逢い席

ミスターN

第1話 逢い席

 雨が降っていた。酷く冷たい雨だった。


 俺はそんな天気の下、外へ出た。

 埃を被った空っぽの部屋から這い出て、肩に当たる雨粒の大きな音を聞きながら、行く当てもなく歩いた。

 最後だから、最後だからと思いながら。それでいて外の景色を碌に見もしないで歩いた。

 雨雲の向こうの薄明かりはいつしか消え、気が付けば辺りは暗くなっていて、周りの家々から漏れる光が濡れたアスファルトを光らせる。

 その眩しい光から逃げるようにして、薄暗い日陰の道を歩いた。

 高架下の据えた匂いがするトンネルを通って。電柱ばかりが目立つ小路を抜けて。通りの少ない交差点の信号を無視して。

 そうして、いつしか俺は路地裏にひっそりと佇んだ喫茶店へと漂着した。



 「……」



 喫茶店からも明かりが漏れていたが、ここは他と違って大丈夫な気がした。理由は分からない。そうやって熾火に吸い寄せられる羽虫のように扉の前に立ったは良いが、俺は直ぐに喫茶店の扉を開けられずにいた。


 俺はどういう理由を持って喫茶店の中に入ろう?

 そんなことを考えてしまった。


 ……そうだ。

 ここは喫茶店なのだからコーヒーを頼めばいいじゃないか、ちょっとした軽食も頼もう。それが普通だ。何も不自然じゃない。

 どうして当たり前のことが直ぐに思いつかなかったのか。俺は混濁した脳をまさぐってみる。しかし、答えはそこに無い。


 きっと俺の当たり前は、泥のような日常で狂ってしまったんだ。

 そう結論付けてから、また少し躊躇って。それでも誰かに背を押されるようにして、木目の綺麗なドアノブを掴んで押す。



「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」



 重くも軽くも、熱くも冷たくも無い扉を開けると、すぐ目の前にカウンターがあるようだった。そこでカップか何かを拭いていたらしい店員が一人声をかけてきた。

 涙の枯れた目は霞んでいて、俯いていることも相まって周りが良く見えなかった。 でもそれ以上に、俺は何もかもを見ようとしていなかった。もうこれ以上、俺の中に新しい世界がやってくることを拒んだ。これまでの想いが押し流されてしまう。そんな気がしていたからだ。

 そのせいか、店員の声もどこか遠くからぼんやりと聞こえた。俺は返事を返したが、それはきっと小さくかすれていて、意味を成しているのか怪しいものだっただろう。俺と店員の間には大きな隔たりがあった。違う世界を生きているからだろう。

 店員はそれでも返事をした。



「すいませんがお客様。当店は表に出してあったボードの通りに席がとても少ないんです。ですから相席をお願いしています。よろしいでしょうか?」



 そう言われて、俺は動揺した。

 そんなボード見ていない。いや、見逃したのだ。

 それから、自責を始める。やっぱり俺はどうしようもない。死の間際ですらこれだ。静かに一人だけで、ただ一杯のコーヒーと軽い食事を取る。そんな人間が相席だって?

 冗談じゃない。

 俺は、静謐を求めていた。でも、たったそれだけの些細な願いすら叶えられないのか。俺はどうしようもなく無能なのか。それか、どうしようもなく不幸なのだ。

 俺の古びて色褪せた幸運は、後から積み重なった不幸の下敷きになって潰れてしまったのだ。この先も戻ることは無いのだろう。


 まあ、これまで散々どん底を味わった俺は、その成果といえるのだろうか、ちょっとやそっとの不都合には目を瞑れるようになった。一人でゆっくりと、これまでの人生を振り返りながら最後の食事をとりたかったのだが、諦めよう。それくらいどうでもいいじゃないか。

 そんな風にして、生きることにすら目を瞑ろうとしている。

 本当に都合の良いようにいかない人生だった。俺の顔にはきっと絶望がはっきりと見て取れるくらいに張り付いているだろう。相席になった相手は薄暗い人間と共に食事をとることになる。しかし、それに対してざまあみろと爽快になれるほど人として間違っているつもりはない。だから余計に、罪悪感なんて感じて鬱々としてしまう。


 コーヒーだけ飲んで早く出よう。

 まったく。今から死のうとしている人間のはずなのに、見ず知らずの相手に気を回すなど馬鹿らしい。自分を嘲笑したい気分になる。でも、それがどうしようもない自分なのだ。変えられない。変われない。だから自殺なんて考える。


 俯きながら店員の誘導に従いソファーに座ろうとすると、既に席にいた相手の足元だけが見えた。小さな足にまだ湿っている砂のついたサンダル。どこか見覚えがあるようだが、よくある光景だ。何であれ既視感はありふれている。



 世界は繰り返す。少しずつ姿を変えて繰り返す。



 前を向くのが気まずくて、結露した窓の外を眺める。店内からの灯りしかない薄暗い中、傍の植え込みの葉っぱだけが少し青白くなっていた。

 雨はいつの間にか雪に変わったらしい。

 外は寒いのだろう。もう、俺にとって外が寒くても暑くても関係ないのに変わっていく。

 もしかすると、俺と関係が無くなったからこそ、目まぐるしく変わってしまうのだろうか。



「こんにちは……」



 前に座った少年は恐る恐る俺に声をかけた。少し視線を上げると彼の日焼けした肩と、その目の前に置かれた現実味の薄い極彩色の青いかき氷が見えた。畏まって座っている彼は、俺を怖がっているように感じられる。顔を見なくても分かる。

 ついでに微かに香る潮の香から、海から上がったばかりなのだろうと俺は推察した。……まあ、これに関しては当たり前か。推察も何もない。


 流すように見た少年の後ろには海と砂が半々に広がっていた。


 こちら側半分の砂地に置かれたテラス席には、照りつける強い日差しを避ける為のパラソルが付いている。しかし、席は有っても座っている人は誰もいない。それどころか、砂浜にも、波打ち際にも、誰一人としていなかった。

 あのビーチには少年だけのようだ。

 俺は彼に目を合わせることが出来なかったが、返事はなんとかできた。



「あぁ……。こんにちは」



 なんというか、子供の前に座ると俺という人間は大人であることを強制されるような気分になる。気分になるだけで、そんな法律も規範も無いのだが。それでも、今の自分が酷く惨めだから余計に強く感じる。俺は大人で、目の前の少年は子供だ。そこには断絶が確かにあった。少なくとも、ここの店員以上に隔たりがある。

 砂浜を一瞥してから、俺の視線は粉雪がちらつく窓から動かせなかった。少年に目を向けられないことを悟られないように、テーブルの上で手を組んで平静を装った。



「お待たせしました。注文のコーヒーです」

「えっ……」



 確かに俺はコーヒーを注文するつもりだった。そういう理由で喫茶店に入った。しかし、それは未来での話だ。まだ注文はしていないはずだ。

 しかし、自分の記憶とは裏腹で、シンプルなカップに入ったコーヒーは湯気を黒い界面に漂わせて目の前に存在してる。嗅ぎ慣れた香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 ……最近はまともに睡眠もとれていなかったんだ。意識は曖昧で、先程まで何をしていたのか思い出せない事も多い。きっと、注文をしていたことを忘れてしまったのだ。あるいは、別の客の注文と間違えたのかもしれない。

 いずれにせよ、頼む予定だったものだ。問題ない。俺はいつものように、コーヒーと一緒に出されたガラスのシュガーポットに手を伸ばすと声をかけられた。



「コーヒーっておいしいんですか?」



 目の前に座った少年が俺に話しかけてきた。思わず心の中でため息をつく。ただでさえ気が滅入っているのに、能天気な子供と世間話なんてする気分じゃなかった。俺はシュガーポットに伸ばした手を引っ込める。

 どうやら大人と子供の断絶を感じていたのは俺だけで、少年は何も見えていないようだ。

 しかし、社会に隷属する内に染みついた習性なのだろうか。俺はしなくてもいい返事をするために頭を回し始めた。返答はすぐに思いつく。簡単なことだ。



「大人になったら分かるよ」



 すぐに思いついた返答は、ある日、どこかで聞いたセリフだった。きっと子供のころに大人から言われた言葉だ。

 大人になったら、目の前の少年も分かるだろう。こんなセリフ、その場しのぎの言い訳だ。そうやって、子供たちに在りもしない大人という幻想を信じさせる。



 発言は繰り返す。かつての失敗と共に繰り返す。



 しかし、この答えに少年は満足しなかったようだ。続けて質問をしてきた。



「大人っていつからなるんですか?」



 この質問への答えはすぐに出てこなかった。……いつからなのだろうか。

 俺は気が付いたら大人になっていた。大人にならされていた。体がでかくなったら大人なのだろうか。態度がでかくなったら大人なのだろうか。責任が大きくなったら大人なのだろうか。まあ、図体でも、態度でも、責任でも、大きくなれば大人なのだろう。大きい人と書いて大人なんだから。

 しかし、そんな答えでは『大人』の答えとは言えないだろう。大人はこんな時どのように答えるのだろうか。俺は平静を保ちながら苦しみ紛れにこう答える。



「それは二十歳を超えたらだ」



 俺はそんな当たり障りのない答えしか出せなかった。

 これもその場しのぎの誤魔化し。

 具体的な数字を出した分上手く誤魔化せているのだろうが、向こうが透けて見えるような答えだ。薄っぺらい。俺の歩んだ人生のようだった。人が大人になる境界線なんて、そんな簡単な問題では無いだろうに。

 でも、良いじゃないか。俺はもう人生を閉じる身だ。将来に根差した、実のある言葉はどれも嘘になる。散々失敗して、取りこぼしてきたけど、嘘はつきたくない。未来に嘘をつきたくないが為に、今を誤魔化す。

 湯気が昇るコーヒーの中、氷が少し溶けてカランと音を立てた。



「そっか。二十なんだ。えっと……」



 急に黙り込んだ少年が気になり、コーヒーを眺めていた視線を少しだけ上げる。

 そうやって少年の手元を見ると指折り数えていた。引き算のカウントは九本で止まる。少年にとっての九年はどのくらいの時間なのだろうか。少年にとっての九年は俺にとって何年分になるのだろうか。



「ボクは約束をしたんです」

「約束?」



 テラスの方から潮風と共に舞い込んだ雪が、睫毛に当たって反射的に瞬きをする。

 俺の足はいつの間にか、店内に満ちてきた冷たく心地よい波に洗われていた。波が寄せては引くのに合わせ、海の水に触れているつま先の端から体が崩れ、溶け、広がっていく感覚がする。

 でも、その感覚に恐怖は無かった。ただ、心地よくてそのまま眠ってしまいそうだった。



「大人になってもあの子と――」



 その先を俺は上手く聞き取れなかった。

 俺はその続きをどうしても聞かなければならないのに。




 ――思い切って顔を上げると透明なカーブミラーに自分の顔が映った。そして同時に灰雪が積もった自分の姿も映った。灰雪は街頭に照らされ、光の粒がゆっくりと落ちてくるようだった。


 ……俺は長々と、この道路にいたらしい。先程までのは白昼夢だろうか。

 それとも、今この瞬間が夢なのだろうか。


 白に覆われて色を失った俺だけが映り込むカーブミラーの傍には、雪に半ば埋もれた真新しい花束が置いてあった。手向ける相手を俺は知っていた。



「大人になったら俺は……」



 どうしたかったのだろうか。

 何もかもが灰雪に埋もれていく世界に足を取られたようで、俺は一歩もその場から動ける気がしない。


 しかし、俺がどうなろうが世界は勝手に動いているらしい。強い光に照らされ、間髪入れずに耳障りなクラクションが鳴った。

 俺は漫然と狭い交差点の中心から動き出した。ずっと立ち尽くしていたせいだろうか。歩き方を忘れたように足が固まって思うように動かず、半ばよろけるようになりながら、歩道に移動する。

 その様子を不審に思ったのか、ドライバーは車を俺の傍まで動かすと、窓を開けて声をかけてきた。真っ白い髪で、黒い服を着ていた。ただ、顔からも声からも、男か女か分からない。年齢すら判然としなかった。ただ、車内からは最近嗅いだことのある匂いがした。細い煙が匂いと一緒に窓をくぐる。



「大丈夫ですか?」

「……ええ。大丈夫です」

「この辺は視界が悪くて事故が多いですから。つい最近も誰かが亡くなったそうです」

「……」

「ああ、そういうことですか……。少し待ってください」



 ドライバーは助手席側を向く。ビニール袋の軽い音が静かな郊外に響く。



「これをどうぞ」

「いえ……そんな。いいですよ」



 差し出された缶コーヒーを俺は遠慮しようとした。でも、ドライバーは引き下がらずに缶コーヒーを俺に押し付けるように揺らす。



「……ありがとうございます」



 俺は渋々それを受け取った。缶コーヒーは冷え切った手に熱いくらいだった。



「お礼なんていいですよ。これが仕事ですから」



 ドライバーは妙なことを言うと窓を閉め、車を走らせた。俺は交差点を通過した車が、直ぐ先のカーブを曲がって見えなくなるまで見送る。それから手元に残った缶コーヒーを眺めた。



「ブラックは飲めないんだけどな……」



 そう言いながらも、俺は寒さに負けてコーヒーを開ける。

 ……温かい。

 でも、何かが足りない。

 やっぱりコーヒーは砂糖を入れないと苦くて飲めない。あの喫茶店では少年を意識して砂糖を入れることを躊躇ったが、俺にはどうしても必要なものだった。俺はブラックコーヒーが飲める大人になれない。

 信号が赤から青に変わる。ここから進むべき時が来たようだ。

 僕は交差点を渡り、帰路へ向かって歩き出した。



――ずっと一緒だよ。約束だから――



 聞き慣れた彼女の声が、交差点の中心から聞こえた気がした。僕は慌てて振り返る。

 誰もいない。この交差点には誰一人いない。

 凍り付いたアスファルトが街頭に照らされて、劇が終わった後のステージに見えた。



「約束ってなんだよ……」



 僕はそう呟いて帰るべき場所へと再び足を向けた。纏わりつく澱を掻き分けるように交差点を抜けて坂を下っていく。

 雨は枯れ、代わりに雪が降る坂を冷え切った足で前に進む。



 ――坂を下り始めてからどれくらいたっただろうか。

 いつの間にか空は白み始め、朝日が少しだけ顔を覗かせた。

 坂の両脇にはガードレールがあった。明るくなって見え始めたその向こうには、海が何処までも広がっていた。水平線が僕を取り囲んで円環を作っていた。

 僕が海に気付くと同時にセミの鳴き声が徐々に増える。セミの音を聞いたせいなのだろうか。急に暑くなってきて、僕はぶかぶかのコートを脱いで地面に捨てた。

 茶色いコートは僕の後ろを追いかけてきた雪があっという間に覆い尽くす。そうして、雪は役目を終えたように動かなくなった。



 季節は繰り返す。いつかの出逢いを待ち焦がれて繰り返す。



「忘れちゃったの? 私との約束」



 延々と続く坂道はいつしか終わり。辿り着いた先には喫茶店の店員が立っていた。僕はまだ伸びきっていない身長で見上げるように顔を合わせると、彼女であることに気付いた。要らなくなった大人の外見を捨て、子供になる事でようやく気付いた。


 僕が落ち込んでいる時も嬉しいことがあった時も、コーヒーを持ってきて傍にいてくれる優しい彼女だった。

 僕の幸せは彼女と一緒にコーヒーを飲んでいる時間だったんだ。

 あのシュガーポットと、そこに映る彼女を見ている時が幸せだったんだ。

 なのに。



「忘れる訳がない。でも……君からいなくなったじゃないか……」



 僕の世界にはもう彼女はいない。目の前の彼女は大人の姿をしているから。

 僕の世界にはもう彼女はいない。僕はもう大人になれないから。



「また逢えたでしょ。だからもう一度約束ね」



 彼女は小指を差し出した。大人のくせに、まるで子供みたいじゃないか。そう思うとなんだかおかしくなって笑ってしまった。彼女もつられて笑い出す。きっとこれが夢であっても僕は彼女と一緒に居られれば幸せなんだろう。

 約束があれば幸せなんだろう。

 僕ら二人は笑いながら手を伸ばす。小さな手で小指を結ぶ。


 雨が堰を切ったように降りだした。それでも僕達二人は笑って約束をした。


 また逢う日まで繰り返す。約束を繰り返す。

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