第5話 そのご(最終回)
平成三十年六月四日
今日は本業の職場に変な方がいらっしゃいましてね。
所得税の申告を懈怠してた関係で税務調査が入って、懈怠分については税務署の言うとおり申告もして税金も納めるんだけど、今後の申告について、自分じゃ申告できないから、どこか税理士紹介して……というので、税務署からうちのところに電話がかかってきたらしい。
うちの所長が「申告懈怠、そりゃ深刻ですな」とか、ぐったりするような親父ギャグを電話の向こうの税務署職員さんにかましてたんですが、まあ、それは聴かないふりすべきでしょうね。
申告懈怠自体はそんなに珍しいことではありません。
ほら、だいぶ前ですが小説家でアニメも大人気になった某氏が、「節税」で法人を設立したものの申告してなかったとかで、ニュースになってましたよね。
なんで法人で節税になるかっていうと、まず、節税とは違うんですけど法人契約なら所得税法第204条の源泉徴収がされないっていうのがあります。
あと、自分を含めて親族に給与を出すことで、所得が分散できますし、なにより給与は「給与所得控除」があるわけです。利益が出てるうちは、法人にするメリットは一定程度あるわけですが、それにしたって申告しないのは悪手でしょう。
法人は設立登記しますから、課税所得の出てる、出てないはさておき、税務署に「会社がある」ことは筒抜け。
ある程度所得のある個人に至っては、源泉徴収票や支払調書で税務署はおおまかな所得を把握しようとしてますから、申告しない、というのはやっぱり悪手。
ただ、個人の所得税申告は業種によると(所得税法第204条に掲げる業に限る)源泉税が天引きされて支払われるので、その関連の業種であるところのモデルさんや広告デザイナーさんのなかには、「もう天引きされて税金納めてるんだから所得税の申告、いらないよね」と思ってしまう人もおおくてね。もちろん確信犯的にやらないひともいるし、面倒だとうだうだしてたら申告期日が過ぎてた人もいる。
国の方も法人よりは個人の自主申告ってのを信用してないので、一部の業種でこうやって報酬を支払う法人側に、あらかじめ天引きを義務づけるし(法人が天引きした報酬源泉は法人を通じてあらかじめ納税される)報酬を支払った法人に、支払調書の提出も義務づけています。
なので、税務署だってよほどのことがないと面倒なんで調査に入らないんですが、今回は「よほどのことだった」わけですね。支払調書の提出が必要な業種だと、個人事業主さんに支払われた報酬額のおおまかな額は把握してるんで、税務調査もしやすい。
いざ調査に入ると決まったら、所得税法第204条関係の業種は逃げも隠れもできないので、どうぞお気をつけくださいね! あと、所得の額によったら、先に徴収されていた所得税の一部が還付される場合もあるので、申告は重要ですよ!
(還付申告の対象になりそうな、税率が低い水準で留まりそうな個人事業主さんには、税務署は絶対に調査には入ってくれないので、自分で気をつけて申告しなくてはダメですよ)
ちなみにどういう状況が「よほどのこと」かと言いますと、天引きされる報酬源泉は基本、復興所得税込10.21%。20.42%が最高税率。ところが、所得税の最高税率は復興所得税込45.945%なので、その差額がおおきければ税務署も放置しておけないわけです。
つまり、今回、税務署に紹介されていらっしゃる方は、かなりの高額所得者。
あ、言っておきますが私、家政婦料金もちゃんと確定申告しますよ。十二月から働き始めて、最初の報酬料金が出たのが今年の一月なんで、来年の確定申告ですけど。
家政婦に対する報酬は、使用者が事業営んでいる場合でも、損金算入できません。あくまで家庭内のことをする「家事使用人」。事業のための労働者ではないのです。
厳密には給与でもなく、使用者に源泉徴収義務もないので、家政婦側としては確定申告しなくても、バレにくいと言えるかも知れませんが、そこはそれ、やっぱり本業が本業なので、きちんとしたいですね。
(家政婦側には、所得税の申告義務はあります)
来年の申告所得税額と市民税額が怖いな……って思ってるところです。
閑話休題。
理由は不明ですが、お客様は七時過ぎないと来所できないとのことで、残業して待つことになりました。依頼者は女性とのことで、担当は私がよいだろうと……
で、七時。
インターフォンが鳴ってご紹介の方が到着しました……た……でっかい!
身長は一七五㎝以上かつピンヒール補正で一八五㎝越え。
腰はほっそいのに、なんだろう、このたわわ感……いやセクハラ発言になりそうなのを承知で言えば、なんというか胸とかお尻とか形良くずっしり。
ってか、胸の谷間もがっちり主張した、そんなアメリカのアカデミー賞受賞式、レッドカーペットの上でしか見ないような衣装で、その辺歩いてたわけ?!
いちおう大阪の中心地にある事務所ですが、JR大阪駅からはすこし離れてるせいでめっちゃ下町感あふれてるんですよ、ここ……昭和四十年代に建てられたような木造二階建ての戸建て住宅もいっぱい残ってるし。
芸能人の叶姉妹だって、町歩きするときはもうちょっと布の多い服着ると思うな、私……
お肌真っ白、御髪はくるくる金髪縦ロール。
お化粧バッチリで、もちろん地もいいに違いないその超絶美人(衣装の選択に問題があるにしても)で申告懈怠の、凄いんだか残念なんだかよく分からないお姉さんは、私に向かっておっしゃいました。
「あなた、いやな臭いがするわね」
おおう……一応、毎日お風呂入ってますし、そういうのは思っててもある程度親しくなるまでは言わないのが常識っていいますか、思いやりってやつじゃ……
世界は、私にとても厳しい。
そう思った瞬間でした。
平成三十年六月五日
昨日は本業のほうで、申告懈怠の人のあれこれがあってバイトにいけなかったんですが、本日は家政婦バイト。
しかも、退職願装備。
マンションの修繕一時金は、うちのマンションの管理組合口座に振り込みました。
あとはこの退職願が受理されて、退職日が決まったら、ミッションクリアです。
約半年……思えばいろいろありました……思い出したくないこととか、思い出したくないこととか、思い出したくないこととか。
たまにいただける大和地鶏のモモ肉は惜しい気もしますが、まあ、そういうのはあまりはかりに掛けるようなことでもないでしょうし。
うん、いろいろ思い出すのは辞めよう。精神衛生上良くない。
家政婦……すなわち家事使用人ですが、労働基準法上の労働者には該当しないのです。
(労働基準法第一一六条二号)
歴史的にかつての「家事使用人」……丁稚奉公や住み込み女中といった労働者は、労働者でありながら、家族的な面もあるとして昭和二十二年に定められた労働基準法において同居の親族と同じ扱い、労働基準法の「適用除外」とされました。
なので、労災、年次有給休暇、休憩そのほかの規定も適用されません。
労働基準法第五条の「強制労働の禁止」も適用されません。
しかしながら時代は変わっており、いまどき「家族同様」みたいな扱いの(これは過去においてさえ欺瞞だと思うわけですが)女中さんなんかいないわけで、平成二十年に施行された労働契約法では、家事使用人が適用対象になっています。
つまり、労働基準法上の労働者でないにもかかわらず、使用者と労働契約を結んで働く労働者であるとされているわけですね。イミワカラン。
ここで問題は、家政婦は雇用主が辞めて欲しくないと考えた場合、その意思に反して退職できるか、という点です。かつての女中さんには、労働基準法では保証されていなかった権利です。(民法第627条が適用されるかも知れませんが(期間の定めのない雇用の解約の申入れ)、でも、「雇用」に該当するかどうか自体があいまいだったんですよね)
結論的には、いかに法律上、あいまいな立場だったとしても現実の家政婦の労働形態が、通常の会社や個人商店に雇用される労働者と変わらないことから、出るところに出て話をつければ退職できます。
しかし、あくまで法律のみに話を限定すれば、労働契約法も、第八条で、労働契約は使用者・労働者、両者の合意をもって変更できる、とあるだけなので、契約解除についての言及はないわけです。(使用者の解雇についての制限は設けられていますが、労働者が契約解除を希望した場合についての詳細条文はない)
家事使用人は、そんなこんなで立場が非常に曖昧です。
まあ、あの雇用主が辞めたいって言ってる家政婦を、わざわざ引き留めないと思うんですけど。
いちおうほら、念のため。
自家製大蒜(二日前に掘りあげたばかりの新鮮野菜)もジップロックに詰めて、もし辞めてもらったら困るって言われたら、これ投げつけますよ、って言うつもりだったり……
うん、我ながら、ちょっと自意識過剰な気はする。
余談ですが国際労働機関(ILO)は2011年、「家事労働者の適切な仕事に関する条約」を採択しました(2013年9月5日発効)。
住み込み労働者のプライバシーの確保、児童家事労働者の義務教育を受ける権利、移民労働者が国境を越える前に労働条件を確認できるよう、雇用契約書が提供されること等を定めたもので、以前から問題になっているフィリピンやインドネシアからドバイなどに家事使用人として働きに行く出稼ぎ労働者の人権侵害問題などに対応した条約かと思いますが、じつは日本は批准していません。
批准しない理由のひとつは、おそらく労働基準法で家事使用人を適用除外にしていることじゃないかと思うのですが……これから外国人労働者をどんどん呼び込もうとしているんですよね、日本。
いまのところ外国人労働者については法人雇用がメインで、このあたりは労働基準法の適用対象者なわけです。
家事使用人の需要はすくなそうですが、現在においても家政婦を雇う個人宅というのはあるわけで、そこそこ所得があるおうちで、親の介護の補助や家事代替に外国人労働者を雇うことはありうるでしょう。
(注・親族以外の者が介護を行う場合は資格が要ります)
実際、ネットで検索すれば「今話題のフィリピン人家政婦派遣します!」なんて広告も踊っています。
このあたり、労働基準法の改正も視野に入れて、ちゃんと法整備しなきゃいけないんじゃないかな、と思いますね。
と、まあ、話が真面目方向に偏りすぎたところで、吸血鬼氏のお宅に到着したわけですが……
ガッシャーン
なんだか、凄い音がしました。
正確には、「ドングワッシャーンドカドカ」みたいな音です。
この展開、四月にもあったよ?(「吸血鬼氏の家政婦さん そのよん」参照)そう思いつつ、離れを観に行っても、なにも起きてません。リビングに灯りは付いていますが、人の気配もないようです。
午後七時、フジキノのお子さま方で、年長組さんはバイトで不在だったりしますが、年少組さんはいるはずなので(だいたい学校の宿題をしている)この時間帯に離れに人がいないのも珍しい。
今夜の月齢は二十。変身しようと思えばできますが、十五夜の時のように、自動的に変身するほどではなくなっている頃合いです。特に年少組さんはね。
なので、総出で狩りに出てることもきっとない。
嫌な予感がしつつも、一応、母屋に上がってみます。
今日の家政婦仕事はするつもりですし、退職願は渡したいので……
廊下から見える中庭が、いまだかつてないほど荒れ果てていますよ……ってか、結構、お金かけて造ってるはずの日本庭園、松の木は引っこ抜かれてるし、池に架かった三メートルほどの風雅な木造の橋は真ん中で折れてるし。
客間の手前にはフジキノファミリー全員集合。
なんだかみなさん、シリアスです。
そして、聞き覚えがある声。
「税金、払わなきゃいけないのよ!」
「君には離婚したときに相応の財産を分与したはずだ!」
「ばっかじゃないの?! そんなのとっくに使っちゃったわよ!」
「馬鹿はどちらだ! 三十五億だぞ?! しかもまだ三年前だ!」
「ベガスで一晩遊んだら一億くらいすぐになくなっちゃうのよ! ほんと、あなたって常識ないわね!」
「君の常識とやらをいちど疑ってみたらどうかね?」
……え~っと。
この声、お金を要求されている方が雇用主、お金を無心してる方が、昨日、うちの事務所に来た超絶美人ダイナマイトボディ申告懈怠の人の声に聞こえるな……
なるほど、昨日の彼女は雇用主の元妻で、それで昨日、彼女は私に「いやな臭いがする」なんて言ったわけね。
吸血鬼は大蒜が苦手。
一昨日、私、大蒜を収穫したんですよ。収穫の特には軍手してたんだけど、大蒜球洗ったりしてたら、しっかり大蒜臭がこびりついちゃって、昨日の夜でもまだ指の大蒜臭が取れてなかったから。
でもって、私、雇用主もそれなりに非常識な面があると思うんですが、この件に関しては、ものすごく雇用主の肩を持ちたい気がしますね。すくなくとも雇用主はちゃんと不動産収入を確定申告してるし。
ちなみに、離婚したときに受け取る財産分与については、受け取った方(今回の場合は奥さん)に対して贈与税は原則、かかりません。過大な分与には贈与税がかかることになっていますが、なにが「過大」か、なかなか判定できませんしね。いっぽう、分与する側(今回の場合は夫=雇用主さん)が有価証券や土地建物を分与した場合は、時価評価した額で譲渡したと見做して譲渡所得税がかかりますので、現在、浮気や性格の不一致などの事情で離婚調停中で、現物で離婚時の財産分与をしようと思ってる方はご注意ですよ。
身から出た錆の場合もあるとは言え、相手に居住してる住宅は明け渡すは、もちろん売り渡したわけじゃないからお金の手持ちがないところ、税務署から税金を納めるように督促はかかるは、ダブルパンチになる場合がありますので。
有価証券や不動産の譲り渡しには、必ず税務署に登記変更情報(不動産)や売買の調書(有価証券)が回りますから、逃げも隠れもできないことも付記しておきます。
しかし、話を元に戻しますが、三十五億を三年間で使い切り……しかもあの申告懈怠の残念美女、どうやら俗に言うスーパーモデルさんのようで、昨日、試算したところ、年間の課税所得一億円くらいあるんですけど。
(税額は所得税・復興所得税+市・県民税年税額合計約51,000,000円+消費税※所得税の一部は源泉徴収済み)
ほんと、お金って湯水のように使おうと思えば使えるもんなんだな……
私が離婚時の財産分与について思いを馳せているさなかにも続いている、書き留めておきたくもないレベルの不毛な言い争いですが、それとは別に、フジキノさんたちがなんでこのあたりに集まってるのか気になるところ。
フジキノさん含む九人、客間の前の廊下で息を潜めています。ピリピリしてるのが分かる表情ですが、無言。
「家政婦さん、あぶないよ」
怖い物見たさで客間を覗きに行こうとする私に、フジキノさんご一家の最年少、トウコさんが小声で忠告してくださいます。
まあ、ひとめだけ。
開いたままになってる客間のドアからなかを覗いてみると。
お子さまふたりを盾に、金銭を要求する申告懈怠の元吸血鬼氏妻の姿が目に飛び込んできたのでございました。
うわ……なんかこう、いろいろとイタイ。
イタリア職人さんの手作りレースで飾られたカーテンは跡形もないし、なにより客間の中庭に面した方の壁が半分ほど吹き飛んでる。(さっきの大きな物音はこのせいだったわけですね)
来客用に飾ってあるバカラのシャンパングラスやワイングラスの並んだ食器棚は倒れてるし(中の食器が無事だとは到底思えない)ワインレッドの革張りのソファーはズダボロ。
しかしながら、そういう物的被害はこの際、どうでもいいとしましょう。
なんといっても吸血鬼氏、お金持ちだし。
「さっさとお金を用意してよ! でないとこの子たち酷い目に遭わせるわよ!」
「好きにしたまえ。なんなら持って帰ってくれても構わないが」
「要らないわよ! 面倒くさい! 五億くらいでいいから、つべこべ言わずにお金を出しなさい!」
こいつら、ほんとに人の親ですか?!
(いや人じゃないけど)
あの傍若無人なお兄ちゃんさえ母親に首根っこ捕まれて怯えてるよ……嬢ちゃんに至ってはすでに左腕に抱え込まれてぐったりしてるし。
(五億円の要求……申告懈怠による無申告期間の期限後申告五年分にかかる所得税および市民税と消費税に、無申告加算税と延滞税を加算した額約二億五千万円+当座の遊び金分くらいの額ですね。ちなみに二重帳簿等の悪質な脱税でない限り遡る所得税・消費税申告は五年限度))
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」「ヴァンパイア・ダイアリーズ」のスピンオフ作品「オリジナルズ」、「ニア・ダーク 月夜の出来事」「リトル・ヴァンパイア」……吸血鬼とその血族の関係を扱った作品はたくさんあって、吸血鬼同士の愛情や確執を描いています。
基本的には愛と執着なのね。人間は単なる食料に過ぎないけれど、同族、しかも自分と血の繋がったTRIBEには執着するがゆえに離れていったり裏切ったりすることが許せない。
あるいは人間社会において日陰の存在として、マイノリティ同士、互いを守ろうと身を挺し合う存在。
なんかもう、げんなりですよ……とは思うものの、これが現実です。
人間の親にだって愛情の濃淡はあるわけです。
吸血鬼の親だって、当然、いろいろある。
人間の描く吸血鬼物語は、人間社会が見失いつつある価値観を描き出すための道具の側面もあるわけで、そんな「人間が作った価値観」を一方的に押しつけられても困るだけでしょう。
しかし、それはそうとして、扶養義務を果たしていないレベルで問題だと思うよ……私。
(直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。民法877条第一項)
そりゃ、このふたりにとってはこれが愛情表現なんだ、とか、そもそも現実の吸血鬼族は扶養するって概念がないんだ、とか、衣食住満たしてるんだから(注・食に関してはこの父親は満たす努力をしていない。「そのさん」参照)きちんと扶養してるとか、幼く見えてお子さまたち、すでに成人年齢に達してるから親に一方的に扶養義務が発生するのはおかしいだろう、とか、「扶養義務を果たしていないから問題だ」っていう私の考えるところの「理屈」にだって、「人間視点の押しつけ」が含まれてる可能性もおおいにあるんですけど。
しかし、しかしですよ。
しかし、しかし、しかしですよ。
私はマモルさんに、本日、万が一のことを考えて持参していた新鮮野菜、大容量掘りたて大蒜五球入りジップロックを手渡しました。
ほんともうね。
危険労働はいつものごとく押しつけて済まないとは思うけど、私はどうせ退職するんだし、このあと怒られるんなら私が首謀者で怒られることに異存はないんで、
やっちまえ! ってなもんですよ!
マモルさんとトオルさんの姿が変化し始めました。
マモルさんは身長と横幅がひとまわりおおきくなったようです。トオルさんは、ゴリ、っと音を立てて骨格が四つ足獣に変化しました。
で、体毛がぞわぞわと。
目のほぼ真横にある耳の位置が、にゅっと上にせり上がって三角の狼の耳になります。
顔は私の方を向いてないのでよく見えませんが、全体的に平べったい人間の顔立ちから、顎や鼻が突き出した狼の顔に変化しているに違いありません。
おお、凄い!! これが人狼の生変身!
マモルさんは良くあることなのか、ストレッチ素材の服を着ているらしく、窮屈そうですがTシャツもズボンも獣人変化にも持ちこたえています。
トオルさんは慣れたもので、身体が変化するとシャツとズボンをするっと抜け出しました。
ミカコさんとリカコさんが身振り手振りでお子さんたちに息を止めておくように指示を出しています。
でもって、最年少組さんのシロウさんとトウコさんはフジキノさんと私と一緒に後方(玄関のほう)退避。
まあ、この場で我々に出来ることは皆無ですからね。
せめて邪魔にならないようにするわけです。
マモルさんが大蒜を潰したようです。
ぶち抜かれた客室から吹いてくる風にのって仄かに独特の香りが。
うん、今年の大蒜もいい出来だ!
ガウ、と一声、マモルさんとトオルさんが突入。
「いやあああああ! なんなのこのヒドイ臭い! この服全部で五百万くらいしたんだから!」
元妻さんの絶叫です。
しかし、五百万円の服って。宝石でも縫い込んでるんでしょうか。
遅れてタツコさんとマサオミさんが突入し、人質(息子・娘)の確保どころじゃなくなった元妻さんからお子さんたちを奪取した模様。
すぐに客間からふたりを抱えて出てきました。
それを確認してマモルさんとトオルさんも部屋から走り出てきます。
で、あとの我々のやることは決まっています。
とりあえず皆で遠くまで逃げるんですよ。
脳内ミュージックはDo As Infinityの「遠くまで」にしておきましょうか。
映画「バンパイアハンターD(2001年)」の主題歌です。
と、まあそんなこんなで、面倒くさい元妻さんと、ちっとも役に立たない雇用主さんを、大蒜臭漂う壁のぶち抜かれた客間に放置して、みんなでしばらく若〇山に不法侵入して(奈〇市、入場料についてはごめんとしか言いようがないです)コンビニで買ったお茶を飲んだり、新発売のスイーツを試したりしながら、二時間ほどのんびりだべっておりました。
ちょっとショックを受けていたらしく、いつもの元気はどこへやら、しおれていたお子さまたちも、二時間後にはだいぶ元気になりましてね。
シロウさんとトウコさんが捕まえてきた鳩の血をちゅーちゅー吸って笑顔を取り戻しておりました。
吸血鬼氏宅って、フジキノさんのご家族がいるから、なんとなく「家族」の態をなしてるなって思いますよね。
フジキノさんはお仕事なんで、もうあと二十年くらいは勤めるとして、お子さんたちは仕事を持ったり家庭を持ったりして、これから吸血鬼氏宅を離れていくわけです。
大丈夫かな、と思うわけですが、吸血鬼氏のお子さんたちだって成長するか……逞しく育つんだよ。
あの、お父さんとかじゃなくて、フジキノさんちのみんなを見習う方向で。
そうこうしてるうちに、吸血鬼氏がやってきました。
元妻さんは、あのあとすぐ逃げてどっかにいったそうです。
お金目当てなんでまたそのうち来ると思いますけど、今夜のところは退散。
ってか、私これから毎年あの人の(人じゃないけど)確定申告手伝うんですよね……確定申告のたびに「お金がない!」って吸血鬼氏宅に押しかけてきそうだな。
元妻さんが逃げた後、たぶん近所の人があの大きな物音を通報したんでしょう、警察がやってきて……面倒くさくなったのでこっちにきたのだそう。
ちょいまち。
現場検証とか事情聴取とか、付き合わなくていいんかい。
まあ、元妻さんが出ていったんで、いつもの通り新聞読んでたら警察がきたんで、自分で応対するのが面倒だから「説明できる者を呼びに行く」とかなんとか行って出てきたんだろうな。
携帯電話でフジキノさんを呼べばいいのに、出てきたところをみると、よっぽど警察の質問がウザかったんでしょう。
いやでも警察に協力するのは良き市民の義務ですよ?……って言っても、この雇用主には通じないか。
それはそうと、お子さまたちが「パパ!」って喜んで駆け寄っていく姿が涙を誘いましたね。
虐待されてても、子どもは親を慕っている(こともおおい)……どっかの本で読みました。
どうでも良いと言えばいいんですが、驚いた点がひとつ。
なんで馬に乗ってくるの?
(じつは雇用主宅、厩を持っていて、馬を飼っています。「そのいち」参照)
たしかに若〇山はベンツで登山できませんけれども。
真っ黒い馬の手綱を華麗に捌いてやってきた雇用主さんは、さっき元妻さんにお金を無心されていた方と同一人物には見えませんでしたね……一言で表現するなら、格好いい。二言で表現するなら、無駄に格好いい。
しかしまだ午後九時ですよ。
自宅から登山口までは車道を通ってきたはずで、なんというか、ドライバーの皆さん、なんだか珍しいものを観てしまったに違いない……
金髪に(六月なのに)黒のロングコートを身に纏い、颯爽と馬の手綱を駆る変な人……
なにかの撮影に違いないと、思ってくれてるかな。
どうかな。
この驚きポイントについては後日、種明かしがありまして、馬に乗ってきた理由は「先日、奈〇県警から『高齢者ドライバーのみなさまへ、免許返納のお願い』っていう葉書が来たんで、最近、運転はフジキノさん任せだし、まあいいかって、運転免許は返納した」=自動車に乗れないんで、馬で来た、とのこと。
見た目は若くても戸籍年齢はそれなりってことですね。たぶん七十歳以上? ってか、これまでどうやって免許の更新してきたの?
平成三十年六月六日
昨日は結局、バタバタしたんで退職願は提出できず。
しかも、あのバタバタで退職願をどっかに落としてしまったようで、もう一通作って今夜の提出に備えます。
掃除もしますよ。
まだ仕事辞めたわけじゃないんで。
洗濯物が溜まっているはずなので、なにはともあれユーティリティに行こうと、昨日、破壊された客間の前を通りました。
爆弾でも爆発したみたいに、見事に壁が半分ぶち抜かれていて、なかの家具で無傷なのはなにひとつありません。
しかしこれ、警察にはなんて説明したんでしょうね?
「元妻がお金の無心に押しかけてきたんで、元夫婦のよしみで軽く喧嘩してました」……いくら奈〇県警が暢気でも信じないだろうな……
しかし……なんというかこう、無残ですよね。
私、客間のカーテンのしみ抜きとか、ソファのお手入れとか、食器磨きとか頑張ったんだけども。
形あるものはいつかは壊れるものだとは分かってるんですけどね。
ちょっと感慨に浸りつつ溜息を吐いていると、フジキノさんがやってきました。
手に、紙切れを持っています。
「これ、昨日落とされたでしょう?」
って仰るので見てみると、たしかに私の退職願です。
いえまあ、ここが勤めにくいとかそんなんじゃないんですけど、当初の目的は達成したので勤める理由がなくなったというか……
「日給を一割アップでいかがです? よろしければご当主には私が掛け合いますが」
なんて、フジキノさんは仰ってくださいます。
「しばらく客間の修繕工事が入る関係で、昼間、母屋に人がいないといけないんですが、私は夜、ご当主の運転手をしなければいけないときが多くて、毎日、昼の監督に起きているのはさすがにつらいのです。土日だけでも家政婦さんが代わりに監督してくださると有り難いのですが」
はあ、なるほど……
「あの……済みませんが、週四日勤務くらいにしてくださいます? さすがに『できる限り毎晩勤務』はしんどくて」
「いいですよ。それもご当主に掛け合っておきます」
と、言う次第で、私の退職は有耶無耶になったのでした。
悪魔に魂を売るって、きっとこんな感じに違いないと思った今日この頃。こう、さりげない日常会話の中でするりと魂を売る瞬間がある、みたいな。
でもね。
……トイレの温水便座も調子悪いし、最近、トースターも壊れたし、ガスコンロも新調したい。
今回の大規模修繕が終わったら、下水の配管の取り替え工事も何年かあとにやるって、マンションの管理組合の人が言ってたし。そうなるとまた一時金がいるな、きっと……
あとほら、来年の申告所得税額と市民税額は家政婦報酬が加わるのでかなり高額のはず。
結論としては、お金は稼げるし、思い出したくもない思い出は思い出さなきゃいいんだし、ここのバイト、もうちょっと続けてもいいかも、そう思うのです。
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