砂糖菓子と読めない本

中村ハル

第1話 最後まで読み通せない本

 最後まで読み通せない本がある。

 友人の武朗たけろうから聞いた地元の七不思議を、尚人なおとは半信半疑で聞いていた。

 その本は、坂の上の図書館にあるという。あまりの急勾配に本を手にする前に力尽きて、笑顔の可愛い店員というトラップを仕掛けて途中に待ち構えているカフェに、用向きを変えざるを得ないくらいの坂だ。それを越えた先にある、ひっそりと佇む小さな図書館。その一番奥の棚のどこか。色あせた紺色の布張りの本。

 分かるのはそれだけ。

 表紙が紺色の本など、どれだけあると思っているのだ。そもそも、探すこともできないから、読み通せないんじゃないか。いや、始めからそんなモノは都市伝説で、実在するとも思えない。

 尚人は溜息を吐いて坂の途中で視線を横に流した。うんざりするほど急な斜面で心を挫いたその辺り。クリーム色とアイスブルーの優しげな外観が、手招きしている。

「俺の心が弱いのではない。あちらの魅力が俺の強度を上回っていただけ」

 それを心が弱いというのではなかろうか、と脳みそのどこかが鼻で笑うのが聞こえたが、無視をして扉を開けた。

「……完敗だ……」

 珈琲の香ばしい香りに紛れてぶち当てられたのは、ほんの少し右に傾いで笑う甘やかな砂糖菓子のような店員だった。

「いらっしゃいませ」

 一も二もなく、席に着いた。

 もう、伝説の本にたどり着ける気はしなかった。


「いや。駄目でしょ。お前、心脆すぎでしょ」

「そういうお前は行ったことがあるのかよ」

「あるよ。あったから言ったんじゃないか。あそこは魔境だってな」

「魔境だとは聞いてない。『桃源郷を見た』って言ってたぞ」

「そうだったかもしれない。同じだろ」

「違うだろ」

 武朗はううん、と咳払いをして、見た目にそぐわぬ乙女のような手つきでバームクーヘンをフォークで切った。小鳥にでも与えるのかと思うような小さな欠片をフォークで刺して、がばりと開けた大口に放り込む。意味が分からない。

 尚人は指先でバームクーヘンの外側を剥がして口に入れながら、同時に茶を流し込んで武朗に厭な顔をされた。バームクーヘンと茶は、数年前に同級生だった美男美女の結婚式の引き出物だ。今は二人で飲食店を経営しているらしく、店の味が保証されるようなチョイスだった。

 二層目から五層目を薄く剥がしながら、尚人は優雅に茶を啜る武朗を促した。

「それで?」

「仏を見たら魔境と思え、って言うだろう」

「知らないし、桃源郷の話はもういい」

「そうか、大事なことだぞ?」

「分かった、じゃあ、あの喫茶店は魔境だ」

「そうだ、店員はなかなかに魅力的だが、いかんせん、珈琲が不味い」

「不味いって言うほどでもなかったぞ」

「お前は『牛乳が入っていたら何でも美味しく飲める民』だろ。ミルクスタンドのある国に生まれりゃよかったんだ」

「スタバがあるからいいよ」

 薄く剥がした層を丸めて口に入れると、武朗が「何のために薄くしたのよ」と突っ込んでくる。尚人の眼が、小さく切られた武朗のバームクーヘンを見つめた。

「俺は、お前が読み通せない方に金一封を駆けようと思います」

 目の前に差し出された二万円に、尚人はゴクリとバームクーヘンを飲み下す。

「ちょっと、行ってくる」

「今からかよ!」

「思い立ったが吉日。棚から二万円」

「俺の財布からだけどな」

「残りのバームクーヘンは、食べていいぞ」

 バームクーヘンの贈り主の美しい花嫁は、尚人の初恋の人だった。


 あのそびえ立つ山に、三度アタックした。

 三度とも魔境に阻まれ、尚人は砂糖菓子の甘さを珈琲で溶かして時間を飲み込んだ。四度目に彼女の名前を知り、五度目に好きな物を知った。彼女が好きな物は、マッシュルームピザだった。

「今度、一緒に食べに行きませんか。俺、旨い店を知っているから」

 知っているのは武朗だったが、頼めば断る奴ではないことを尚人は知っていた。

「喜んで」

 蕩けるような笑顔が答えた時、魔境は桃源郷に変わった。伝説の本は、最早越えなくてはならないアンデス山脈ではなく、遠い昔話の中に閉じ込められた霧の中の竜となった。誰も、あれを起こしてはならない。

「誰も寝てはならぬ。寝たら死ぬぞ」

 マッシュルームピザの店を尋ねた尚人に、青椒肉絲を炒めていた菜箸をびしりと突きつけ、武朗は目を眇めた。

「素人が山でビバークするモノではない。人間は桃源郷で酔い潰れて眠るモノではない」

「お前、登山なんてしないじゃん。するのは山ごもりぐらいだろう」

 武朗は寺の三男坊だ。

「しないな。登山も山ごもりも。俺は兄たちと違って坊主に向いてない。ちょっと言ってみたかったんだ。お前がアタックとか言うから」

「例えだ、例え」

「難攻不落の山だろう。そうだろう。旨いだろう」

 熱々の青椒肉絲を菜箸で口に突っ込まれて悶絶しながら、尚人はふがふがと武朗に抗議する。今あの店員を逃したら、次はいつどこに恋が落ちているか、知れたモノではない。

「馬鹿め。魔境で魔物に話しかけるな。魂を抜かれるぞ」

「もう抜かれた」

 でれでれとにやつく尚人に溜息を吐いて、武朗は小首を傾げて口を開く。

「それなら、こうしよう。お前があの図書館の奥深くに隠された伝説の剣を持ち帰り、山に眠る竜を退治できたら、褒美として最高のマッシュルームピザを与えよう」

「お前一体誰なのよ」

「王、かな」

 にやりと笑った武朗は、湯気と腹の虫が騒ぐ香りの立つ皿を、尚人の眼前に突きつけた。

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