――辻斬りの女――

1. 滅びの日


「ねえ、お兄様。どうしてお父様は人間を滅ぼそうとしないのかしら」


 私が訊いたとき、お兄様は少し困ったように笑って、日の当たる窓際で、お気に入りの揺り椅子をぎしりと鳴らした。


「ぎゃくに訊くけれど、チヨはどうしてそんなに人間を滅ぼしたがっているんだい」


 お兄様はよく、私の質問を、質問で返してくる。

 答えをはぐらかされているようで腹が立つのだけれど、微笑をたたえて首をかしげるお兄様は好きなので、私はいつもそれを許してしまうのだ。


「だって、小賢しいじゃない。妖力もないのに、いつも魔界に攻め入ってきて。身の程を知らないのよ」

「はは、そうか、小賢しいか」


 お兄様は笑った。

 どこか私を小ばかにするような温度を含んだその笑いに、私はとても腹が立った。


「ばかにするなら、質問にこたえてよ」

「僕はお父様じゃないから、分からないよ」

「嘘ばっかり! いつもお父様と目で会話しているくせに!」

「ふふ。では、僕の想像で良ければ、答えてあげよう」


 お兄様は椅子からすくっと立ち上がって。

 そして、ゆっくりと暖炉の近くへと歩いて行った。

 それから、暖炉の上にかけてある模造刀を一本、手に取る。


「ほら、稽古の時間だよ、チヨ」

「質問の答えは?」

「稽古をつけながら、お話しよう」


 お兄様から模造刀を受け取る。

 何度持っても、ずしりと重くて、本物の刀はこれよりももっと重いのだと聞かされるたびに、そんなもの振れるはずがないと思うのだ。

 お兄様は自分の刀の下緒さげおつばにぐるぐると巻き付けて、鞘が払えないようにしている。

 私は、模造刀を構えて、お兄様に相対する。

 お兄様も、鞘に収まったままの刀を構え、私の正面に立った。


「では、好きな頃合いに、かかってくるといい」


 お兄様は、刀を持つと、雰囲気が変わる。

 いつもの優しい表情の後ろに、どこか一本の筋が通るようで、それはとても凛々しく、そして不気味だった。

 じわりと、背中に汗が浮かぶ。


「…………はッ!」


 私が刀を振りかぶり、お兄様の面を打つ。

 もちろん、これが決め手になるとは思わない。お兄様は軽くいなして、私の小手を狙って、刀を振ってくる。素早く腰を落として、体重を利用して刀を下げ、お兄様の攻撃をしのぐ。


「上手にしのぐもんだ。チヨは飲み込みが早い」

「せいッ!」


 お兄様の余裕な表情に腹が立って、私は思い切り彼の胴を狙って刀を振る。しかし、それも空振り。お兄様は無駄のない重心移動ですでに後方に下がっていた。


「チヨは僕を倒したい。しかし、僕に有効打を与えるためには、僕より身長の低いチヨは、深く間合いに入り込む必要があるね」

「はぁッ!」

「おっと! そう、そんな具合にね。でも、チヨはあまり不用意に飛び込んでこられない。どうしてだろう」


 決死の飛び込みもお兄様に軽くかわされて、私は息を整えるために少し彼から距離を取った。

 呼吸が乱れている私を見て、お兄様は笑う。


「敵の懐に入るというのは、自分も手痛い反撃を食らう可能性があるからだ」

「私が臆病だって言いたいの?」

「違うさ。そもそも生き物とはそういうものだ。生きるために、生まれて来た。だから自分が死にそうになることを想像すれば……恐ろしいッ!」

「――ッ!」


 ダンッ、と床が鳴り、気付けば目の前にお兄様がいた。そして、頭上から彼の振るう刀が落ちてくる。

 反射で、両手で自分の刀を頭上に振り上げて、その攻撃を防いだ。

 しかし、両腕を上げてしまったせいで私の胴はがら空き。

 お兄様の右足が、私の胴にずどん、と刺さる。


「う゛ッ!」


 後方に吹き飛びながら、私は刀を手放して、なんとか受け身を取った。

 模造刀がカランカランと、床に転がる音が響く。


「ごめん、うっかり本気で蹴ってしまったよ」

「げほっ、お兄様……ひどいわ」

「でもちゃんとお腹に力を入れて、かかと鳩尾みぞおちに入るのは防いでいたね。やっぱりチヨは飲み込みが早い」

「もう前みたいに鍛錬のせいで朝食をすべて戻してしまうのは御免です」

「ふふ。ほら、手を出して」


 お兄様に差し出された手を握って、起き上がると、そのままぐいと引っ張って、お兄様が私を抱き寄せてくれた。

 そして、頭を何度も、優しくなでてくれる。

 いくつになっても、お兄様に頭を撫でられるのは、心地よくて、好きだった。


「……ではなくって!」

「うん?」

「どうして人間を滅ぼさないのか、というお話! うやむやにしないで!」

「ああ、そうだ。途中だったね」


 お兄様は笑って、私が床に落としたままにした模造刀を拾いに行った。


「戦いながら話していたことだよ。つまり、他人の懐に潜り込むには、勇気がいるということだ」

「それが?」

「チヨが『小賢しい』と言った、人間たちのことだよ」


 お兄様の言葉に、私は少し、気まずさのようなものを感じて、唾をのみ込んだ。


「彼らは本気で私たちの懐へ潜り込んできている。死への恐怖がないわけではないはずだ。各々がその恐怖を感じながら、しかし勇気を奮い立たせて、勝利のために進軍してくる」

「でも、そんなの無駄死にじゃない……。勝てない相手に挑み続けるなんて」

「僕はそうは思わない。彼らは、彼らの守るべきもののために戦っている。何度負けを重ねようとも、彼らにとって大きな問題ではないんだよ、きっと」

「どういうこと?」


 負けるのが分かっていて戦いを挑むなんて、死にに行くようなものだ。

 お兄様の言うように、生物が「生きるために生まれて来た」のだとしたら、その行動原理とは相反しているように思える。

 でも、お兄様は穏やかに微笑んで、模造刀を私に差し出した。


「今日勝てなくても、明日は勝てるかもしれない。明日勝てなくても、明後日は勝てるかもしれない」

「……ッ」

「教えたはずだよ、チヨ。毎回、勝つ気で闘いなさい、と」

「……ええ。鍛錬は、そういう気持ちで、いつだってやっているわ」

「そうだろう。そして、チヨが……本来闘う必要なんてないチヨが、こうして僕に戦い方を教わろうとしているのは、どうしてだったっけ?」

「……少しでも、お父様のお役に立ちたいから」

「うん。きっと……人間たちも同じさ。守るため……そして、勝ち取るために、戦っている」


 お兄様はそう言って、もう一度、ぐい、と模造刀を私に向けて突き出してくる。

 私は、おずおずと、それを受け取った。

 満足したようにお兄様は踵を返して、また窓際の揺り椅子へと向かった。そして、ぎしり、と音を立てて腰掛ける。


「でも……じゃあ」


 私は、どこか釈然としない気持ちが胸の中に渦巻いて、それを吐き出すように言葉を続けた。


「それならなおさら、さっさと征服したらいいじゃない! その方が、人間だって、無駄に命を失わなくて済むわ」

「うーん……そうだな」


 お兄様はまた、困ったように笑う。

 彼がああいう顔をするときは、たいてい、言葉を選んでいる時だ。

 私にも分かる言葉を、選んでいる時。

 私はまだ、お兄様と同じ地平で話をできていないのだ。それがとても悔しくて、彼がああいう表情になるたびに、胸が少しだけ痛む。


「チヨの言う通り、征服してしまえば、散っていく命の総数は、減らせるかもしれない」


 お兄様はそう言ってから、ゆっくりと息を吐いた。


「でも……命のかわりに失われるのは、“尊厳”だ。それは……きっと、彼らが命を懸けて、守ろうとしているもの。命よりも、大事なものだ」


 お兄様の言葉は、どこか重くて、とても大事な意味が籠っていると思った。

 でも、私には……それはきっと、理解できていない。

 何も言えずに、首を傾げるだけの私に、お兄様はまた、優しく微笑む。


「まあ、つまりは、父上も、僕も、人間を滅ぼす必要は感じていない、ということなんだ。それよりも、対話を望んでいる」

「対話?」

「そう、手を取り合う未来を一緒に考えるための、対話だ。僕たちは、それを必要だと考えている。でも、人間たちは、まだその必要性に気付いていないか……もしくは、まだそれを認めることができないんだ」


 どうして。

 疑問は、最初に立ち返る。

 お父様も、お兄様も……何度も魔界が人間に攻め込まれているというのに、いつもいつも、それを追い返すだけで、どこか優しい瞳で、それを見ている。

 人間に戦で負けたことはないけれど、それでも、魔族だっていくらかの血が流れて、悲しみを背負っている者たちはたくさんいるはずなのに……。


「そんなに悲しそうな顔をしないでおくれ」


 そう言って、お兄様は窓辺で微笑んだ。


「いつか、分かり合える。彼らが理解するまで、僕たちは、対話の必要性を伝え続けるだけだ。彼らが武をもってしか我々とコミュニケーションを取らないのであれば、同じ方法で、返し続けるだけだ」

「どれだけ時間がかかっても?」

「そうだよ、お父様が亡くなって、僕がおじいさんになっても、だ」

「そんなの……気が遠くなってしまうわ」


 私の言葉に、お兄様は可笑しそうに笑って。

 それから、小さく、頷いて見せた。


「気の遠くなるほど長い歴史の中で、僕たちは生まれた。だから、僕たちも、焦らず、ゆっくり歩いてゆけばいいんだよ」


 お兄様のその言葉は、私に実感を伴って届くことはなかった。

 でも……お兄様の微笑む顔と、そして、彼の頬に当たる柔らかな日差しが眩しくて、私は少しだけ、目を細めた。

 そして、人間たちのどうのこうのはもはや些細なことで、このお兄様がいれば、魔界はきっと大丈夫だろう……なんてことを、考えていた。


 目の前で、お兄様が斬り殺されるまでは。



 ×  ×  ×



 血、そして煙のにおいが立ち込めていた。

 定期的に爆音が響き、そのたびに私は身体を縮こまらせる。

 突然。

 突然のことだった。

 空から大量の火の玉が降り注いで、魔界の街々が燃え盛った。

 そして、さきほど、ついに魔界の防衛の要であった大妖だいようの塔も何か光線のようなもので貫かれて、壊れてしまった。

 人間には妖力もなくて、妖術は使えないはずなのに、信じられない状況だった。

 どうしてよいか分からず、自室で震えていた私。

 廊下からドン、ドン、と慌ただしい足音が聞こえ、それから扉が開かれた。


「チヨ! 無事かい!」

「お兄様ッ!」


 扉を開けたのがお兄様であるのを確認するや否や、私は駆け寄って、抱き着いた。

 お兄様は私を抱きとめて、そして頭を撫でてくれる。

 けれど、その声色は、いつものように余裕のあるものではなかった。


「いいかい、落ち着いて聞くんだ。大妖だいようの塔が破壊された。妖力結界ようりょくけっかいを失った我々の城は……もう長くはもたない」

「そんな……! お、お父様は! お父様は無事なの!?」

「ああ、無事だ。今は大妖の塔に向かい、結界の修復にあたっている」

「結界の修復って……! 無理だよそんなの! いくらお父様でも、一人で大妖の塔の代わりをするなんて……」


 私が大声を上げると、お兄様はくしゃくしゃと私の頭を乱暴に撫でた。


「こら、我らが魔王を信じずしてなんとする」

「そういう問題じゃないッ!」


 私の絶叫に、お兄様は困ったように苦笑を浮かべた。


「……チヨの言う通り。父上の力をもってしても、この侵攻を止めることはできないだろう」

「じゃあ!」

「でも、父上や、僕が残らなければ……闘えぬ者たちが逃げるいとまがない」

「そ、そんな……」

「……チヨも、今すぐ逃げなさい」

「嫌ッ!」


 私は、お兄様の腕の中から飛び出そうともがいた。

 でも、彼の腕の力はとても強くて……。


「お父様やお兄様が残るなら、私も残ります!」

「頼む、チヨ。聞き分けてくれ。ゴクももう逃がした」

「嫌! 私をあんな弱虫と一緒にしないで! 私も最後まで戦――」

「ならないッ!!」

「……ッ!」


 私は、生まれて初めて、お兄様が怒鳴る声を聞いた。

 彼の腕の力が弱まって、そして、私の肩をぽん、と押した。

 力なく後ずさると、お兄様の表情が見えた。

 そこには、いつものような……柔らかい微笑みがあった。


「どうして……?」


 じわりと、視界が歪む。

 ずっと、鍛錬を続けて来た。お兄様に鍛えられて、私はどんどん強くなった。

 いざという時、お父様やお兄様を……そして弟を守れるように、力をつけてきたつもりなのに。

 その「いざという時」というのは、どう考えても、今のはずなのに。


「どうして、私に『闘え』と言ってくれないの……?」


 私の問いかけに、お兄様は心苦しそうに眉を寄せた。

 そして、ゆっくりと近づいて来て……もう一度、私を抱き寄せた。


「……愛しているからだ」

「私だって……ッ!」

「チヨ」


 お兄様は、ぐい、と私の肩を掴んで、少しだけかがんで。

 同じ高さの目線で、じっと私を見つめた。

 それから、ゆっくりと言った。


「生きなさい。そして、覚えておくんだ……今日のことを」

「……嫌、逃げるなら……お兄様も一緒に……ッ!」

「僕は逃げない。逃げてはならぬからだ」

「だったら……私も……ッ!!」


 私が絶叫に近い声で懇願しても、お兄様は、首を縦に振らない。

 ただひたすらに、優しい表情で。


「生きてくれ。僕のために。魔界のために」

「お父様やお兄様が魔界と一緒に死ぬ必要なんかないじゃないッ!」

「魔界は死なない」


 お兄様はそう言って……私の頬を撫でた。


「君たちが、生きていれば」


 嫌だった。

 今ここでお兄様と離れれば、二度と再会できないのだと、分かっていた。

 未だに城下の爆発音は止まらない。

 こんなに火の海になった魔界を、私は見たことがない。

 残ったものは、誰も助からない。そんなことは、私にでも分かるのだ。


「逃げなさい」


 お兄様がもう一度、今度は真剣な表情で言った。

 私は何も言えずに、口を開いたり、閉じたりして。

 ……その間に、奴は忍び寄っていた。


「話は済んだかァ?」

「……ッ!」


 お兄様の背後から、唐突に振られた刃。

 お兄様は素早い反応で刀の鞘でそれを受け、私の胸をどん、と押して、後ろに転がした。


「きゃっ!」

「チヨ! 下がっていろ!!」

「おォ……良い反応だァ……こりゃ楽しめそうだぜ」


 お兄様が振り返った先には、不気味な男が立っていた。

 ぼろ布を纏い、その上から皮の胸当てと、腰当てだけを装備している。

 外套のようになっている頭巾の端からは、伸びっぱなしの銀色の髪がのぞいていた。

 

「何者だ、貴様」


 お兄様が問うと、銀髪の男は口元をにやりと歪めて、答える。


「勇者……の端くれだよォ。アンタらが勇者を殺して殺して仕方ないんで、俺みてェな流れ者までついに勇者になれるようになっちまった」


 会話の間に、お兄様は間合いを図りながら、腰の刀を抜いた。銀の光が、蝋燭の光を反射して閃く。

 

「……あんた、王子だなァ。魔界でイチバン腕が立つって言うじゃねえかァ……」

「チヨ、逃げなさい」

「んふふ、俺を無視してガキに気をまわすとは……随分な余裕だなァ!!」


 銀髪の男が大声を上げた……と思った瞬間、それは始まっていた。

 ギン! と金属のぶつかる音がする。耳の奥が、じわりと揺れた。

 いつの間に打ち合いが始まって、いつの間に二人の間合いがゼロになったのか、私には分からない。

 チラチラと刃の光が部屋の中を舞い踊り、光と光が結ばれる瞬間、身体の芯がギンと揺れた。

 激しすぎる打ち合い。


「あッはは、いいぞ!! あんた、最高だ!! 気の進まねェ魔界侵攻に協力した甲斐があった!!」

「……益荒男ますらおめッ!」


 お兄様が、銀髪男の剣を上方に振り払い、身体に蹴りを叩き込む。

 銀髪男は後方に吹き飛び、畳をずりりと滑って、壁に片手をついて止まった。

 敵との距離ができたところで、お兄様がもう一度私に一瞥をくれて叫ぶ。


「チヨッ! 逃げろッ!」

「あ……ああ……ッ!」


 見たこともないような真剣の打ち合いに、私は腰が立たなくなっていた。

 足をばたばたと動かしても、力をこめることができない。


「よそ見してんじゃねェぞ!!!」

「くっ……ッ!」

「ほっそい剣だなァ! 受けてばっかだと折れちまうぞ!!」

「黙れッ!」


 銀髪男の振るう剣は、お兄様のものより2倍ほど太い幅の剣だ。

 男はそれを両手で振るったり、遠心力を用いて片手で振るったり、手品のように軽々と扱っている。

 お兄様が連続で打ち込んでも、体勢が崩れる気配がなかった。

 長い、長い打ち合い。私は何もできずに、ただ目を開いて、それを見ていた。

 

「しぶとく受け続けるもんだッ!」

「貴様の剣は、強かだが、乱暴なだけだ……! 私の刃は、守るために鍛えられたッ!」

「ハッ! そりゃ御大層な刃だなァ! だが、両手で武器を持ちながら、一体何を守るってんだ!!」


 銀髪男の剣が、大振りになった。

 遠心力を利用して、右腕をしならせ、全力で横に凪ぐ。

 私から見ても、大きな、隙だった。

 お兄様が、それを見過ごすわけがない。

 銀髪男の剣と、お兄様の刀が交わる瞬間。

 ギンッ、という音が鳴るかと思いきや、軋むような、チン、という高音が耳を駆け抜ける。

 男の全力の横凪ぎを、お兄様は刀の腹を接触させて受け流し、それと同時に身体ごとかがんでかわす。

 横凪ぎをかわされてぐるりと左向きに回転した男の胴はがら空きだった。

 キュッ、とお兄様は小手を返す。

 このまま右へ刀をひるがえせば……勝負ありだ。

 と……思った。


「…………はっ?」


 次の瞬間、銀髪男は左足を踏ん張り、身体をひねったまま、跳んでいた。

 私は目を見開いて、その瞬間を見ていた。

 お兄様の渾身の横凪ぎが空を切る。


「……ハハァ」


 銀髪男がにやけるのが、妙に、ゆっくり、私の目に移った。

 いけない。


「お兄様ッ!!」


 私が叫ぶのと同時に。

 ドシュッ! という鈍く、重い音が鳴って。

 そして、お兄様の左腕が、落ちた。


「――――ッ!」


 私は大口を開けて叫ぼうとしたが、肝心の声が出なかった。

 

「……ッ! カァッ!!!」


 お兄様は残った右腕で刀をぶんと振るったけれど、男に軽々といなされて。


「残念。こっちも……もらうぜェ」

「やめてッ!!!」


 私の絶叫と共に、お兄様の右腕が落ちる。


「がァッ!!!」


 お兄様が苦悶の声を上げる。

 けれど、彼は、膝は折らなかった。

 銀髪男を睨みつけながら、足を踏ん張り、立っている。


「……いいねェ、あんた。覚悟のできてる剣士ってのは、滅多にいないもんだ」


 銀髪男は、剣をお兄様に向けたまま、言った。


「最後の言葉は聞いてやるよォ」

「やめてッ! 殺さな――」

「ガキはだァーッてろい!!!」

「……ッ!」


 お兄様を殺さないで欲しい。

 その一心なのに、怒鳴られた途端に身体が縮み上がった。

 お兄様は、肩で息をしながら、ゆっくりと、言った。


「僕を殺し……父上を殺せば、いよいよ魔界は終わりだ」

「あァ」

「その先に……何を求める」


 お兄様の問いに、銀髪男は……少しの間、沈黙して。

 そして、ようやく開いた口で、こう答えた。


「知ったこっちゃねェ」

「は……」

「俺ァな、強いヤツに殺されたくて、来たんだ。いつか、誰かに……心からの真剣勝負で、ぶち殺されてェんだ」


 銀髪男の言葉に、お兄様は、目を見開いて、数秒黙った。

 そして、頬を緩めて、肩を揺すった。


「……はは、そうか」


 兄は、穏やかに笑っていた。

 両肩から、信じられないほどの血を流しながら、いつものように、笑っていた。


「殺してやれなくて、悪かった。……いつか必ず、四肢を切り落とされて、死んでくれ」

「……ハッ」


 銀髪男は可笑しそうに笑って。

 そして、右手に持った剣を、振り上げた。


「……ァ、ああッ!」


 私は、ばたばたと足を動かした。

 立ち上がりたくて、走り出したくて。

 でも、力が入らない。

 じたばたと、足を怪我した蜘蛛のように、その場で暴れるだけだった。


「……めて……ッ!」


 喉から、声を絞り出す。

 男の剣が、閃いて。


「やめてッ!!!!」


 ドズンッ、という重い音と共に。

 お兄様の首が飛んだ。

 目を瞑りたいのに、私の目は開いたまま。きゅう、と瞳孔が開くのが分かった。

 お兄様が、お兄様でなくなる瞬間が、目に焼き付く。

 喉が爆発するみたいに、声が出た。


「あ゛ァぁぁぁーーーーーーーーーッ!!!!」


 ゴトリ、と首が床に転がり、お兄様の身体は血を噴いて、べしゃりと床に伏した。


「ああッ、ぅあぁ……はぁっ、あぁぁぁ!!!!」


 お兄様が。

 お兄様が死んでしまった。

 守りたかった。

 守りたかったのに、私はただ、床を這うだけだった。


「はァッ……はっ、うぁ……ぅぶッ、ぉえェッ!」


 声が出尽くすと、今度はお腹の中身が口から出た。

 涙がじわりと湧き出て、視界もぼんやりとしてくる。

 私は。

 私は……何も。


「さて、どうしたもンか」

「ひっ……!」


 気づけば、目の前に銀髪の男がいた。

 反射で、びくりと飛びのく。

 私を見て、銀髪男はくつくつと笑った。


「お前の兄ちゃンはよォ、命がけでお前を守ったわけだ」

 

 私の前にしゃがみこんで、男は言う。


「で、お前はどうするね? 兄ちゃンの仇取るか?」


 そう言って、男は腰から一本の短い刃物を私の目の前に置いた。

 そして、じっ、と私の目を見る。


「このナイフでよォ、俺と闘うか?」


 目の前の刃物と、男を見比べる。

 お兄様を殺した男が目の前にいる。そして、それを傷つけることのできる武器が、目の前に……ある。

 私は刃物に手を伸ばして。握った。

 それを見て、何故か……男は微笑んだ。


「ハ、持ってるだけじゃ殺せねェぞ。立ち上がって、それを俺に突き立てるンだよ」

「……ッ!」


 ぎゅう、と刃物を握りしめて。

 立ち上がろうとしたけれど。

 やはり、足に力が入らなかった。


「う……ッ! うぅ……ッ!」


 ぼろぼろと涙がこぼれて、足を何度も踏ん張ってみせる。

 でも、歩く能力を失ってしまったみたいに、下半身はまったく動かなかった。


「……立てねェか。しょうがねェ」


 銀髪の男が、もう一度私の目の前にしゃがみこんだ。

 私はまた、反射的に身体を逸らしてしまう。上半身だけは臆病に動くのが、腹立たしかった。


「チャンスをやるよ。そのナイフで、俺に攻撃していいぞ。もちろん俺ァ全力でそれを避ける。だが、俺からは攻撃しねェ。女子供を殺すのはシュミじゃねェんでな」

「……」


 私はキッと銀髪男を睨みつけた。

 この男が何を考えているのかは分からない。けれど、どうあっても、この男は私のお兄様の仇だった。

 私が、こいつを殺して。

 そして、お兄様の仇を取らなくては。

 刃物をもう一度、両手で握りしめて。


「……ぅ」


 これを突き出して、男に刺す。

 それだけで、復讐は達成されるのに。


「うぅ…………ううぅ……ッ!」


 手が震えて、涙がこぼれて。

 私には……刃物を突き出すことができなかった。

 ぽろりと刃物を落とす。

 ただただ、涙だけがこぼれた。

 お兄様。

 どうして、私を置いて行ってしまったの。

 一緒に逃げてくれれば、良かったのに。


「……ハッ。ダメか」


 何もできない私を見て、銀髪男は、すっくと立ちあがって、外套を翻した。


「足が動くようになったら、とっとと逃げるンだな。ここももう数刻もしないうちに兵が入るだろうさ」


 部屋の窓に向かって歩いてゆく銀髪男を、力なく目で追う。

 窓の前に立って、男は私の方を振り返った。

 そして。


「お前は逃げ延びて、そして……兄ちゃンのために刃を振るえなかった自分を悔いながら生きていけ」


 それだけ言って、銀髪男は、窓からすっと、飛び降りて行った。

 私は目を見開いたまま、男が飛び降りて行った窓をじっと見ていた。

 

「……あぁ」


 喉から、声が漏れる。


「……あぁァ…………」


 男がいなくなって、身体が弛緩したのを感じた。

 下半身が妙にあたたかくなって、視線を落とすと、股間から外側へと、じわりじわりと、液体のしみが広がっていくのが分かった。

 私は失禁していた。

 自分の命を脅かす存在がいなくなって……安心したのだと。

 そんな自分の甘え切った、あまりにも覚悟の決まっていない心に気が付いたら、もう耐えられなかった。


「……うわ゛ぁァーーーーッ!」


 叫びながら、私は立ち上がった。

 部屋の中央に、お兄様の死体が転がっている。

 それを目にして、胸の中に浮かぶのは、悲しみよりも、恐怖だった。

 私は無様にうめき声を上げながら、よたよたと、部屋を出た。

 階段を通って1階に降り、一番最初に目についた窓から、外に出る。

 城下のあちこちには火の手が上がっていて、そこはもはや地獄のようだった。

 ふらふらと力なく、あてもなく、ただ「逃げなくては」という感情だけに突き動かされて、歩みを進めた。

 ドォン、とひと際大きな爆発音がして振り返ると、大妖の塔が崩れ落ちる瞬間が目に映った。

 ……お父様も、逝ってしまったんだ。

 もう枯れたと思った涙がまたじわりと湧き出す。

 きっと、魔界王族の中で生き延びたのは、私と、弟のゴクだけだ。

 ゴクだって……無事かどうかは分からない。

 

「どうして……どうして……ッ!」


 どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 お父様も、お兄様も、人間と分かり合おうとしていた。

 手を取り合おうと……そう努力をしていたはずだ。

 なのに、どうして……。


「おい、お前!」

「……ッ!」

 

 後ろから声をかけられて、反射で振り向くと、そこには人間の、兵士がいた。


「魔族の……女か」


 兵士はゆっくりと剣を抜きながら、私の方へじりりと寄ってくる。


「女に手を上げるのは気が引けるが……」


 人間。

 お父様とお兄様の差し伸べた手を振り払った……人間。


「魔族は見つけ次第皆殺しと命じられている……ッ!」


 そして、今まさに、私を殺そうとしている、人間。

 自然と、腰に手を当てていた。

 お兄様がいつも貸してくれた模造刀はそこにはない。

 けれど、部屋を出るときに無意識に腰布に挟んでいた、銀髪男から渡された刃物があった。


「許せ!」


 兵士の太刀筋は、一直線で、分かりやすかった。

 気づけば、身体が動いていた。

 腰から刃物を引き抜き、縦に振られた兵士の剣をチン、といなす。


「えっ……?」


 重心が流れ、私の方へよろけて向かってくる兵士の首元に、とん、と刃物を置いてやった。


「こひゅっ」


 びゅっ、と驚くほどの血が兵士の首から噴き出して、そのまま、ずるりと私の横に倒れた。

 ばたりと倒れた兵士の首から、刃物を引き抜くと、温かい血が手にまとわりつく。


「……はぁ……はぁ……ッ」


 殺した。

 人間を、殺した。


『いつか、分かり合える。』


 お兄様の言葉が、頭の中に響いた。

 ……本当に、そうだろうか。

 ぼんやりと、城下を見渡す。

 赤い炎。立ち上る黒煙。

 逃げ惑う魔族の女子供に、容赦なく剣を振るう人間の姿が見えた。

 お兄様は、対話の機会を求めていると言った。

 でも、今ここにある魔族と人間のコミュニケーションは、対話なんかじゃない。

 一方的な蹂躙だった。

 

「……なきゃ」


 小さく、喉の奥から、言葉が漏れた。

 足元に転がった、人間の兵士の死体から、剣をもぎ取る。


「殺さなきゃ」


 魔族は、もう終わりだ。

 これから、人間の世がやってくる。


 それでも、構わない。

 対話など、いらない。

 私は、私の家族を、魔界を破壊した人間を。


 一人残らず……殺そうと思った。


 

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