきたばかりの本をためつすがめつして、ぱらりとページを開いた。
色あせて、タイトルも霞んだ紺色の古い本。紙は黄ばみ、ページも所々剥がれ落ちてしまいそうだ。
「汚い本だな」
珈琲だかワインだかを片手に読んだ人がいたのだろう。ページの半ばに大きなシミが着いていたが、文字が読めないほどでもない。今時の図書館は、磁気カードで貸し出しを管理しているから、かつての紙の図書カードのように、どれほどの人がいつ借りていたのかという記録も見ることはできなかった。
ぱらぱらと、読むとはなしにページを繰っていく。タイトルから察するに、推理小説のようだ。本格派と呼ばれる、ロジックとトリックを多用した殺人事件。巻頭には室内の見取り図が添えられている。
並んだ目次に視線を走らせて、おや、と思った。消された後がうっすらと残っているが、誰かが鉛筆か何かで印を付けたのだろう。二章と三章を囲んだ丸の形に紙が窪んでいた。
「推理小説に落書き……もう厭な予感しかないんだけど」
当たりを引いた手応えが、四十九冊目にしてあった。読み通せない推理小説、落書き、とくればもう答えは目に見えている。余白に書かれた『犯人は……』と告発するネタバレの類いだ。知ってしまえば何ということのない都市伝説の真相。解答編を待たずして、絶妙なタイミングで犯人をばらされてしまった本格推理小説ほど、先を読むのがおっくうになるモノはない。
「幽霊の正体を見たり枯れ尾花、とか言うんだろうな、アイツ」
「何が?」
「う、うわ」
背後から降ってきた声に飛び上がって、尚人は恐る恐る振り返る。
自分より、ほんの少しだけ若い男が、にこにこしながら立っていた。
「それ、読むの?」
「え、ああ、これ? もしかして、借りようとしてた?」
紺色の本を覗き込んでいる男に、尋ね返した。つい、相手につられてため口になってしまったが、男は気にした素振りもない。
「僕は途中まで」
「え」
「途中までしか読んでないんだ」
「じゃあ、都市伝説は本当なんだ」
「最後まで読み通せない、ってあの噂?」
目を三日月の形にして、男が笑う。
「これ、そんなに面白くなかったのか?」
「そんなことないよ。僕は楽しんで読んでた」
「でも、途中で止めたんだろ」
「読めなくなっちゃったからね」
そっと目に触れた仕草に、尚人はしまった、と慌てた。病気か何かで、視力が弱ってしまった可能性もある。
「そうだよ。物理的に読めなくなっちゃったんだ」
尚人の困惑を察知して、にこやかにそう告げる男の笑顔に、尚人のどこかが警戒信号を発した。
「ええと、あの」
「だからさ、最後まで読んで、僕に教えてくれないかな」
「な、何を」
「その本の続きを」
やられた、と尚人は心の中で頭を抱えた。最後まで読み通せない理由は、これかもしれない。と泣き出したい気持ちで男を見上げる。
誰もが途中で投げ出すほど本の内容が不出来ならば、日本中でこの書籍の評価が下がっているはずだ。だが、巷間の噂に登るほどの駄作ならば、それこそあちこちで耳にしていてもよいはずなのに、あくまでもこの地元の都市伝説でしかない。だとすれば、読み通せない理由は書籍の出来不出来ではないのだ。
この図書館で件の本を手にした者はこの男に絡まれて、読まずに逃げ出すに決まっている。それが本を読み通さない理由だ。借りてすぐに鞄に放り込み、さっさと家に帰れば捕まることもなかったのに。
「あー、あの」
「怖がらないでよ、別にストーカーとかじゃないし。全部読んだら、返却の時に僕に教えてくれたらいいんだ。待ってるから」
男の笑顔は、屈託のないように見えて、目の底が黒く冷たく凍てついていた。
目の前に、完璧な薄焼き卵で包んだオムライスが差し出される。思わずごくりと唾を飲みこんでスプーンに伸ばした手を、ぎゅっと押さえられた。甘い話ではない。万力で掴まれたような力である。
「よしきた、でかした、そいつが当たりだ!」
もう片手で黄色い山の真ん中に万国旗を突き立てながら、武朗が目を輝かせた。
「ぜんっぜんハズレだけど。俺の話を聞いてくれていましたか」
「聞いてた。その男のことは置いといて」
「置いておけません。俺はアイツが怖いんです」
「別に連絡先交換したりとか、名前教えたりとかしてないだろ」
「してないですけど、怖いんだよ。お前は当事者じゃないからそんなに呑気にしてるけどさあ!」
「大丈夫だって。図書館に行かなきゃいいだろ」
「後着けられてたらどうするんだよ!」
「尾行なんて、お前、刑事ドラマの見過ぎだ」
ほら喰え、とスプーンを手に押しつけて、武朗は向かいで両手を合わせてオムライスを食べ始める。銀色のスプーンが黄色く薄い卵を割って、中から湯気が巻き上がる。ケチャップライスの魅惑の匂いが鼻腔を擽る。
たまりかねて尚人は、自分もスプーンを熱々の山に突っ込んだ。旨い。胸いっぱいに息を吸い込む。薄焼き卵の裏側は、とろとろすぎない程度に半熟を保っているし、ハムではなく鶏肉を使ったケチャップライスからはバターの香りが奇襲を掛けてくる。
「お前、喰ったな」
「お前が喰えって言ったんだろう」
「この間の青椒肉絲は、神戸牛だし、今日のオムライスは烏骨鶏の親子だ」
「……」
「おわかり?」
「察した」
「よろしい」
「読めばいいんですね……」
「もしくは金で解決もやぶさかではない」
「お前、兄さんに告げ口するぞ」
「返り討ちに遭うぞ。うちの兄たちは肉類を食わない。坊主だからな。決して肉が嫌いなわけじゃないんだ。つまり、肉食に飢えている。そこに『旨い肉を食わされたんです、助けてください』とか訴えてみろ。命がいくつあっても足らんぞ」
「矛盾してない?」
「肉食はしないが魔を滅ぼすのは厭わないと思う」
「そこは戒律に反しないの」
「坊主だって人だ。欲望くらいある。だから修行している」
「お前、怒られるぞ」
「かもな」
がつがつとオムライスをかっ込みながら、武朗は肩を竦めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます