『いい夫婦の日』side伊織(2)


「!」

 視界が変わった。

 支えを失った俺の頭が、大和の膝の上に着地する。

「……!」

 大和はちょっと驚いたような表情で言葉を飲み込み、俺の顔を見下ろしている。

 見慣れない角度に、近すぎる距離に、俺の呼吸が一瞬止まる。

 だから、今はまだ——

「……カタい」

 声が揺れないように、眉根を寄せて言ってみる。

「は?」

「大和のひざ枕、全然柔らかくない」

「お前なぁ」

 そう言って呆れたように吐き出された息が、大和のスウェットから香る柔軟剤の匂いと混ざり合う。俺は熱くなり始めた顔を隠そうと、手にしていたスマホを目の前に持ってくる。

「じゃあ、頭どけろよ」

 そんなことを言うくせに、大和は無理やり俺の頭に手を伸ばすことはしない。困ったように顔を背ける姿が紺色の枠の外にちらりと見える。

「ヤダ」

「ヤダって、全然柔らかくないんだろうが」

 俺に触れようとしない大和。

 こっちを見ようとしない大和。

 そのくせ、逃げ方はいつも中途半端で曖昧。

 本当に困っているなら、本当に気づいていないなら、もっとちゃんと俺を拒めばいいのに。

 ——触れないなら。

 ——見ていないなら。

 俺は大和の好きな黒柴の動画へと指を持っていきながら、つぶやく。

 どうせ、聞いてなんかいない。

 どうせ、気づいてなんてくれない。

「……柔らかくないのが、いい」

「……」

 再生された動画から思ったよりも大きな音量で音が流れ出す。

 芝生の上をひたすら転がる黒柴の姿に、小さな笑いがこぼれる。

 これなら大和も素直にこちらを向いてくれるだろう。

「あ、大和、コレ観て」

「?」

「コレ、めっちゃ可愛いから」

「……確かに、可愛いけど」

 一瞬の間が、不自然に泳いだ視線が、収めたはずの熱を蘇らせる。

 騒ぎ出す鼓動に気づかないフリをして、俺はいつもと変わらない声で答える。

 大和は俺ではなく、俺の手元の画面を覗き込んでいるのだから。

「だろ?」

 変わらないこの距離が、今は心地いいから——



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