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自習室で今日出された数学の宿題を片づけていた。六時を過ぎると涼がわたしのことを迎えに来た。部活動の後の涼は、制汗スプレーの匂いに少し汗の匂いが混ざっている。涼の部活動が終わるのを待っていると言ったのはわたしのほうからだ。帰りくらいしかゆっくり話をする時間がない。といっても、わたしは彼女のことを名前で呼ぶことを許可されても実際に口に出してはいないし、涼も口数が多いほうではないのでただ、一緒にいる空気を堪能するだけであった。
今日は一日中曇っていたから灰色の世界がゆっくり深い夜の色に染まっていく予兆が感じ取れた。五月なのに少し寒いねなんて言うくせに涼は半袖の体操服のままだった。
「小林さん、わたしたちと組むの嫌だったかな」
いつも小林恵は、わたしたちと会話をすることなく、スマートフォンを触り、サラダを食べたあとどこかにいなくなる。
「アイツは、元々わがままだから」
涼が小林恵をアイツと言ったことに胸の中が小さく発火した。
「嫌にならない?」
そんな言葉が自分の口から飛び出し、びっくりしたのは涼じゃなくてわたしのほうだ。取り繕う言葉を探していると「別に。慣れたよ」と涼はあっさりとした口調で言った。
「仁美は、めぐのことが嫌い?」
わたしは首を左右に振った。
「小林さんは、すごく美人で、わたしには到底手の届かない人だと思ってて」
自分の声が弱々しく耳に入ってくる。
「小林さんさえよければ仲良くしたいと思ってる」
涼の顔に陰ができた。彼女はわたしの頭を撫でながら、首を傾けた。
「めぐはそんな大それたもんじゃない。普通だよ」
自分の頭からうっすらとした重みを感じる。
「仁美だって、可愛いよ」
「わ、わたしは普通だよ」
女の子はすぐになんでも可愛いと言うのをわたしは知っている。わたしみたいな平凡な女を涼が本気で可愛いと言うはずがない。
「可愛いよ」
学校から駅まで、いつもわたしたちは裏道を歩いていた。大通りより裏道のほうが木々がいっぱいあって、好きだったから。涼はどうなんだろう。遠回りだよ、と言ったことは一度もなかった。歩いていれば必ず駅に辿りつくし、歩いている人はほとんどいなかった。薄暮で、自分たちの影と地面が同化していた。そして、涼の唇が、わたしの唇に重なっていた。
一瞬何をされたのか全くわからなかった。反射的に目を閉じてしまった。ドラマのキスシーンで目を閉じているのに疑問を感じていたけどそれは防衛本能なんだろうか? 凍りついたわたしは、目の前で微笑む涼に何もできないし、言えなかった。
熱を持った唇に手をあてた。涼の気持ちが、自分の気持ちが、よくわからなかった。
「なんで?」
涼はわたしの頬に触れた。
「仁美があまりにも可愛かったから」
色んなことが一気に頭に浮かんだ。一瞬にしてすべてをしまいこんで、涼が今くれた言葉だけを大切にしたいと思った。
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