5
校外学習が終わってしまって、わたしたちと涼たちが一緒に食事を取ることがなくなった。折角、校外学習までのコミュニケーションということで、涼がやってくれたことなのに何の意味もなかった。わたしは涼と一緒に帰るのをやめなかったけれど、特に話すことはなく、涼にききたいことばかり膨らんでいった。小林恵と涼は、恋人同士なのかもしれない。
「仁美はさぁ、彼氏作らないの?」
弁当を食べながらふゆがそう訊ねてきた。
「え?」
「そうそう。早く処女捨てないと重たがられるよ」
二人は笑い合っていた。なんて返したらいいのかわからず、黙っているとふゆが「バイト先の人紹介するよ。結構イケメンだし」と言われた。わたしは下を向いてた。
「なんか、そういうの、いいかなぁって」
よしみは「何それ」と吐き捨てて笑った。急に食欲がなくなって、弁当箱を閉じた。予鈴が鳴って、次の授業の教科書を出したけれど気持ち悪くてそのまま保健室に行った。養護の三田村先生は優しくわたしを迎え入れてくれて、熱を測るように指示した。わたしは名簿に名前と症状「吐き気」と書いて帰れるようになるまで休ませてもらうことにした。
白いベッドに白い天井。外で体育教師の声が飛んでいる。蛍光灯の光がまぶしい。幼稚園の頃からすでに男の人が苦手だった。わからないけれどいつも泥臭くて汚らしいと感じていた。反面、子どものころから長身でボーイッシュな女の子には惹かれた。アニメでも漫画でもそうだ。どうして男がダメなのか自分にはわからなかった。中学のとき、鞄をひっくり返した拍子に生理用品が飛び出した。それを、男子に「西原がおむつ持ってきてる」とからかわれてから本当に男子と話すのが嫌になって、女子校に行こうと決心した。女子校に入れば、女だとか男だとかって気にしなくなるのだと思っていた。でもそれは逆で、男の子がいないから余計にえげつない話をしたりする。彼氏がいるよしみやふゆの話を適当にきいていたのは、ちゃんときいていたら自分が壊れてしまう気がしたから。付き合う、ときいても思い描くのは涼のことばかりだ。涼とだったら、何をしたっていい。
枕元にエチケット袋が置いてある。手にするが、吐瀉物は出ず、溢れてきたのは涙のほうだ。小林恵のことをよく思えないのはよしみとは違って、彼女の高慢ちきな態度や美貌が憎いのではない。彼女がいつも涼を独り占めできる立場にあったからだ。考えれば考えるほど声をあげて泣いた。三田村先生がカーテンの向こうから「大丈夫?」と声を掛けてきた。
「大丈夫、大丈夫です」
わたしは泣き叫びながらそんな呪文を唱えた。大丈夫だったら、こんな風になってない。鎮まれ、鎮まれ。
四回目のチャイムが鳴って、わたしは保健室を出た。教室に入ると担任に「西原、大丈夫か?」と訊ねられた。鎮まったわたしは大きく頷いた。ホームルームが終わると涼がわたしの席に来た。
「今日は、先帰るね」
「送るよ」
わたしは首を左右に振った。遠くで小林恵が見てる気がした。
「部活でしょ」
「いいよそんなの」
「大丈夫だから」
よしみとふゆも寄ってきて「ちょっとぉ、大丈夫ぅ?」と大袈裟に訊いてきた。
「大丈夫。最近ちょっと、調子悪かったし」
鞄を手に持ってみんなに構わず教室を出た。涼から気持ちを離すなんて無理だ。こんなに近くにいて、彼女を考えない日はない。だけど、少しずつ涼のことを忘れなくちゃいけないのはわかっていた。わたしは、涼がくれたキスだけを体に染み込ませて、それだけを大切に思って生きればいい。
七時を過ぎて夕飯をゆっくりと食べているとインターフォンが鳴った。母が「はい」と出ると「仁美」と呼ばれた。
「クラスメートの青野涼さんっていう人なんだけど」
「え?」
意味がわからず、わたしは玄関に向かった。扉を開けると体操服の涼がいた。
「ごめん」
「どうしたの」
「村橋さんと向田さんに家きいて」
涼は申し訳なさそうな顔をして言葉をこぼしていった。
「なんか、仁美、あの日から様子おかしいから、話ききたくって」
「あがって」
まともに話せると思ったわけじゃないけれど涼を帰したくなかった。
「ご飯食べた?」
「いや、まだ」
「よかったら食べてってよ」
「それは悪いよ」
「お腹減ってるでしょ? わたしも途中だし。大したものじゃないんだけど」
「じゃあ、いただこうかな」
母は涼を見て「仁美の母です。まぁ、美人な子」と涼を褒めた。涼と一緒に食事をして、部屋に涼を入れた。
「女の子の部屋って感じ」
涼は美術館の客のように腰を曲げたり、対象に近づいたりしながらじっくり、珍しいものを見るような顔をしていた。小林さんの部屋は? と訊きたかったけれど言えなかった。
「わたしはこんなじゃん、だから、あんまり女の子女の子したものって置いたことないから」
涼は置いてあるテディベアを触った。わたしの部屋に涼がいる。心臓が早くなりだした。
「適当に座っていいよ」
わたしがそういうと涼は床に座って、わたしはベッドに座った。
「体調大丈夫?」
深く頷くと「よかった」と言った。
言い出そうか迷っていた。涼も何から訊こうか迷っている様子だった。今日、涼に嫌われてしまったとしてもわたしは涼のことを嫌いになることはないだろう。
「涼って、小林さんと付き合ってるの?」
涼は数拍置いて「付き合ってないよ」と言った。
「何でそんなこと訊くの?」
わたしは唇を噛んだ。
「鎌倉で、キスしてるの見たから」
涼は細くて長くてきれいな指で頭を掻いた。
「めぐがしてきただけだし。キスって別にそんな特別なもんでもないでしょ」
「わたしには」
震えた大きな声が部屋に響いた。涼が目を見開いてわたしのことを見つめる。
「わたしには特別だったよ。ファーストキスだった。だけど」
喉が変に震える。もう既に涙で涼のことが見えない。いつもの踏み出せない自分はどっかに行ってしまって、自分の気持ちをすべて涼に伝えて楽になってしまいたかった。
「だけど嬉しかった」
大きく唾を飲み込んだ。
「涼のこと、入学したときからずっと好きだった」
しばらく涼のことが見られなかった。涙ばっかり出てきて、頭が痛い。
「あんなことしてごめん本当」
顔をあげると涼が本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
「好きって言ってくれてありがとう。嬉しい。だけどわたし、本当可愛いって思うとキスしたくなるだけなんだ」
わたしの心はもう既に涼が次に言う言葉を受け入れる準備ができていた。
「わたしには彼氏が、いるんだ」
その言葉は「付き合えない」以上の破壊力で受け入れ態勢だった心を粉々にした。
あぁ、そうだ。わたしは何も知らなかった。何も知らずに勝手に自分の創った涼を愛していた。涼の漂わせる空気があまりにも男でも女のものでもないから勝手に、涼もわたしと同類だと感じていた。そうだ。わたしが知らないだけで、涼だって、大それたものじゃない、普通の女の子なんだ。
「仁美のことはすごく可愛いと思う。素直だし、真面目だし、いい子だと思う。一緒にいて安心できるし。なんかあったら、わたしのことを頼ってほしいだけど」
「ねぇ、涼のこと好きでいてもいい?」
欲しいものは欲しいときに欲しいと言わないと手に入らないと、わたしは四月の失敗からわかっていた。
「付き合ってほしいなんて、おこがましいこと、考えないから。キスしたいときに、キスしてくれるだけでいいの」
涼の顔は少し罪悪感に汚されていた。それでも彼女は頷いて「いいよ」と言ってくれた。
「キスして」
涼は躊躇うことなく、ベッドにのぼってきて、わたしの唇に唇を重ねた。涼の舌が、わたしの口の中に入ってきた。もう何も考えられない。わたしの体の中央は、熱を持ち、荒波が押し寄せてきてどうにかなってしまいそうと怖くなりながらも気持ちよかった。涼の体を離さないように必死で彼女の細い二の腕を掴んだ。この日のことを忘れない。いつか涼と離れ離れになっても、いつでも思い出せるよう心に、体に、刻んでおきたかった。
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