2020夏

枕木きのこ

2020夏

 ほんの気まぐれである。


 私はすっかりと埃を被っていたノートPCを引っ張り出すと、ずいぶん久しぶりに話を書いてみようかと考えた。

 2020年の夏をテーマにした物語を集める賞が行われていたからだ。


 このご時世、外に出る人は少なく、家での娯楽が人々の中心に据えられていて、ネット小説の気軽さが再注目されている。

 古くには「ケータイ小説」と呼ばれた一ジャンルだ。気軽で、無料で、まさしく手のひらに収まるサイズでの読書。その時分から、ネット発の作家——というよりは、書籍化案件はいくつかあったが、次第にその割合が増していき、出自がネットながらに数々の由緒ある文学賞を受けることも、今ではざらにある。順当に新人賞を踏む、というステップを経なくても、書籍として販売されることはままあるのだ。


 私も、さかのぼれば小学生のころから、そう言った創作物を書くことがあった。当初は「小説」と言うよりは「脚本」の形態に近く、それも、どちらかと言うと「お話」と言ったような稚拙なものであったが、一年、三年、五年、と続けていればそれなりに様にもなると言うもので、同じツールを使用するアマチュア作家から評価されたりもしていた。


 当時よく利用していたそのサイトの名前は、——と考えたところで、嫌なことを思い出した。

 事件、と言ってもいい。


 創作物を世に掲出する以前は、当然、頭の中に物語や構想が存在する。それは小説だけに限らず、映画や、絵画でも同じことである。芸術は頭の中で生み出され、手から放出される。その過程を経ない限り、世には出ない。


 出ないはずだが、——私は、過去に脳内から作品を盗まれたことがある。それが、筆を折った理由でもある。

 当然若輩者の一アマチュア作家である私の考えることだ。ほかの人間に思いつかないとは言わない。世の中には多くの人間がいて、そうであれば、私と同じような生活をし、同じような思考手順を踏み、同じような内容の作品を思い描くこともあるだろう。


 しかし、そうではなかった。

 そこに打ち出された小説の中では、物語の構造や流れだけではなく、セリフさえも、一言一句たがわず、私の脳内にイメージしていたものと同じことが書かれていた。


 すでに文章を打ち込んでいれば、そのデータを盗まれたと考えたかもしれない。

 ネタをメモしていれば、そのメモを盗まれたと思っただろう。

 声に出してまとめていたならば、盗聴や盗撮を疑ったに違いない。


 しかしまぎれもなく、それは文字にもなっておらず、だれかに、ましてや自分自身にさえ、声として届けたことのないものだった。


 私は自身の解離性同一性障害さえも疑った。同じ脳を共有している別の人間——人格があるならば、その人物が書いたと思ったかもしれない。でも、それもなかった。もちろん、双子もいない。

 だから私は怖くなったし、同時に——作家としての魂を抜かれてしまったのだ。


 私が書かなくていいことを、私が書く理由が見つからなかった。


 私が話を書く理由は、私が面白いと思うからだ。面白いと思う話を、自分で読み直したいからだ。その行動原理から始まった、所詮「お遊び」である。ならば、自身にその労力を課すことなく、それが実現されるこの状況は、願ってもない状況とも言えた。


 ——結局のところ、その原因や、犯人はわからずじまいだった。

 

 今の世の中である。今まで不可能だったことが、そうではなくなってきている。常人には理解できないような速度と理屈で、多くの発明が日夜行われている。

 だから、考えている可能性はある。あるが、一方ではたいてい、可能性とは打ち消されるためにある、とも気付いている。


 ノートPCの起動が完了する。

 今回、気まぐれでもう一度話を書こうと思ったのにはいくつかの理由がある。


 一つは、私は今しがた、冒頭に述べた賞が開催されていることを知ったからである。いくら過去に脳を覗かれ盗作されたとはいえ、今この瞬間に紡ぎだす物語であれば、盗みようがないと感じたのだ。


 一つは、当たり前だが私もその当時よりも年を重ねた。仮にもし同じ現象——これから書こうとしている物語が盗まれるのだとしても、対抗できる自信が、少しはある。何某が今なお私を監視しているとも思わないが、されていたとしても、だ。要は盗まれたとしても、私が先に発表すればいい。


 そして一つは、それが私の知らない時間軸の話だからである。2020年の夏を、私は経験していない。ゆえに、至極純粋に、まるであの頃のように——、想像力を働かせるのが面白そうだ、と感じたのである。


 


 2020年。

 その年は新型ウイルスがパンデミックを起こし、東京で予定されていたオリンピックが延期になった。夏には——。


 もう20年近くなのだから、その頃を経験している両親に聞いてもうろ覚えだった。


 だから私は、その当時父が日記を付けていたというノートPCを、起動したわけである。


 まずは、情報を仕入れる。記録を、記憶を辿る。

 構造やストーリーは、一切考えてはならない。

 文字を刻むその瞬間に、考えながら作り上げる。


 それこそが何某を打つ私の凶器であり、そして、最大の武器だ。


 さあ、勝負の幕開けだ。

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